天声人语


  新华网快讯:记者从北京大学获悉,中国科学院院士、中国工程院院士,北京大学教授王选13日11时许在北京病逝。


 「申し訳ございません。拒絶させてもらいます」。耐震強度の偽装事件をめぐる国会の証人喚問で、小嶋進?ヒューザー社長の回答拒否は、30回近くに及んだ。

 テレビの中継を見て、歯がゆい思いをした人も多かっただろう。しかし法律では、正当な理由があれば証言を拒否できると定められている。自己に不利益な供述を強要されないという憲法の規定もある。

 拒否が連発された喚問には、ほとんど意味が無かったかといえば、そうではない。小嶋社長が回答を拒んだのは、こんな項目についてだった。「構造計算書の偽造を、いつ、どこで知ったか」「ヒューザーで急きょ開かれた会議の内容」「販売中のマンションが問題物件だと、いつ認識したのか」

 いずれも、事件の核心部分にあたる。回答を拒むのは認められた権利の行使だが、証人にとっては不利な事態を招く一面もある。肝心なところで明確に否定しないことで、暗に認めたとも取られかねないからだ。世間が、やはり後ろ暗いところがあるのかといった見方に傾くとしても、口を開くよりはいいと考えたのだろうか。「黙して語らず」というが、黙してもなお語るところがあったように思う。

 フランスの政治思想家で法学者だったモンテスキューが述べている。「自由とは法律の許すすべてをなす権利である」(『法の精神』岩波文庫)。

 国会で黙された部分の実相が、「法律の許すすべて」の範囲を踏み外していなかったかどうか。その究明はこれからだが、沈黙は、問題のありかを繰り返し指し示していた。

 六本木ヒルズは、東京の都心の坂の上にある。中心の森タワーは54階建てで、高さが238メートルある。肩をいからせた巨大な甲冑(かっちゅう)のような姿は、遠くからでも目に飛び込んでくる。その38階にあるライブドアを、東京地検が家宅捜索した。

 強制捜査を受けたからといって、必ずしも罪を犯したと決まったわけではない。しかし、世間の注目を集め続けてきた企業に対する今回の捜索の陣容には、検察の意気込みの強さがうかがえる。

 容疑の一つとして「風説の流布」があげられた。相場を変動させたり、売買で利益を得たりする目的で意図的な情報を流すことは、証券取引法で禁じられている。ライブドアの関連会社が、企業の買収に絡んで偽りの事実を公表した疑いがあるという。

 堀江貴文社長は、ヒルズの38階に入居した理由について、東京タワーを見下ろせる唯一の場所だからと自著に書いている。「この絶景を毎日見られることを想像してみてほしい。地上をこの手で握りしめたような気になる。そして、ふつふつと熱いものがこみ上げてくる。『絶対に天下を取るぞ』と」(『プロ野球買います!』あ?うん)。

 インターネットの関連企業の成長はめざましく、ライブドアは、その中心にいた。劇的に膨張してゆく過程で、利益の追求と資金集めに走るあまり、法を無視するようなことがあったのだろうか。

 家宅捜索は、夜を徹して行われた。それは、四方八方からの多くの目にもさらされていた。「天下取りの塔」で、何が起きていたのか。捜査の行方を見守りたい。

 1996年の1月17日に出版された『瓦礫(がれき)の下の小説』(集英社)を開く。その1年前の阪神大震災で亡くなった重松克洋さんが書きためていた小説と詩を編んだ遺稿集である。

 当時20歳で関西学院大2年だった重松さんは、西宮市内のアパート「若葉荘」の1階に住んでいた。地震でアパートが崩れ、その下敷きになる。後日、友人たちが瓦礫の中から泥だらけの原稿用紙約200枚をみつけた。

 「俺達は、神様に踊らされているんだよ……明日のために、一時的な幸せを与えられて、人は生きさせられてるんだよ」「小さな幸せの中にいることが、本当の幸せなんだよ。難しく考えなくてもいい」。小説「時の輪」では「時の輪から抜け出したいんだ」という言葉を残して自殺する友人とのこんなやりとりが描かれる。人の生に、正面から向き合おうとした軌跡のようだ。

 昨年の1月17日、神戸は雨だった。市内の追悼の会を取材した後「若葉荘」に向かった。関西学院大に近い住宅街のその場所は駐車場になっていた。敷地の一角に花が供えられ、手を合わせてしのぶ人たちがいた。

 重松さんは高校時代に「歩く」という詩を書いた。「この道が続く限り/僕は歩き続けるだろう/たとえ道がなくなったとしても……なぜなら歩き続けることが自分の証明であり/歩き続ける限り僕は生きているからだ」

 今年も1月17日が巡って来た。あの日から11年の月日が流れた。しかし、亡くなった人たちは、今も、これからも、それぞれにつながる人々の中で生き続け、歩き続けてゆくだろう。

 朝晩めっきり冷え込む季節は体調を崩しやすい。ちょっと風邪気味かなと思った先日、ホームセンターの家庭用品売り場で、子ども時代に使っていた湯たんぽと再会した。

 カメの甲羅のようなブリキ製のあれである。昭和30年代には、今のような軽くて暖かい寝具は出回っていなかったから、湯たんぽは欠かせなかった。ただし栓が小さいので熱湯を入れるのは難しい。毎晩母に入れてもらっていた。ネルの袋も母の手作りだった。

 作家の故向田邦子さんも回想している。「湯タンポは翌朝までホカホカとあたたかかった。自分の湯タンポを持って洗面所にゆき、祖母に栓をあけてもらい、なまぬるいそのお湯で顔を洗うのである」(『父の詫(わ)び状(じょう)』)。湯たんぽの周りでは、時間がゆっくり流れていた。

 もともとは中国伝来である。清代の小説『紅楼夢』にも登場するという。日本でも元禄期には使われていたらしい。かつては陶製だったが、昭和初期から金属製が普及した。高度成長期に広まったガスや電気の暖房器具に追われて、ほとんど姿を消していたものの、今また注目されている。

 店頭には、ゴム製やプラスチック製も並ぶ。湯たんぽは空気を乾燥させないので、肌にやさしい。電気の消し忘れもない。こうした様々な効用が見直されている理由だろう。

 湯たんぽという名前も、とても温かそうだ。「たんぽ」とは、器をたたいたときの音から来たという説と、中国語で湯たんぽを意味する「湯婆」の唐音が語源だが、それが忘れられて、「湯(ゆ)」が付け加えられたという説がある。

 苦手な英語を長時間聞き続けていると、きまって集中力がとぎれる瞬間が訪れる。慌てて耳を引っ張ったり指で掃除したりするが、もう遅い。話の筋に追いつくのは至難のわざである。

 外国語学習者が例外なく体験することのようだ。感覚としては車の燃料切れに近い。在米中に同じ思いをした作家村上春樹さんは、その自覚症状を「ウルトラマンの電池切れ」と描写している(『やがて哀しき外国語』講談社)。

 今年から大学入試センター試験に英語の聞き取りが登場する。長年の読解偏重批判にこたえた措置だ。50万人もの受験生が、一斉に同じ再生装置を耳につけ、30分間聴覚をとぎすます。ためしに市販の模擬テストCDを聞いてみたが、会話はかなり早口で、思ったより手ごわい印象だ。

 試験中に騒音でもしたら受験生は集中できない。いくつかの大学に尋ねると、「試験日は音量を控えて」と近隣にお願いしたそうだ。たとえば普天間飛行場に近い琉球大学は、ヘリコプターや軍用機が試験日に会場上空を飛ばないよう、防衛施設局を通じて米軍に申し入れた。

 首都大学東京は、キャンパス周辺の大型商業施設や映画館に音響を抑えるよう要請した。どこも快諾してくれて、当日はジャズ演奏や大道芸が中止になるそうだ。

 本番中に問題を聞き直すことはできない。勝負は一度きりだ。思わぬ騒音で気が散り、「電池切れ」を起こす受験生がいないとも限らない。せっかくの勉強の日々が悔し涙で終わらぬよう、今度の土曜の夕方、会場近くの方々はどうかくれぐれもお静かに。

 東洋大が募集し、約5万8千首が寄せられた「現代学生百人一首」の入選作を読む。三十一文字をつづりながら、自分や周りや世界を見つめている姿が目の前に浮かんでくる。

 〈私って何なのかしらと問う鳥に貴方は貴方と言い放つ空〉中2?甲斐菜摘。〈未来というワケのわからぬ存在を私の形に切り抜いていく〉高3?武井怜。〈喜?哀?楽仮面の上に描くたび己の顔をうしなう道化師(ピエロ)〉中3?増田菜穂子。

 学びの中の一瞬をうたう。〈図書館の窓よりトンボ迷い込み草野心平に留まり、また飛ぶ〉高3?佐々木勇翔(ゆうと)。〈暴れだす牛の鼻環(はなかん)必死でつかむ感覚頼りの胃汁の採取〉高3?福島麻衣。

 家族へのまなざしがある。〈花型のにんじん入りの弁当が昨夜の喧嘩を反省させる〉高1?代島千沙都。〈病室で流した涙の理由はね痛みじゃなくて母のぬくもり〉高2?高橋麻未。戦後60年がたった。〈祖母が言う戦地に向かう祖父の背を涙こらえて送った日のこと〉高2?富樫拓也。選外佳作からも一首。〈悲劇の日、忘れられない60年止まったままの11時2分〉高2?女子。

 人と人のさまざまなつながりがある。〈こんなにも明るく晴れた天気でもみんなケータイうつむきかげん〉高1?山崎純平。〈なずなですあつかいにくい子なのですけれどわたしはあいしてるのです〉中2?福山なずな。

 若い感性に力強さが宿る。〈刈られても刈られた分だけまたのびる芝のあおさに力みなぎる〉中2?鈴木奏慧(かなえ)。〈人生のブランコたまにはバックする大きく前へこぎ出すために〉高1?田中結。

 宮沢賢治がよく通ったという岩手県水沢市の旧緯度観測所の古い本館が、解体の直前に一転して保存される方向となった。代表作「銀河鉄道の夜」の構想を育んだとも考えられている建物だ。保存を訴える全国の賢治ファンの声を受けて、水沢市では市有にする方針という。

 今の国立天文台水沢観測所の敷地内にある木造2階建ての旧本館は、1921年、大正10年に建築された。その年に、賢治は現在の花巻市の農学校に教諭として赴任した。それ以後、地球の自転軸のふらつきなどを調べる観測所に、しばしばでかけた。

 「その前の日はあの水沢の臨時緯度観測所も通った。あすこは僕たちの日本では東京の次に通りたがる所なんだよ」。童話「風の又三郎」の原型とされる「風野又三郎」の一節だ。詩「晴天恣意」の下書きの一つには「水沢緯度観測所にて」という副題が記されている。

 先日の夜、その旧本館を訪ねた。小さな望楼付きの洋風の建物は、雪明かりの中で、大きな黒い影のように立っていた。半月が浮かび、星はあまり見えない。

 「銀河鉄道の夜」の初稿ができたのは、観測所に通っていた24年ごろだった。22年には愛する妹トシが亡くなっている。それまでそこに居た人が永遠に居なくなる。その深い悲しみが、少年ジョバンニが友のカンパネルラを失う物語に投影しているように思われる。

 旧本館に近づくと、ガラス窓の奥に小さな赤い電球の明かりが見えた。闇の中の一点の光。それは、「銀河鉄道」が掲げるともしびのように、ぽうっと静かに息づいていた。

 行ったことはないが、いつかは訪ねてみたい。信越国境にある秋山郷も、そんな旅ごころを誘う場所の一つだろう。平家の落人伝説の残るその地が、豪雪で孤立している。

 「秋山には古(いにしへ)の風俗おのづから残れりと聞(きき)しゆゑ一度は尋(たづね)ばやとおもひ居りしに……米味噌醤油鰹節茶蝋燭(らふそく)までをも用意して……」。新潟の文人、鈴木牧之が秋山郷を訪ねたのは、江戸後期のことだった。この『北越雪譜』(岩波文庫)には、心引かれた地へ旅立つ思いや現地での見聞が記されている。

 牧之が秋山郷への旅で著した別の一冊『秋山記行』(東洋文庫)には、当時の集落を描いた絵が載っている。見ているうちに、先日見た一枚の写真が絵に重なってきた。それは、雪で孤立状態になった秋山郷を上空から撮影したものだった。

 絵の方では、かやぶきの家がわずかに点在している。写真の方の家は大きく数も多い。しかし厚い雪がその家々の屋根を覆っているので、昔の秋山郷のたたずまいがよみがえったかのように見えた。

 やはり江戸の後期に書かれた『信濃奇勝録』が、当時の人々の様子を伝えている。争ったり怒ったりすることなく、質朴で「太古の人の如し まことに世外の一世界なり」

 冬場には道が閉ざされてきた秋山郷は、隔絶の地であればこそ、うつろわない暮らしや文化を伝えてきた。しかし今では、人々の暮らしは周囲と行き来することで成り立っている。地上の道は閉ざされたが、牧之の時代には思い及ばなかった空の道も使って、一世界と世界とをつなぎ続けたい。

 きのう1月10日は「110番の日」だった。各地で、それにちなむ行事もあっただろうが、110番通報を巡って残念なことが報じられた。7人もの犠牲者が出た長崎県大村市のグループホーム「やすらぎの里さくら館」の火事で、2分間の「空白」があり、消防の出動が遅れたという。

 ホームからの火災の一報は、8日午前2時25分ごろ、県警本部に110番通報で入った。県警からの連絡で大村署が大村消防署に電話した。消防署側の説明では、受けた消防士は再確認を求め、いったん電話を切ったという。2分後に警察から電話を受け、34分に消防隊が出動した。

 消防署側では「1分1秒を争う状況では、あってはならないこと。大変申し訳ない」と話している。2分で、あるいは誰かを救えたかも知れないと思うと、やりきれない。この2日前に、消防署に「市内のホテルで火災」との虚偽通報があったというが、痛恨の足踏みとなった。

 この火事は高齢社会で急増するグループホームのもろい一面も浮かび上がらせた。「これまではケアの質ばかりを考え、防災は二の次だった」。長崎県内で三つの施設を運営する認知症高齢者グループホーム協議会長の渡辺登さんの言葉が重い。

 高齢者の施設で働く介護職員の一番のストレスは「夜勤時の不安」という介護労働安定センターのアンケートもあった。火を出さないことが基本だが、素早く火を感知する手だても整える必要があるだろう。

 110番と119番は、いざという時の「いのちの回線」だ。一時(いっとき)も途切れないでほしい。

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