ローマ法王ヨハネ パウロ2世(84)が2日午後9時37分(日本時間3日午前4時37分)、バチカンの法王宮殿で死去した。四半世紀以上にわたる在位中、他宗教と対話や和解を進め、世界10億人のカトリック教徒の精神的な支柱として大きな足跡を残した。発言は母国ポーランドをはじめ東欧諸国の変革にも影響を与えた。104回もの外国訪問を重ね、「空飛ぶ聖座」と呼ばれる活発な外交でイラク戦争にも強く反対した。


 法王死去にともなう次期法王選挙(コンクラーベ)は15~20日後をめどに行われる見込みだ。世界中に散らばる80歳未満の枢機卿約120人が、義務として招集される。新法王は参加者の互選で決まる。

 法王は2月、インフルエンザの悪化と呼吸困難で2度入院し、気管切開の手術を受けた。3月13日に退院したが、持病のパーキンソン病の進行が加わり徐々に体力が衰え、3月末の復活祭やそれに伴う一連の行事を78年の即位以来、初めて欠席。声が出せない状態が続いていた。

 1920年5月18日にポーランドの古都クラクフ近郊で生まれた。本名はカロル?ボイチワ。ナチス?ドイツ占領下、地下組織の神学校で哲学?神学を学んだ。戦後司祭になり、63年にクラクフ大司教、67年に枢機卿。

 78年10月16日、在位34日で死去した前法王ヨハネ?パウロ1世に代わって法王に選出され、同22日に即位した。イタリア人以外の法王は、16世紀のオランダ出身のハドリアヌス6世以来455年ぶりだった。

 81年5月にはサンピエトロ寺院で狙撃されたが一命をとりとめた。

 最も力を入れたのは、平和の訴えだった。「暴力と武器は問題を解決しない」と繰り返し、91年の湾岸戦争などに強く反対。03年のイラク戦争前は特使をイラクやホワイトハウスへ送り込み、戦争回避の説得を続けた。

 カトリックの教義においては超保守的だったが、対外関係では「開かれた教会」を目指して多くの改革にも着手。他宗教と協調を図る柔軟路線へ転換した。11世紀にカトリックと分裂した東方教会(正教)をはじめ、16世紀の宗教改革で分かれた新教諸派と対話を重ねた。

 東欧改革をはじめとする世界政治にも大きな影響を与えた。戒厳令下の83年に母国ポーランドへ戻り、弾圧されていた自主管理労組「連帯」を支持。「モラルの勝利になるだろう」という法王の励ましは、社会主義政権への抵抗運動の精神的な支えになった。

 81年2月に来日し、広島、長崎などを訪問した。広島では「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うこと。広島を考えることは、平和に対しての責任を取ること」と軍縮?核廃絶を訴える平和アピールを発表した。


ーーーーーーー 『朝日新聞』