Archive for 十月, 2005

  新华网北京10月27日电 中国现代民族工商业者的杰出代表,卓越的国家领导人,伟大的爱国主义、共产主义战士,中华人民共和国原副主席,第六、七届全国人民代表大会常务委员会副委员长,中国人民政治协商会议第五届全国委员会副主席,中华全国工商业联合会原主席,中国国际信托投资公司原董事长荣毅仁同志,因病于2005年10月26日20时31分在北京逝世,享年89岁。



生平简介:


  1916年5月生,江苏无锡人。1937年毕业于上海圣约翰大学历史系。民建成员。


  1937年任无锡茂新面粉公司助理经理。1939年兼任上海合丰企业公司董事。1943年兼任上海三新银行董事、经理。1945年任无锡茂新面粉公司经理。


  1950年后,历任申新纺织公司总管理处总经理、恒大纺织股份有限公司董事长、上海市面粉工业同业公会主委、华东行政委员会财政经济委员会委员。1957年任上海市副市长、市工商联副主委。1959年任纺织工业部副部长,国家进出口管理委员会顾问,中国和平统一促进会会长。1978年任第五届全国政协副主席。1979年任中国国际信托投资公司董事长兼总经理。1982年—2001年3月任宋庆龄基金会副主席。1982年后任香港特别行政区基本法起草委员会委员,暨南大学校董事会董事长。1983年起任第六、七届全国人大常委会副委员长,同年当选为全国工商联第六届执委会主席。1992年12月至1993年任第一届海协会名誉会长。1993年3月至1998年3月任中华人民共和国副主席。1993年3月辞去中国国际信托投资公司董事长的职务。1996年9月9日被推举为中国扶贫基金会第三届理事会荣誉会长。


  历任全国工商联第一至五届执委会副主席(副主任委员),第六届主席;民建第一至四届中央常委、副主委。


  是第一、二、三、八届全国 人大代表(上海),第四、五届全国人大常委;第二届全国政协委员,第三、四届全国政协常委。


  1957年曾被陈毅副总理誉为“红色资本家”。1979年创办中国国际信托投资公司,开创了中国第一个对外开放的窗口。1986年底,被美国《幸福》半月刊评为世界50名知名企业家之一,是建国后国内企业家跻身世界知名企业家行列的第一人。


  1992年12月获美国加州荣誉公民称号。


  爱好:业余摄影、收藏相机、养玫瑰花;足球,尤爱女子足球。


  父亲:荣德生;伯父:荣宗敬;夫人:杨鉴清,有四女一子;儿子:荣智健。



资料来源:新浪网


 ヘビー級の世界王者に挑戦するジム?ブラドックは、戦う目的を記者団に問われ、「ミルク」と答えた。実在のボクサーを描いた米国映画「シンデレラマン」の印象的な場面である。

 彼には妻と3人の幼い子がいる。妻はミルクを水で薄めて増やした。ブラドックは「夢でステーキを食べた」と言って、自分の食べものを子どもに与えた。大恐慌とそれに続く長い不況の時代の物語である。

 ニューヨーク株式市場で株が大暴落したのは、1929年10月24日、76年前のきょうのことだ。それをきっかけに大恐慌が始まった。企業や銀行が倒産し、失業者が街にあふれた。多くの農民が土地を手放した。大恐慌は欧州や日本にも及んだ。

 ブラドックも、リングで稼いだ財産を失った。そのうえ、手を骨折し、試合に勝てない。港の荷役の仕事にもあぶれる。光熱費を払えなくなり、妻は3人の子を親類に預けた。子どもを手放すのは、人生をあきらめてしまうことだ。ブラドックはボクシング界の幹部らに頭を下げ、光熱費を恵んでもらう。

 「食べるのに必死の時代だったから、家族や地域で結束した面がある」と語るのは、アメリカ経済史専攻の秋元英一?千葉大教授だ。秋元教授は「1930年代の米国は意外に活気のある時代だった。どん底に追い込まれたので、社会主義を主張しようとも、実験的なことに挑もうとも許された」と言う。

 ブラドックは勝ち目の乏しい試合に挑んだ。奇跡的に復活して勝ち進み、ついに頂点に迫る——。株の大暴落から6年、米国の苦闘はなおも続いていた。

 ニューヨークの国連本部の総会議場に行ったのは3年余り前のことだ。9?11の同時多発テロから半年後のニューヨークを取材に行き、テロで崩された巨塔の跡を見た後だった。

 総会は開かれていなかったが、がらんとした議場の隅にしばらくたたずんだ。この空間は、いわば米国の中にあって米国ではない。各国が座を占める「もう一つの世界」が、息を潜めて波乱に身構えているようだった。

 その後のイラク戦争で、国連は大きな試練を受けた。国連の創設を主導したのは、ルーズベルト大統領の率いる米国だった。その国が、大量破壊兵器の脅威を掲げて単独行動主義に走り、国連と世界を引きずり回した。

 最上敏樹?国際基督教大教授は、近著『国連とアメリカ』(岩波新書)で「しっぽが犬を振り回す」状態と述べた。最上さんは、第2代事務総長ダグ?ハマーショルドの言葉を引く。「私たちの仕事が平和のための戦いであるなどと言うのは大げさすぎます。しかしこの仕事は、分裂と暴力の洪水をくい止めるためのダムを建設する仕事ではあります」

 国連の事務職員に向けたこのスピーチの直後、ハマーショルドは紛争地に向かう途上で殉職した。最上さんは「いわば国連は、人類がその喪失の淵で踏みとどまるために作られたのだと思う」と記す。

 国連は24日に創設60周年を迎えた。本部ビルは老朽化が進み、先日は天井の雨漏りで総会議場が使えなくなった。建物もさることながら、喪失の淵で踏みとどまるための仕組みも「築60年」を機にしっかり点検しておきたい。

 調査票が燃やされたり、調査員が多数辞退したりと、今年の国勢調査は騒ぎが相次いだ。多くの人がプライバシーに敏感になる中、これまでのような調査の仕方や調査内容では立ちゆかないかもしれない。

 「国勢調査」は英語のcensus(センサス)を訳したものだという。語源は古代ローマの時代にさかのぼり、センソールという職名をもった市民登録や税金などを担当する役人が行った人口調査を意味している(「国勢調査のはなし」80年に国が発行)。

 1920年、大正9年の10月に実施された最初の国勢調査ではこんなポスターが作られた。「国勢調査は社会(よのなか)の実況(ありさま)を知る為に行ふので課税(ぜいきん)の為でも犯罪(ざいにん)を捜す為でもありません」

 それから80年たった前回00年の調査の後、総務省が1万余世帯を対象に調べたところ、「答えたくない質問事項」は「勤め先の名称?事業の種類」が一番多く3割強あった。以下、最終学歴などを尋ねた「教育」、「家計の収入の種類」と続く。

 調査票を前にして、戸惑う様が浮かぶ。総務省は「勤務先の名称」は正確な産業分類をするために必要と説明する。しかし、その結果が具体的にどう行政に利用されているかについては「把握していない」

 1回目の調査では「宣伝歌謡集」もできた。「調査する日の近づかば成たけ旅行(たび)をせぬものぞ/火の元用心第一に伝染病にも気をつけよ/是等の禍起りなば調査の妨げ如何(いか)計り」。国家の一大行事だった時代は、すでに遠い。あり方を広く見直し、新しい時代に合った調査にしてゆきたい。

 「十月の明るいある朝、はれやかな朝日を浴びて、わたしはヨコハマを出発する」。フランスの海軍軍人で、明治期に日本を訪れたピエール?ロチの『秋の日本』(角川文庫)の一節だ。この見聞録には、彼の小さな発見が詰まっている。

 にぎやかな東海道から田園に入り、小さな女の子たちが幼いきょうだいを背負っているのを見る。背中にひもでぴったりと結び付けている様に、ロチの従卒が言う。「頭の二つある子供たち」

 ある家の前でロチは突然「大きな憤懣(ふんまん)を覚える」。「ぢいさんとばあさんが、てっきり食べるためだろう小さな二人の女の子を煮ているのだ!」。すぐ入浴と分かったが、桶(おけ)の下には火がかっかと燃えていたと記す。

 ロチは「お菊さん」でも知られる。大正の終わり近く、その死を聞いた芥川龍之介は追悼しつつ書いた。「ロティは偉い作家ではない。同時代の作家と比べたところが、余り背の高い方ではなささうである」(『玄鶴山房?河童』新潮文庫)。

 芥川は、土砂降りの往来に似た人生をたどる人にとって、まず必要なのは雨をしのぐ合羽(かっぱ)だという。「新しい人生の見方」のような合羽を与えるのが「偉い芸術家」だが、ロチは「新しい感覚描写や抒情(じょじょう)詩」といった往来の「提灯(ちょうちん)」を与えた、と。

 ロチは、あの「ぢいさんばあさんの奇怪な料理」の家を去りながら記した。「この小さな一軒家、この料理、わたしたちが今後二度とお目にかかることのないこの正直な人人のにこにこ顔……」。ロチの小さな提灯が、時の肖像を未来に伝え続けている。

 100年前、オーストリアに車道楽の富豪がいた。「愛される車には女性の名がふさわしい」という信念の持ち主で、まとめて36台注文する見返りに、今後すべての車に愛娘(まなむすめ)の名をつけるよう製造元に迫った。メルセデスという11歳の少女である。そのまま商標登録された。

 日本の先駆者は車名に頓着しなかった。国産ガソリン車の第1号は明治末、東京の自転車商吉田真太郎氏が作った。車名は特につけなかったが、ガタクリ、ガタクリ騒音を立てて走ることから「タクリー」と呼ばれた。

 戦前の自動車界に詳しい佐々木烈氏(76)は「タクリーというあだ名には当時の国産車へのさげすみが感じられる」と話す。舶来信仰の時代でフォードなど輸入車に太刀打ちできない。10台ほど製造されただけで、タクリーは自動車史から消えた。

 戦後、大衆車の時代が到来すると、メーカーは車名を競い始める。当初、トヨタではカローラ(花冠)など冠にちなむ名が多かった。ホンダ車では音楽に由来する名が特徴で、日産は小説「小公子」の主人公セドリックなど名作路線を歩む。

 最近の車名選びはかなりの難事だ。語感がよく、商標登録されておらず、輸出先の国々の言語でも不快感を与えない。すべての条件を満たす言葉を探して、何カ月も費やす。

 東京モーターショーの会場を歩いた。エッセ、ピボなど耳新しい名もあれば、1世紀前と同じ少女メルセデスの名もある。この中に100年先まで永らえる車名があるのか。きらびやかな会場の隅で、車社会の先行きに思いをめぐらせた。

 小さなブタにひもをつけて散歩をさせている女性を何度か見たのは、3カ月ほど前だった。高速道路の下を車が激しく行き交う東京都心の交差点を、ピンク色のブタがちょこちょこ行く。

 先月は、同じ東京の中野区で、逃げ回る3匹の子ブタが捕まった。ペットとして飼われていたガレージのフェンスのすき間から逃げ出したという。

 日本の各地で、意外な動物が町の中や他人の家で見つかる騒ぎが目につく。記事の見出しを拾ってみる。「押し入れにニシキヘビ」「イグアナが日光浴?」「庭に毒サソリ」「路上にオオサンショウウオ」「凶暴なり カミツキガメ」

 なかなかの迫力だが、動物たちにしてみれば、人間の勝手で連れてこられた場所で、何とか生きようとしているだけだ。気味が悪いとか、凶暴などと言われるのは心外だろう。

 3匹の子ブタを捕まえた警察署では、住民から様々な「ペット逃走」の通報があるため、巡回のパトカーに捕虫網を常備しているという。署の幹部が語る。「警察には困りごと処理のコンビニのような機能もあるので、通報があれば捕まえにゆく。でも捜査や事故処理などの本来の職務に支障が出ないか心配になる」

 動物は、閉じこめられるのがいやだろうし、常に閉じこめておくことも難しい。オリやかごから出ただけで周りが驚き、恐れるような動物たちにも、それぞれ命がある。もともと身近ではなかったその命が、見知らぬ人間社会の中に置かれている。そういえば、あの交差点のブタをしばらく見ない。元気にしているだろうか。

 鹿児島県の知覧町は、「薩摩の小京都」とも呼ばれる落ち着いた町である。古い屋敷や茶畑の広がる静かなたたずまいと裏腹に、60年前の太平洋戦争中は特攻隊の基地が置かれていた。多くの青年兵士が日々飛び立ってゆき戻らなかった。

 当時、軍指定の「富屋食堂」を営んでいた鳥浜トメさんは兵士らの世話を親身になって続けていた。明日のない青年たちから、母のように慕われた。その次女で当時女学生だった赤羽礼子さんが16日、75歳で亡くなった。

 礼子さんは、92年に没した母や自分と兵士たちとの親交を描いた共著『ホタル帰る』(草思社)を01年に出した。本の題は、出撃前日の宮川三郎軍曹との約束にちなんでいる。その夜、トメさん親子と兵士たちが食堂の横を流れる小川の上を見ると、ホタルが明滅していた。宮川軍曹が言う。「死んだらまた小母(おば)ちゃんのところへ帰ってきたい」「おれ、このホタルになって帰ってくるよ」。店に入れるように表戸を少し開けておくと約束する。

 軍曹が飛び立った日の夜、わずかに開けていた戸のすき間から一匹の大きなホタルが入ってきた。気づいた娘たちが叫ぶ。「お母さーん、宮川さんよ」

 青年たちの生が次々に絶たれる。予告され覚悟する兵士たちと見送る人たち。その悲痛な姿は、爆弾を抱えて体当たりせよという命令によってもたらされた。そしてその異常な命令は、あの戦争を始めたあげくになされた。

 礼子さんやトメさんと兵士とのきずなは胸をうつ。その伝言は、死を強いる戦争の醜さを伝え続けてゆくだろう。

  转眼间,将近4个月过去了。上月末,94b2005网上班会召开;本月初,学校40周年校庆。重拾旧话吧。还是地理篇,讲述94年的黄婆洞。


  宿舍区,从相思河出发。


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  “为有源头活水来”,有人爱说水之于大学的重要性, 则广外幸而还有这股清流。把相思河说成清流,希望不要有人笑我。其实,那水在入广外前的确尚算清流,只不知怎的,由附小至南门,又在招待所(现医务所)门前转了个弯后,污泥越积越多。校内最后一段在三栋后小篮球场旁那片姜花盛开的河沟。最后的最后,北门外化龙桥下的那条黑水,谁还认得那是相思河吗?


  相思河自来是读书拍拖两相宜的圣地。河水潺潺,两岸紫荆逶迤。某些季节,还能看到南方特产—-纷纷上岸的田螺(不认得螺,姑以田螺代之)和布满岸壁的粉红螺卵。学校有早读、晚读以及听外台的学习传统,我尝试过在六点四十来到这里,也占不到半条石凳,从此放弃。相思河也许有过许多故事,也许她只是默默地听着许多故事,那些都不是我知道或者能表达的。前些日子,有人写了一首《相思河》,我怎么看,都觉得此河非彼河。留给大家去判断吧。小河在招待所拐弯后,沿电影厅旁的校道流过电话所、篮球场、排球场,最后滋养了一丛水泡桐流进宿舍区。但也从此与我们有了一墙之隔。


  宿舍区第一站是“增强人民体质 发展体育运动”影壁背后的三个篮球场。这三个篮球场,ookyoo、陈san、tei大概更熟悉吧。新生篮球赛的赛场之一。记得自己曾和于蓝来这里给ookyoo加油,一起酸酸地看她已经和大四的混熟,无暇理会我们。再后来,我们曾经在这里做过早操,但已经记不得是哪一年的事了。篮球场之间一条小路通向位于学生宿舍一栋的体育器材室。那里和我中学的体育器材室一样昏暗潮湿,我只在帮忙取垒球用具的时候来过一次,里面充满了灰尘和球类的古怪味道。一栋似乎也可以从这里进,因为那次因头盔过敏后,我曾从这里冲进一栋一楼的水房冲洗。


  通往宿舍区的路在篮球场的东端,那时还是石子路。篮球场一侧有两株紫荆,一棵开粉红花,一棵开白花。ETSU在这里有一张超美的留影。另一侧,在杂草丛中,一堵广州特色的黄色矮墙直立,还记得吗?是开水房,在路的另一边与篮球场相对。开水房外总放着许许多多水壶,大多是红色的塑料热水瓶,共同的特点是都用涂改液写着房号和姓名缩写。开水房里开始好像是个干瘦男子,后来是个小伙子了。水房里靠墙有两排水龙头,一排是开水,另一派则是热水。开水房楼上是热水澡房。好像是分男女的,但极少见到男生光顾。由于洗热水澡不便,学校里许多人洗了四年的冷水澡,女生也不例外。学校每学期给每人发一张水卡,按月计,我记得大约每个月有35个号。每个号可打一壶开水或一桶热水。也就是说,几乎平均每日只能打一次水,能喝就没得洗,能洗就没得喝。因此,长期以来,跟打水卡的gg斗智斗勇也是我们的乐趣之一。或趁人多进出,逃打水卡;或在打热水洗澡的时候,蹭些开水等等。还做早操的时候,我们会在上操时把水壶带去,有人放在宿舍楼底,有人直接放到水房外面。后来不做操了,就多是上课的时候才拿过去了。学校发的红塑料水壶保温性能不行,有时因为担心回宿舍太晚,赶不上打水,就先打好水一样放在外面,拿回来都已经是温水了。水房内有楼梯上二楼冲凉房,六点左右最是拥挤。占位、排队在这里一样通用,与图书馆不同的只有占位工具–桶而已。冲凉房里分成两个区,一边水台,供大家洗头用,另一边则是一间间的冲凉房,房门口正是红桶们排队的地方。记得有一回在北方交大住宿,去商店买桶,售货阿姨很奇怪的看着我问:今天已经有几个人来买桶了,你们要桶干什么?我说:洗澡啊。她说:洗澡为什么要用桶?不是用盆吗?后来与某天津人说起,他告诉我,北方人只用桶拖地。可我们拖地有拖桶,这个他倒觉得新鲜了。而那一间间的冲凉房,也是在这一年我才知道并不是理所应当的。北方交大到澡房洗热水澡要另外交钱,对我这种非本校人员,各项费用加起来一次竟要6元!而且澡房里只有一个个的莲蓬头,别说门,连隔墙都没有。想想广外那简陋的冲凉房还是很幸福的。


  沿小路走向宿舍区,水房旁边是生活服务部、冰室、理发室;篮球场旁边是告示栏、一二栋宿舍入口。生活服务部即是日用品商店,麻雀虽小,五脏俱全。最神的是那里的店员可以随时用他手里的收音机给你调出需要的外台,销量自然不错,几乎包了全校的收音机生意。这些内容,不知现在的学生听了会不会觉得奇怪,那时候没有数字电视,没有电脑、网络,接触最新的外语资料只能靠短波。每天早晚,都会看到路上走过的学生人人手里端着个收音机,扯着长长的天线,全神贯注,念念有词。生活服务部里让我有深刻印象的商品还有方便面、牛耳朵&梳打饼、卷纸和音乐盒,挺奇怪的几种东西吧。7毛钱的华丰面是舍友们常买的,而我则爱买同是7毛的方便米粉。我们琢磨出各种吃方便面的办法,有时候在饭堂打五毛钱的青菜配,有时候买一两个西红柿配。在最勤快的大三,我甚至能在六点半上操之前,煮好并吃完米粉,直接从操场去课室早读。饼干从牛耳朵开始,到毕业时候全改买梳打饼了。牛耳朵的价钱从2块涨到2块2,最后涨到2块5一斤,有趣的是有人叫它猪耳朵,有人叫叫它龙耳朵,还有叫马耳朵的,好玩死了!梳打饼则可以是2块钱/斤的散装饼,也可以是2.5元/包的奇宝奶盐/芝麻梳打。说起卷纸,现在也奇怪,为什么没想过一条条地买呢?那时我们常买1元/卷的洁柔,包装上是绿色的荷叶和紫红的荷花。后来有一天,不知道谁发现新出了一种叫东京猫的纸,同样价钱,但质量要好些,从此洁柔与东京猫两分天下。走过方便面、饼干的货架,有一扇小门,里面被称作精品店。说白了就是些可以作礼品的东西。有意思的是,磁带也作为精品摆在这里的货架上。于蓝在这里买了音乐盒,《love story》。没有跳舞小人,只有一个摇柄,慢慢摇出丁丁冬冬的声响。嗬嗬,音乐盒大概是当时宿舍里最小资的东西了吧。


  生活服务部旁边是一个简陋的院落,这个地方正名似乎叫冰室,不过大家都同称之为小黑店就是了。也有人说生活服务部叫大黑店,依稀记得410女生这样叫的。小黑店屋内屋外都摆着饭堂那种四人铁皮桌凳,店里终日昏暗,有着广式杂货铺那种简陋而拥挤的柜台。在这样的店里,最好不要指望自己找到什么,直接问就好了,一般不会让你失望的。店内成长条形,老板娘常站在她的柜台里不知做着什么。有时会听人说她很凶什么的,我只觉得她是个很麻利的当家婆娘。设身处地地想一想,也只有她那样,才能将就这么个破房子养家挣钱,用这个破房子给许许多多不完全三点一线的学生留下一些云淡风轻的回忆。那个小院里,那些桌凳上,男生多于女生,啤酒饮料多于吃方便面肠粉,高谈阔论多于喁喁私语……对了,这家小店可是当年学校里唯一一处有饮料机的地方。我也就是在这里最初落下了腐败的名声。那时,喜欢在体育课后,和ookyoo、于蓝、金银一起来这里喝可乐。学校的自来水水垢很厉害,也风闻容易导致结石云云,总之在抵抗情绪最强的那段时间,这成了我拒绝喝水的一个理由。当然,也多亏了有开学时那笔奖学金,不然,两块五一杯可乐,两块五一支怡宝,再怎么省吃俭用,也不能经常买啊。


  黑店围墙外面是一家小发廊,我好像在这里剪过一次头发,印象不深了。无论如何,我这种一年都剪不了一次发的人对发廊和理发师是没什么发言权的。


  这小小的商业区对面,也就是路的另一侧,沿着篮球场边上那三株紫荆下来时告示栏和一二栋女生宿舍。嗬嗬,这个告示栏,就是9月2日那天我找电话所向北走得最远的地方了。告示栏的内容当然五花八门,也有过比较爆炸性,即刻被揭掉的。最令人期待的自然是每星期的电影预告。当干部时,我在这里贴过日语角海报;丢随身听时,我在这里贴过寻物启示。不过,后者没好意思属自己的名字,而简竟然说我想出来那个谐音姓名比YM好听。嘻嘻,那时有一点得意。


  一二栋住的大多是英语专业的女生,要按系分当是英文、国贸、涉外秘三系。两栋宿舍共用一个入口。走进大铁门,传达室在左手边,右边有棵大树,仿佛是榕树吧。那里好像还是她们的单车棚。两栋楼中间有个大草坪,早上会有人在草坪上早读。这可是别栋宿舍都没有。宿舍入口的校道两侧分别有一棵高大的紫荆树,开得紫红色花朵。这种紫荆和ETSU的紫荆不同,至少高出两三倍,另外,开花时,不会把叶子落光。所以,说实话,这树常年不是深灰绿就是掺上紫红色,略显揉杂,并不那么美丽。


  此后则是一段矮墙,右边矮墙外,相思河汩汩流过,大约灌溉着山脚那一片菜地。左边矮墙内则是风雨礼堂的场地。可以想象,礼堂入口也不远了。还是铁门,那破落的样子让你想象不出它晚上还能关上。礼堂面对着这入口的大门一般是关着的,我印象中只有新生报道的时候会大开。大门两侧的小间,左是外语书店,右是门房。看门的驼背老头就住在里面。有时他也会睡过,以至我们蓬头垢面从宿舍奔出,却被锁在门外。HL则号称他曾受命越门而入,叫醒老头来开门。哎,太不人道了。风雨礼堂前面已经介绍过,这里不再赘言。只看这个围绕着它的L字形院子,正面前庭是我们大一做操的地方,记不得94泰语是不是也在这里了。那时有两个前辈在前方即礼堂入口处领操,勉强相当于教操了。其中一个便是美女师姐曾hh。后来我们不再是新生,做操地点就改到礼堂侧面的排球场上,与93级日语班比邻。这个做操区,最边上靠沙地的好像是93越南语班。之所以有印象,是因为他们居然时常统一穿着红彤彤的校服出操。而每当此时,我总会庆幸自己幸好不是93的,那校服真不好看:)


  外语书店是个私人经营的小小书店,杂乱拥挤的书架,中间是个小小的展示台。开店的女子高个长发细眼,嘻嘻,“懵ZHU眼”:P 她丝毫不在乎天地狭小,而总是打扮得像要走伸展台。时而披下一头秀发,时而盘起发髻露出白皙的脖颈。她每天就淡淡的坐在入口处,面前摆着一些售卖的磁带。说来怪,这里买的外语书基本都是翻印原版,但磁带却有许多正版。比如山口百惠的《惜春》,20大元呢。后来不知道哪一天开始,她开展租书生意,辟出两个书架放言情武侠为主的小说,客人明显增多。也从那时开始,410女生考试期间有了解压的方法。


  相思河一侧的围墙在这一段有个豁口,可以看到并跳过小河走进对面菜地里。再往前走,是我最熟悉的三栋,大概要多费些笔墨了。三四栋又合用一个入口。四栋94年始建成,位置却在三栋前面,或许该说四三栋才对。四栋不仅新,而且是学校最早由独立洗手间冲凉房的宿舍。那里收费比较高,住的都是进修生。而三栋,听老师们说是学校最老的宿舍之一,他们当年男女生合栋的时候就住在这栋,男生一二楼,女生三四楼。难怪三楼楼梯口有一道铁门呢。


  门房在四栋一侧,有过两个看门的阿伯和一个小伙。两个阿伯一个身材高大,满头银发,非常凶;另一个比较瘦小,头发乌黑,不仅和蔼,而且记性很好。在路上碰到,他都会笑眯眯地跟我们打招呼。由于女生宿舍,男性禁入,从铁门到门房处常站着一对对的情侣。怎么分辨呢?嗬嗬,能穿着睡衣见的大约就是了吧。当然不能以偏概全,也有很多是同学、朋友来找的啦。那时宿舍有门禁,11点熄灯前后铁门内外每天都在上演依依不舍。偶尔夜归,12点还看见有人在风地里站着。阿伯怎么这么狠心呢?门房另一个很重要的作用就是传呼。阿伯扭开传呼器,对着麦克一张口,某宿舍门口的喇叭就会响起:“*** 有人找。”或者“*** 电话。”我们则要应一声“来了”,不然,阿伯还要叫:“*** 在不在?”他偶尔也会很调皮地在喇叭里说:“*** 男孩子找……”等等。我们最喜欢听到的就是电话,尤其是婉。一听说电话,会即刻响亮地回答“来了!”,然后蹭地从上床跳下来,奔将出去。嘿嘿,男生们大概没听过婉那样响亮的声音呢:)还是说传达室吧,电话就在窗台上,接一个电话要给5毛钱(好像有时间限制,半小时以内5毛钱吧)。打出的话,只能打四位数的内线电话。窗台与门之间的墙上挂着一个信箱,四栋女生在这里收信,我们则不是。门房对面是一楼长年上锁的杂物房窗子。那窗台和窗台下的水沟正是早操前、上课前我们放饭盒和水壶的地方,这两个地方可安全咯。


传呼、接电话的地方,窗口已没有了铁栏。



三栋和单车棚。看那高高的大王棕榈,我总想有没有利用它直接下楼的办法



  从这门房和窗台间的通道走进我们的大院,一道单车棚隔在两栋宿舍中间,也算个小小的中庭吧。四栋在左边,还记得吗?在最外面那个阳台和门房之间的小方地上,常见到93某师姐对墙练网球的身影。直到有一天,我自己拿起网球拍(好像就拿过一次啦),才知道她那样一直不断地接球可不是小功夫呢。左拐上楼吧,一楼有防盗网,也有大铁门,只是我记不得铁门什么时候会关。刚入校时,是93女生住一楼,91毕业后,她们就搬上二楼,95级女生则在这里住到毕业。宿舍楼两侧都有楼梯,但因为411在右边,四年来,我从没走过那一头的楼梯。二楼和三楼之间有道铁门,因为很早很早以前,这楼是男女生同住的。三楼住过91和96,OOKYOO曾经跑得最勤的地方。96年左右吧,楼梯拐角处装了记账电话,常常能看到缠绵的背影。


  我们住四楼,是顶楼。这楼每层14间房,其中14号房和1号房是个小单间,在楼梯旁边,只住两人(于蓝和WY)。走廊一侧最靠楼梯是13号房和2号房,房外有个大露台,13号这边是我们晒被子的地方。四楼13号房因为隔出了露台,只住四个人。楼下各层则是个可住十五六人大宿舍。据更老的老生说,这里曾经是电视房。从413门后经过就正式走进四楼宿舍了。走廊左边整对四栋,看见人家有小阳台,有自己的澡房、卫生间,那叫羡慕啊。谁叫我们只交250元/年呢?412是OOKYOO和越南语班女生住的,因为靠水房,且有个已经被钻空了的房柱,是老鼠闹得最凶的地方。412住的是泰语班MM,都是美女啊!咳咳,敝人住411,接着410也是俺们班的。再过去409就是93级A班女生,是91走后,OOKYOO厮混的地方。四楼的东语女生宿舍到此为止了。宿舍门前时晾衣服的地方,地上架起了长条的钢筋架子,给我们放桶的。那长度,基本就是七个水桶和一个垃圾桶的位置。我们一样会用涂改液写上房号和姓名缩写。很多年后,我一直想不通,我们怎么能忍受洗澡桶和垃圾桶放在一起?怎么能忍受把衣服晾在垃圾桶上面?–大概是因为扫地阿姨每天都很勤快的帮我们打扫吧。记得最艳羡的就是泰语班美女的桶架:“弦”“君”“梅”“雪”“兰”“星”“洁”,多好听的名字!晾衣服的铁丝有上下两层,七人的衣服恰恰好。后来上了三四年级,大家开始买回连衣裙,晾衣服的地方就显得局促了。长长的裙裾会搭着下层铁丝,覆在下层的衣服上。


  宿舍是木门的。门上的天窗和两旁的窗户外有铁网。我们来的时候,上下铁网均已开通了老鼠专用通道。房间结构基本是对称的,右边一溜三张架床排到尽头窗边,广东话叫“碌架床”。最靠门的下床放行李。最靠内的床边有入墙书架。房间尽头有窗户,两扇对开的灰色木框窗户,用插销锁。从前写的被第一时间占去的书桌就在这个窗前。杨MH师姐说的这个最好的学习位置那么巧的就被最勤奋的SEKI占了。现在回想起来,印象最深的就是她在那窗前伏案的背影。呵呵,还有她在那里对镜梳头,梳好多好多下,最后紧紧地扎起来。接着把镜子(紫红色方框镜子哦)收好,站起身来,拉扯衣角整理好衣服,把黑书包向身后一背转过身来(有时候会把马尾巴甩起来:)。SEKI大概自己都没有注意到,她总是先跺两下脚才迈开步子,从这里一直走到门口,要跺好几次呢^-^。桌子右边是方才说的一溜架床,分属于婉、小云、我、梓和SEKI。左边还有一张,上下分别是雪梅和小花。其中,梓和小云的床上常年铺的都是草席啊!真是让人佩服。


  房间剩下的就是雪梅和小花的床到门口这一段距离。这里摆着六张书桌。50*100CM的书桌三张三张摆成两个方阵。靠床一边是雪梅、我和小云的书桌,后面则是小花、梓和小云的。小花和婉的位置从两个不同方向离门最近,小花背向门,在她和门边的窗户之间是我们的洗漱架。每逢周一我们都会这样整理,一层饭盒、一层口杯、一层洗发水和香皂盒(后来开始出现沐浴液)、一层洗衣粉……给这些东西排队真是一件有趣的事。房间里还有什么要介绍的呢?还有天花上仅有的两根灯管,大约大三的时候多了两台风扇。这就是我们简单的宿舍。


  三栋至今都没有独立卫生间和澡房。楼道两侧13号房和2号房正对,14号房和1号房旁边的就是公用卫生间和水房。卫生间没有门,澡房只有三间,倒是那个洗衣台很长很大。除了早上做操前,很少看到那里有拥挤的时候。


  下楼吧。穿过那铁门,重新踏上校道。热闹的时候,这门口会有卖大蕉(芭蕉是也)的、卖粽子的、卖玉米的、买汤卖粥的、买煮花生的等等。嗬嗬,都是吃的。记得大三的时候,那大蕉卖8毛一斤。我琢磨了一下,一斤大蕉能吃两顿呢,比饭堂便宜多了。当然是没能坚持,不然我最后就不是肠胃炎吊瓶,而是结石住院了。哈哈!


  三栋背后,荒草从中,有个小小的篮球场。低矮破旧的围墙沿河岸而起,围在球场外侧。尽头三两株木棉挺立,正是看晚霞的好背景。而绝好的位置则是前方的小桥,桥头原有个小小店。有男生称如何与兄弟在这桥头买醉谈心,这不是我熟悉的,但那桥上确是时时有驻足留连的身影。也许吹风,也许看花(姜花),也许看夕阳,也许只是站着……


  走过小桥啊,我和于蓝拿着饭盒聊着走着,走过那些石桌石凳,走过五栋研究生楼,走进六栋旁的破铁门。这里路分两支,向左拐去,经过乐乎商店,就会到学校北门。而一直向前,则是男生宿舍和饭堂去。说那乐乎,我很喜欢这店名,里面的东西跟生活服务部没有大的区别。北门外,就是新生介绍上被妖魔化的饮食天堂。这些奢侈的地方就算了,我们还是来饭堂吧。铁门内右侧是六、七、八栋宿舍。外语院校男生真是少,其实只有七、八两栋是男生的。第三饭堂在左侧食堂区的最外面。这是个神奇的地方,入校的时候,师姐告诉我们这里的饭菜比其他两个都贵,结果三个月后,里面两个饭堂涨价。至少饭钱一样了。广东院校饭堂的特点是汤的品种多。至少两种:一种滚汤,以紫菜蛋花汤为代表;一种老火汤(肯定是假的啦),有霸王花骨头汤;冬瓜骨头汤;菜干猪肺汤;鸡汤……前者五毛,后者1—1.5元不等。第三饭堂在我的大学生涯里只存在了一年,但是却留下了极深刻的印象。记得那天“肥叔叔”(粤语)骑着他的电单车最后一次走过三栋门口,居然跟我打了一个招呼。那时候,心里难受极了。不知道他们又要到什么地方去谋生。三饭堂的早餐有牛腩粉、牛腩面、鱼片粥、肉片粥……;粉可以选河粉、桂林粉、米粉;三饭堂的宵夜有炒牛河、炒斋河、炒田螺、铁板……三饭堂的电线上常常有硕大的老鼠作现场杂技表演……三饭堂不论白天黑夜总是那么昏暗;三饭堂卖汽水,亚洲买1块,可乐却要一块五……


  还有什么说的呢?没有了。讲到三饭堂,就像我大学走过的路,好像就此而止了。就算进里面的一、二饭堂,也常常是从三饭堂外的通道进去的。我也记得偶尔直接进一饭堂,看到门外有卖音乐天堂的,有卖空白磁带的等等,也记得一饭堂外楼梯下有个小店,大约是男生们的衣食小店。但总由于不熟悉,来去仓皇。有熟悉的看客,替我补上吧。恕我不能了。





  中国一代文学巨匠巴金10月17日19时零6分在上海逝世。享年101岁。


巴金生平:


  巴金1904年11月25日出生在四川成都正通顺街,原名李尧棠,字芾甘。四川成都人,无党派。1921年考入成都外语专门学校。1923年到上海,后到南京,在东南大学附中学习,1925年毕业。1927年旅居法国。1928年回国,曾任上海文化生活出版社、平明出版社总编辑,《文学季刊》编委。1934年到日本。1935年回国,在上海任文化生活出版社总编辑,出版“文化生活丛刊”、“文学丛刊”、“文学小丛刊”。1936年与靳以创办《文学月刊》。抗日战争时期,与茅盾创办《烽火》,任中华全国文艺界抗敌协会理事。


  1950年后,历任上海市文联副主席、主席,政务院文化教育委员会委员,华东军政委员会文化教育委员会委员,中国文联副主席,中国作家协会副主席、代主席、主席,中国作家协会上海分会主席,上海市政协副主席,《文艺月报》、《收获》、《上海文学》主编,茅盾文学奖委员会主任委员,中华文学基金会会长,中国田汉基金会名誉理事长,1983年、1988年当选为第六、七届全国政协副主席。1993年3月当选为第八届全国政协副主席。1996年12月当选为中国作家协会第五届委员会主席。1998年3月当选为第九届全国政协副主席。2001年12月当选为中国作家协会第六届委员会主席。2003年3月,当选为第十届全国政协副主席。是一至四届全国人大代表,第五届全国人大常委。



摘自:新浪网


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