Archive for 10月, 2005

  新华网北京10月27日电 中国现代民族工商业者的杰出代表,卓越的国家领导人,伟大的爱国主义、共产主义战士,中华人民共和国原副主席,第六、七届全国人民代表大会常务委员会副委员长,中国人民政治协商会议第五届全国委员会副主席,中华全国工商业联合会原主席,中国国际信托投资公司原董事长荣毅仁同志,因病于2005年10月26日20时31分在北京逝世,享年89岁。


 ヘビー級の世界王者に挑戦するジム?ブラドックは、戦う目的を記者団に問われ、「ミルク」と答えた。実在のボクサーを描いた米国映画「シンデレラマン」の印象的な場面である。

 彼には妻と3人の幼い子がいる。妻はミルクを水で薄めて増やした。ブラドックは「夢でステーキを食べた」と言って、自分の食べものを子どもに与えた。大恐慌とそれに続く長い不況の時代の物語である。

 ニューヨーク株式市場で株が大暴落したのは、1929年10月24日、76年前のきょうのことだ。それをきっかけに大恐慌が始まった。企業や銀行が倒産し、失業者が街にあふれた。多くの農民が土地を手放した。大恐慌は欧州や日本にも及んだ。

 ブラドックも、リングで稼いだ財産を失った。そのうえ、手を骨折し、試合に勝てない。港の荷役の仕事にもあぶれる。光熱費を払えなくなり、妻は3人の子を親類に預けた。子どもを手放すのは、人生をあきらめてしまうことだ。ブラドックはボクシング界の幹部らに頭を下げ、光熱費を恵んでもらう。

 「食べるのに必死の時代だったから、家族や地域で結束した面がある」と語るのは、アメリカ経済史専攻の秋元英一?千葉大教授だ。秋元教授は「1930年代の米国は意外に活気のある時代だった。どん底に追い込まれたので、社会主義を主張しようとも、実験的なことに挑もうとも許された」と言う。

 ブラドックは勝ち目の乏しい試合に挑んだ。奇跡的に復活して勝ち進み、ついに頂点に迫る——。株の大暴落から6年、米国の苦闘はなおも続いていた。

 ニューヨークの国連本部の総会議場に行ったのは3年余り前のことだ。9?11の同時多発テロから半年後のニューヨークを取材に行き、テロで崩された巨塔の跡を見た後だった。

 総会は開かれていなかったが、がらんとした議場の隅にしばらくたたずんだ。この空間は、いわば米国の中にあって米国ではない。各国が座を占める「もう一つの世界」が、息を潜めて波乱に身構えているようだった。

 その後のイラク戦争で、国連は大きな試練を受けた。国連の創設を主導したのは、ルーズベルト大統領の率いる米国だった。その国が、大量破壊兵器の脅威を掲げて単独行動主義に走り、国連と世界を引きずり回した。

 最上敏樹?国際基督教大教授は、近著『国連とアメリカ』(岩波新書)で「しっぽが犬を振り回す」状態と述べた。最上さんは、第2代事務総長ダグ?ハマーショルドの言葉を引く。「私たちの仕事が平和のための戦いであるなどと言うのは大げさすぎます。しかしこの仕事は、分裂と暴力の洪水をくい止めるためのダムを建設する仕事ではあります」

 国連の事務職員に向けたこのスピーチの直後、ハマーショルドは紛争地に向かう途上で殉職した。最上さんは「いわば国連は、人類がその喪失の淵で踏みとどまるために作られたのだと思う」と記す。

 国連は24日に創設60周年を迎えた。本部ビルは老朽化が進み、先日は天井の雨漏りで総会議場が使えなくなった。建物もさることながら、喪失の淵で踏みとどまるための仕組みも「築60年」を機にしっかり点検しておきたい。

 調査票が燃やされたり、調査員が多数辞退したりと、今年の国勢調査は騒ぎが相次いだ。多くの人がプライバシーに敏感になる中、これまでのような調査の仕方や調査内容では立ちゆかないかもしれない。

 「国勢調査」は英語のcensus(センサス)を訳したものだという。語源は古代ローマの時代にさかのぼり、センソールという職名をもった市民登録や税金などを担当する役人が行った人口調査を意味している(「国勢調査のはなし」80年に国が発行)。

 1920年、大正9年の10月に実施された最初の国勢調査ではこんなポスターが作られた。「国勢調査は社会(よのなか)の実況(ありさま)を知る為に行ふので課税(ぜいきん)の為でも犯罪(ざいにん)を捜す為でもありません」

 それから80年たった前回00年の調査の後、総務省が1万余世帯を対象に調べたところ、「答えたくない質問事項」は「勤め先の名称?事業の種類」が一番多く3割強あった。以下、最終学歴などを尋ねた「教育」、「家計の収入の種類」と続く。

 調査票を前にして、戸惑う様が浮かぶ。総務省は「勤務先の名称」は正確な産業分類をするために必要と説明する。しかし、その結果が具体的にどう行政に利用されているかについては「把握していない」

 1回目の調査では「宣伝歌謡集」もできた。「調査する日の近づかば成たけ旅行(たび)をせぬものぞ/火の元用心第一に伝染病にも気をつけよ/是等の禍起りなば調査の妨げ如何(いか)計り」。国家の一大行事だった時代は、すでに遠い。あり方を広く見直し、新しい時代に合った調査にしてゆきたい。

 「十月の明るいある朝、はれやかな朝日を浴びて、わたしはヨコハマを出発する」。フランスの海軍軍人で、明治期に日本を訪れたピエール?ロチの『秋の日本』(角川文庫)の一節だ。この見聞録には、彼の小さな発見が詰まっている。

 にぎやかな東海道から田園に入り、小さな女の子たちが幼いきょうだいを背負っているのを見る。背中にひもでぴったりと結び付けている様に、ロチの従卒が言う。「頭の二つある子供たち」

 ある家の前でロチは突然「大きな憤懣(ふんまん)を覚える」。「ぢいさんとばあさんが、てっきり食べるためだろう小さな二人の女の子を煮ているのだ!」。すぐ入浴と分かったが、桶(おけ)の下には火がかっかと燃えていたと記す。

 ロチは「お菊さん」でも知られる。大正の終わり近く、その死を聞いた芥川龍之介は追悼しつつ書いた。「ロティは偉い作家ではない。同時代の作家と比べたところが、余り背の高い方ではなささうである」(『玄鶴山房?河童』新潮文庫)。

 芥川は、土砂降りの往来に似た人生をたどる人にとって、まず必要なのは雨をしのぐ合羽(かっぱ)だという。「新しい人生の見方」のような合羽を与えるのが「偉い芸術家」だが、ロチは「新しい感覚描写や抒情(じょじょう)詩」といった往来の「提灯(ちょうちん)」を与えた、と。

 ロチは、あの「ぢいさんばあさんの奇怪な料理」の家を去りながら記した。「この小さな一軒家、この料理、わたしたちが今後二度とお目にかかることのないこの正直な人人のにこにこ顔……」。ロチの小さな提灯が、時の肖像を未来に伝え続けている。

 100年前、オーストリアに車道楽の富豪がいた。「愛される車には女性の名がふさわしい」という信念の持ち主で、まとめて36台注文する見返りに、今後すべての車に愛娘(まなむすめ)の名をつけるよう製造元に迫った。メルセデスという11歳の少女である。そのまま商標登録された。

 日本の先駆者は車名に頓着しなかった。国産ガソリン車の第1号は明治末、東京の自転車商吉田真太郎氏が作った。車名は特につけなかったが、ガタクリ、ガタクリ騒音を立てて走ることから「タクリー」と呼ばれた。

 戦前の自動車界に詳しい佐々木烈氏(76)は「タクリーというあだ名には当時の国産車へのさげすみが感じられる」と話す。舶来信仰の時代でフォードなど輸入車に太刀打ちできない。10台ほど製造されただけで、タクリーは自動車史から消えた。

 戦後、大衆車の時代が到来すると、メーカーは車名を競い始める。当初、トヨタではカローラ(花冠)など冠にちなむ名が多かった。ホンダ車では音楽に由来する名が特徴で、日産は小説「小公子」の主人公セドリックなど名作路線を歩む。

 最近の車名選びはかなりの難事だ。語感がよく、商標登録されておらず、輸出先の国々の言語でも不快感を与えない。すべての条件を満たす言葉を探して、何カ月も費やす。

 東京モーターショーの会場を歩いた。エッセ、ピボなど耳新しい名もあれば、1世紀前と同じ少女メルセデスの名もある。この中に100年先まで永らえる車名があるのか。きらびやかな会場の隅で、車社会の先行きに思いをめぐらせた。

 小さなブタにひもをつけて散歩をさせている女性を何度か見たのは、3カ月ほど前だった。高速道路の下を車が激しく行き交う東京都心の交差点を、ピンク色のブタがちょこちょこ行く。

 先月は、同じ東京の中野区で、逃げ回る3匹の子ブタが捕まった。ペットとして飼われていたガレージのフェンスのすき間から逃げ出したという。

 日本の各地で、意外な動物が町の中や他人の家で見つかる騒ぎが目につく。記事の見出しを拾ってみる。「押し入れにニシキヘビ」「イグアナが日光浴?」「庭に毒サソリ」「路上にオオサンショウウオ」「凶暴なり カミツキガメ」

 なかなかの迫力だが、動物たちにしてみれば、人間の勝手で連れてこられた場所で、何とか生きようとしているだけだ。気味が悪いとか、凶暴などと言われるのは心外だろう。

 3匹の子ブタを捕まえた警察署では、住民から様々な「ペット逃走」の通報があるため、巡回のパトカーに捕虫網を常備しているという。署の幹部が語る。「警察には困りごと処理のコンビニのような機能もあるので、通報があれば捕まえにゆく。でも捜査や事故処理などの本来の職務に支障が出ないか心配になる」

 動物は、閉じこめられるのがいやだろうし、常に閉じこめておくことも難しい。オリやかごから出ただけで周りが驚き、恐れるような動物たちにも、それぞれ命がある。もともと身近ではなかったその命が、見知らぬ人間社会の中に置かれている。そういえば、あの交差点のブタをしばらく見ない。元気にしているだろうか。

 鹿児島県の知覧町は、「薩摩の小京都」とも呼ばれる落ち着いた町である。古い屋敷や茶畑の広がる静かなたたずまいと裏腹に、60年前の太平洋戦争中は特攻隊の基地が置かれていた。多くの青年兵士が日々飛び立ってゆき戻らなかった。

 当時、軍指定の「富屋食堂」を営んでいた鳥浜トメさんは兵士らの世話を親身になって続けていた。明日のない青年たちから、母のように慕われた。その次女で当時女学生だった赤羽礼子さんが16日、75歳で亡くなった。

 礼子さんは、92年に没した母や自分と兵士たちとの親交を描いた共著『ホタル帰る』(草思社)を01年に出した。本の題は、出撃前日の宮川三郎軍曹との約束にちなんでいる。その夜、トメさん親子と兵士たちが食堂の横を流れる小川の上を見ると、ホタルが明滅していた。宮川軍曹が言う。「死んだらまた小母(おば)ちゃんのところへ帰ってきたい」「おれ、このホタルになって帰ってくるよ」。店に入れるように表戸を少し開けておくと約束する。

 軍曹が飛び立った日の夜、わずかに開けていた戸のすき間から一匹の大きなホタルが入ってきた。気づいた娘たちが叫ぶ。「お母さーん、宮川さんよ」

 青年たちの生が次々に絶たれる。予告され覚悟する兵士たちと見送る人たち。その悲痛な姿は、爆弾を抱えて体当たりせよという命令によってもたらされた。そしてその異常な命令は、あの戦争を始めたあげくになされた。

 礼子さんやトメさんと兵士とのきずなは胸をうつ。その伝言は、死を強いる戦争の醜さを伝え続けてゆくだろう。

  转眼间,将近4个月过去了。上月末,94b2005网上班会召开;本月初,学校40周年校庆。重拾旧话吧。还是地理篇,讲述94年的黄婆洞。


  宿舍区,从相思河出发。


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  “为有源头活水来”,有人爱说水之于大学的重要性, 则广外幸而还有这股清流。把相思河说成清流,希望不要有人笑我。其实,那水在入广外前的确尚算清流,只不知怎的,由附小至南门,又在招待所(现医务所)门前转了个弯后,污泥越积越多。校内最后一段在三栋后小篮球场旁那片姜花盛开的河沟。最后的最后,北门外化龙桥下的那条黑水,谁还认得那是相思河吗?


  相思河自来是读书拍拖两相宜的圣地。河水潺潺,两岸紫荆逶迤。某些季节,还能看到南方特产—-纷纷上岸的田螺(不认得螺,姑以田螺代之)和布满岸壁的粉红螺卵。学校有早读、晚读以及听外台的学习传统,我尝试过在六点四十来到这里,也占不到半条石凳,从此放弃。相思河也许有过许多故事,也许她只是默默地听着许多故事,那些都不是我知道或者能表达的。前些日子,有人写了一首《相思河》,我怎么看,都觉得此河非彼河。留给大家去判断吧。小河在招待所拐弯后,沿电影厅旁的校道流过电话所、篮球场、排球场,最后滋养了一丛水泡桐流进宿舍区。但也从此与我们有了一墙之隔。


  宿舍区第一站是“增强人民体质 发展体育运动”影壁背后的三个篮球场。这三个篮球场,ookyoo、陈san、tei大概更熟悉吧。新生篮球赛的赛场之一。记得自己曾和于蓝来这里给ookyoo加油,一起酸酸地看她已经和大四的混熟,无暇理会我们。再后来,我们曾经在这里做过早操,但已经记不得是哪一年的事了。篮球场之间一条小路通向位于学生宿舍一栋的体育器材室。那里和我中学的体育器材室一样昏暗潮湿,我只在帮忙取垒球用具的时候来过一次,里面充满了灰尘和球类的古怪味道。一栋似乎也可以从这里进,因为那次因头盔过敏后,我曾从这里冲进一栋一楼的水房冲洗。


  通往宿舍区的路在篮球场的东端,那时还是石子路。篮球场一侧有两株紫荆,一棵开粉红花,一棵开白花。ETSU在这里有一张超美的留影。另一侧,在杂草丛中,一堵广州特色的黄色矮墙直立,还记得吗?是开水房,在路的另一边与篮球场相对。开水房外总放着许许多多水壶,大多是红色的塑料热水瓶,共同的特点是都用涂改液写着房号和姓名缩写。开水房里开始好像是个干瘦男子,后来是个小伙子了。水房里靠墙有两排水龙头,一排是开水,另一派则是热水。开水房楼上是热水澡房。好像是分男女的,但极少见到男生光顾。由于洗热水澡不便,学校里许多人洗了四年的冷水澡,女生也不例外。学校每学期给每人发一张水卡,按月计,我记得大约每个月有35个号。每个号可打一壶开水或一桶热水。也就是说,几乎平均每日只能打一次水,能喝就没得洗,能洗就没得喝。因此,长期以来,跟打水卡的gg斗智斗勇也是我们的乐趣之一。或趁人多进出,逃打水卡;或在打热水洗澡的时候,蹭些开水等等。还做早操的时候,我们会在上操时把水壶带去,有人放在宿舍楼底,有人直接放到水房外面。后来不做操了,就多是上课的时候才拿过去了。学校发的红塑料水壶保温性能不行,有时因为担心回宿舍太晚,赶不上打水,就先打好水一样放在外面,拿回来都已经是温水了。水房内有楼梯上二楼冲凉房,六点左右最是拥挤。占位、排队在这里一样通用,与图书馆不同的只有占位工具–桶而已。冲凉房里分成两个区,一边水台,供大家洗头用,另一边则是一间间的冲凉房,房门口正是红桶们排队的地方。记得有一回在北方交大住宿,去商店买桶,售货阿姨很奇怪的看着我问:今天已经有几个人来买桶了,你们要桶干什么?我说:洗澡啊。她说:洗澡为什么要用桶?不是用盆吗?后来与某天津人说起,他告诉我,北方人只用桶拖地。可我们拖地有拖桶,这个他倒觉得新鲜了。而那一间间的冲凉房,也是在这一年我才知道并不是理所应当的。北方交大到澡房洗热水澡要另外交钱,对我这种非本校人员,各项费用加起来一次竟要6元!而且澡房里只有一个个的莲蓬头,别说门,连隔墙都没有。想想广外那简陋的冲凉房还是很幸福的。


  沿小路走向宿舍区,水房旁边是生活服务部、冰室、理发室;篮球场旁边是告示栏、一二栋宿舍入口。生活服务部即是日用品商店,麻雀虽小,五脏俱全。最神的是那里的店员可以随时用他手里的收音机给你调出需要的外台,销量自然不错,几乎包了全校的收音机生意。这些内容,不知现在的学生听了会不会觉得奇怪,那时候没有数字电视,没有电脑、网络,接触最新的外语资料只能靠短波。每天早晚,都会看到路上走过的学生人人手里端着个收音机,扯着长长的天线,全神贯注,念念有词。生活服务部里让我有深刻印象的商品还有方便面、牛耳朵&梳打饼、卷纸和音乐盒,挺奇怪的几种东西吧。7毛钱的华丰面是舍友们常买的,而我则爱买同是7毛的方便米粉。我们琢磨出各种吃方便面的办法,有时候在饭堂打五毛钱的青菜配,有时候买一两个西红柿配。在最勤快的大三,我甚至能在六点半上操之前,煮好并吃完米粉,直接从操场去课室早读。饼干从牛耳朵开始,到毕业时候全改买梳打饼了。牛耳朵的价钱从2块涨到2块2,最后涨到2块5一斤,有趣的是有人叫它猪耳朵,有人叫叫它龙耳朵,还有叫马耳朵的,好玩死了!梳打饼则可以是2块钱/斤的散装饼,也可以是2.5元/包的奇宝奶盐/芝麻梳打。说起卷纸,现在也奇怪,为什么没想过一条条地买呢?那时我们常买1元/卷的洁柔,包装上是绿色的荷叶和紫红的荷花。后来有一天,不知道谁发现新出了一种叫东京猫的纸,同样价钱,但质量要好些,从此洁柔与东京猫两分天下。走过方便面、饼干的货架,有一扇小门,里面被称作精品店。说白了就是些可以作礼品的东西。有意思的是,磁带也作为精品摆在这里的货架上。于蓝在这里买了音乐盒,《love story》。没有跳舞小人,只有一个摇柄,慢慢摇出丁丁冬冬的声响。嗬嗬,音乐盒大概是当时宿舍里最小资的东西了吧。


  生活服务部旁边是一个简陋的院落,这个地方正名似乎叫冰室,不过大家都同称之为小黑店就是了。也有人说生活服务部叫大黑店,依稀记得410女生这样叫的。小黑店屋内屋外都摆着饭堂那种四人铁皮桌凳,店里终日昏暗,有着广式杂货铺那种简陋而拥挤的柜台。在这样的店里,最好不要指望自己找到什么,直接问就好了,一般不会让你失望的。店内成长条形,老板娘常站在她的柜台里不知做着什么。有时会听人说她很凶什么的,我只觉得她是个很麻利的当家婆娘。设身处地地想一想,也只有她那样,才能将就这么个破房子养家挣钱,用这个破房子给许许多多不完全三点一线的学生留下一些云淡风轻的回忆。那个小院里,那些桌凳上,男生多于女生,啤酒饮料多于吃方便面肠粉,高谈阔论多于喁喁私语……对了,这家小店可是当年学校里唯一一处有饮料机的地方。我也就是在这里最初落下了腐败的名声。那时,喜欢在体育课后,和ookyoo、于蓝、金银一起来这里喝可乐。学校的自来水水垢很厉害,也风闻容易导致结石云云,总之在抵抗情绪最强的那段时间,这成了我拒绝喝水的一个理由。当然,也多亏了有开学时那笔奖学金,不然,两块五一杯可乐,两块五一支怡宝,再怎么省吃俭用,也不能经常买啊。


  黑店围墙外面是一家小发廊,我好像在这里剪过一次头发,印象不深了。无论如何,我这种一年都剪不了一次发的人对发廊和理发师是没什么发言权的。


  这小小的商业区对面,也就是路的另一侧,沿着篮球场边上那三株紫荆下来时告示栏和一二栋女生宿舍。嗬嗬,这个告示栏,就是9月2日那天我找电话所向北走得最远的地方了。告示栏的内容当然五花八门,也有过比较爆炸性,即刻被揭掉的。最令人期待的自然是每星期的电影预告。当干部时,我在这里贴过日语角海报;丢随身听时,我在这里贴过寻物启示。不过,后者没好意思属自己的名字,而简竟然说我想出来那个谐音姓名比YM好听。嘻嘻,那时有一点得意。


  一二栋住的大多是英语专业的女生,要按系分当是英文、国贸、涉外秘三系。两栋宿舍共用一个入口。走进大铁门,传达室在左手边,右边有棵大树,仿佛是榕树吧。那里好像还是她们的单车棚。两栋楼中间有个大草坪,早上会有人在草坪上早读。这可是别栋宿舍都没有。宿舍入口的校道两侧分别有一棵高大的紫荆树,开得紫红色花朵。这种紫荆和ETSU的紫荆不同,至少高出两三倍,另外,开花时,不会把叶子落光。所以,说实话,这树常年不是深灰绿就是掺上紫红色,略显揉杂,并不那么美丽。


  此后则是一段矮墙,右边矮墙外,相思河汩汩流过,大约灌溉着山脚那一片菜地。左边矮墙内则是风雨礼堂的场地。可以想象,礼堂入口也不远了。还是铁门,那破落的样子让你想象不出它晚上还能关上。礼堂面对着这入口的大门一般是关着的,我印象中只有新生报道的时候会大开。大门两侧的小间,左是外语书店,右是门房。看门的驼背老头就住在里面。有时他也会睡过,以至我们蓬头垢面从宿舍奔出,却被锁在门外。HL则号称他曾受命越门而入,叫醒老头来开门。哎,太不人道了。风雨礼堂前面已经介绍过,这里不再赘言。只看这个围绕着它的L字形院子,正面前庭是我们大一做操的地方,记不得94泰语是不是也在这里了。那时有两个前辈在前方即礼堂入口处领操,勉强相当于教操了。其中一个便是美女师姐曾hh。后来我们不再是新生,做操地点就改到礼堂侧面的排球场上,与93级日语班比邻。这个做操区,最边上靠沙地的好像是93越南语班。之所以有印象,是因为他们居然时常统一穿着红彤彤的校服出操。而每当此时,我总会庆幸自己幸好不是93的,那校服真不好看:)


  外语书店是个私人经营的小小书店,杂乱拥挤的书架,中间是个小小的展示台。开店的女子高个长发细眼,嘻嘻,“懵ZHU眼”:P 她丝毫不在乎天地狭小,而总是打扮得像要走伸展台。时而披下一头秀发,时而盘起发髻露出白皙的脖颈。她每天就淡淡的坐在入口处,面前摆着一些售卖的磁带。说来怪,这里买的外语书基本都是翻印原版,但磁带却有许多正版。比如山口百惠的《惜春》,20大元呢。后来不知道哪一天开始,她开展租书生意,辟出两个书架放言情武侠为主的小说,客人明显增多。也从那时开始,410女生考试期间有了解压的方法。


  相思河一侧的围墙在这一段有个豁口,可以看到并跳过小河走进对面菜地里。再往前走,是我最熟悉的三栋,大概要多费些笔墨了。三四栋又合用一个入口。四栋94年始建成,位置却在三栋前面,或许该说四三栋才对。四栋不仅新,而且是学校最早由独立洗手间冲凉房的宿舍。那里收费比较高,住的都是进修生。而三栋,听老师们说是学校最老的宿舍之一,他们当年男女生合栋的时候就住在这栋,男生一二楼,女生三四楼。难怪三楼楼梯口有一道铁门呢。


  门房在四栋一侧,有过两个看门的阿伯和一个小伙。两个阿伯一个身材高大,满头银发,非常凶;另一个比较瘦小,头发乌黑,不仅和蔼,而且记性很好。在路上碰到,他都会笑眯眯地跟我们打招呼。由于女生宿舍,男性禁入,从铁门到门房处常站着一对对的情侣。怎么分辨呢?嗬嗬,能穿着睡衣见的大约就是了吧。当然不能以偏概全,也有很多是同学、朋友来找的啦。那时宿舍有门禁,11点熄灯前后铁门内外每天都在上演依依不舍。偶尔夜归,12点还看见有人在风地里站着。阿伯怎么这么狠心呢?门房另一个很重要的作用就是传呼。阿伯扭开传呼器,对着麦克一张口,某宿舍门口的喇叭就会响起:“***