天声人语


 旧約聖書のイザヤ書に、こんな一節がある。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」(新共同訳)。赤ちゃんがさらわれた仙台市の光ケ丘スペルマン病院の「光ケ丘」の由来だという。スペルマンは、1955年の病院創設に力を尽くした枢機卿の名前だ。

 「光ケ丘」には「苦しみを通して喜びを見い出すの意味がこめられています」と、病院のホームページにはある。幸いにして無事に戻ったが、小さな命が引きずり込まれた闇は深かった。

 身代金を要求した脅迫文は漢字カタカナ交じりで、手書きだったという。カタカナには、文に覆面を施すような不気味なところがある。ひらがなでは、どこかに日ごろの書き癖が出るとでも考えたのだろうか。

 「何ニシロ 警察ノ臭イガスレバ スベテ中止」「赤チャンヲドンドン返セナクナッテ行ク」と冷酷に書く。一方で、「本当ニイイ赤チャンダト思イマス」などと揺さぶる。計画は周到に立てたつもりだろうが、やはり逃げ切れるものではなかった。

 病院の管理面では教訓を残した。無防備な多くの命を守る手だてが十分ではなかった。人の出入りを、より厳しくチェックする必要があるが、監視カメラだけでも、万一の時に犯人を速やかに追う手がかりになる。

 事件が大きく報道された後に報道協定が結ばれた。取材や報道を控えるのはメディアの根幹にかかわるが、協定がなければ結果は違っていたのかも知れない。生後10日余りの命が、50時間の闇を抜けて、両親のあたたかい光に包まれた。

 山下寿明さんは自力では起き上がれない。言葉を話すこともできない。食べものは、おなかに小さな穴をあけて直接胃に入れている。

 東京都世田谷区にある重症心身障害児の通所施設「あけぼの学園」でも今週、成人式が開かれる。今年お祝いする2人のうち、1人が山下さんだ。この20年間に、山下さんは知的な成長を確実にしてきた。だれも教えていないのに、テレビを見たいときにはテレビに視線を向けて声を出すようになった。ビデオが終わりそうになると、声を出して家族を呼ぶ。

 初めて会う人には、ニコッと笑顔を見せる。そのあと、家族に向かって、頭を上下に動かし、目をパチパチさせる。「よその人にちゃんと気を使ったよ」という合図だ。

 その一方で、からだはしだいに動きにくくなっている。おさないころは腹ばいや背ばいで移動していたのに、いまはできない。たんがつまりやすいのも心配だ。母親の絹子さんは「ここまで生きてくれたことに感謝しています。育てることは大変ですが、私の生きがいになっています」と語る。

 やはり、あけぼの学園に通っている岩城明子さんが成人式を迎えたのは6年前だった。赤い晴れ着を着て、ちょっとはにかむ当時の写真を母親の節子さんに見せてもらった。節子さんは「あなたはもう大人なのよ、と声をかけると、にっこり笑って応えてくれた。本当に大人に見えました」と話す。

 あけぼの学園の成人式では、話すことができない子どもに代わって、ともに歩んだ20年を親が語る。その言葉が毎年、積み重なっていく。

 長さが一定で改行のないこのコラムでは、句読点の置き方に制約がある。字数があふれて削るテンもあれば、半端な位置のマルに手を焼く日もある。句点も読点も、一筋縄ではいかない。

 どの道にも専門家はいるもので、たとえば群馬県高崎市の元高校教諭、大類(おおるい)雅敏さんは句読法を研究して40年になる。『句読点活用辞典』など著作も多い。同学の士が集まると「モーニング娘。」の「。」は是か非かなどと議論に花が咲くそうだ。

 大類さんによると、西洋ではプラトンの昔から句読法が盛んに研究されてきた。コンマ、ピリオド、セミコロンと種類も多い。日本では紫式部のころには文章に句読点がなかった。疑問符や感嘆符も江戸期の輸入品である。

 大類さんが句読点にひかれたのは20代後半、権田直助という幕末の学者の著作に接してからだ。権田は神官にして医家で尊皇の志士でもあった。政治犯として幽閉された明治初年、句読研究に没頭し、「国文にもきちんとした句読法を確立せよ」と主張した。生家の跡が埼玉県毛呂山(もろやま)町にある。

 句読点といえば、福島県猪苗代町の野口英世記念館で見た、母シカ自筆の手紙が忘れがたい。「おまイの。しせ(出世)にわ。みなたまけました」。どうか帰国して下されと英世に訴える書状だが、実物を見ると、マルの一つひとつが字ほどに大きい。しかも行の隅でなく中央に置かれている。

 幼い頃に覚えた文字を思い出してつづった手紙だという。テンも兼ねた大きなマルが、母親の一途な思いを伝える。句読点の結晶を見る思いがした。

 大雪にもかかわらず、この年末年始は、高速道路の混雑がひどくなかった。渋滞が昨冬より4割減り、長くても30キロほどだった。料金自動払いの車が増えたほか、多くの運転者がピークを避けたらしい。

 中日本高速道路によると、これまで最長の渋滞は1995年暮れ、名神と東名にまたがった154キロである。帰省ラッシュに雪が重なり、琵琶湖の東から浜名湖の西まで延々とつながった。バブル景気のころは東北道や九州道でも、進まない車列が100キロに及んだ。

 さかのぼれば、自動車などなかった紀元前から、渋滞は都市を悩ませてきた。首都大学東京の大口敬?准教授らの研究では、ローマ帝国は馬車の渋滞に苦慮している。一時カエサルは日中に都心へ乗り入れることを禁止した。その分、夜間の交通量が増え、哲学者キケロは夜の馬車騒音を嘆いた。

 水の都ベネチアでは、ゴンドラの渋滞が問題になった。水路の混雑や事故を減らすため、政府は16世紀、ゴンドラの大きさや形を定めた。車検制度と同じ考え方である。

 石油危機の1970年代、米国では2人以上が乗る車専用の車線が設けられた。相乗りで朝夕の渋滞を緩和する狙いだが、意外に不評だった。車は個人の足と信じる人たちが、同乗を嫌ったようだ。

 渋滞を防ぐため、日本の学界では、高速道路を乗り入れ予約制にしたらどうかという研究も進んでいる。限度に達したら乗り入れを止める。「道路網が整い、100キロ級の渋滞はもう起きない」という楽観論も聞くが、渋滞解消の努力はたゆみなく続けてほしい。

 「三八(さんぱち)豪雪」と呼ばれる歴史的な雪害がある。昭和38年、1963年の1月、北陸など日本海側で記録的な大雪が降り続き、交通がマヒした。

 当時、金沢大学の教官だった作家、古井由吉さんは、雪下ろしでの「際限もない反復」作業を小説「雪の下の蟹」に書いている。「全身が快く汗ばんでいる。久しぶりのことだった。血行が健やかになってゆき、神経がやさしい獣のようにまどろんでいた」(筑摩現代文学大系)。

 雪下ろしが「私」に解放感をもたらすという印象的な場面だが、現実の世界での作業は重く厳しい。時には人の命が失われるほどだ。暮れから日本列島の各地で、雪の記録が更新されている。106地点で、12月の積雪記録を書き換えたという。鹿児島は88年ぶりで、世界自然遺産に登録されている屋久島の縄文杉の枝が雪の重みで折れた。

 寒さの方も記録的だ。12月の気温は、北日本と沖縄を除く各地で1946年に地域の平均気温の統計を取り始めてから最も低かった。

 この寒さが今後どうなるのかは分からない。しかし猛暑の夏と酷寒の冬が、これ以上幅を利かすようなら、日本のくっきりと分かれた四季が「二季」になりはしないだろうか。春と秋という穏やかな季節が、強烈な夏と冬にのみ込まれなければいいのだが。

 この冬の大雪の影響は新聞社にも及んでいる。出来る限り、いつも通りに新聞をお届けしようと、原稿の締め切り時間を通常より繰り上げて、印刷や発送にかかっている。窓の外に雪はないが、雪の国を思いながら執筆する昨今だ。

 手元に届いた年賀状の多くには、戌(いぬ)の字や犬の姿が様々にあしらわれていた。その中で、前の戌年よりも目についたのは、愛犬の写真を印刷したものだった。生後16年、14歳などの添え書きもあり、この長寿?高齢の世を飼い主と共に歩んでいるさまが浮かんだ。

 人間とのつきあいが長い生き物だ。民俗学者の南方熊楠が、大正の頃に、こんな寿命にまつわるルーマニアの伝説を記している。

 天の神が生き物たちを召集し、その寿命と暮らし方とを定めたという。人間は、世界の王として君臨し30歳と決められたが、短いと不満をもった。次に、常に重荷を負って50歳と宣告されたロバが、「どうか20年差し引いていただきたい」と言うのを聞いた人間が、その20年をもらい受けた。

 次に犬が呼ばれた。主人である人間の家や財産を守って40年と聞いて震え上がり、半分にして下さいというので、また人間がそれをもらう。さらには、60歳とされたサルの半分も得て、人の寿命は100歳と決まった(『日本の名随筆』作品社)。

 この伝説には、人間は、ロバや犬たちの寿命をもらった分、その動物の苦労も背負ったとも記されている。あたっているかどうかはともかく、とりあえずは、友人たちと愛犬の健勝を祈った。

 この前の戌年だった94年は、細川、羽田の両政権が倒れ、「自社さ」の村山政権ができた。政治の上では変化の多い年だったが今回はどうだろう。年が改まり、秋には首相が代わるとされているようだが、「犬が西向きゃ尾は東」ほどに当たり前にゆくのかどうか。

 今日から仕事始めの人も多いことだろう。ひっそりとした通りにゲタの音が響く三が日も悪くなかったが、街や職場に活気が戻るのはうれしい。戻ってきてほしくないのは交通渋滞と排ガスだが、車の動きも本格化する。

 昨日、車が絡んだ記事が目にとまった。昨年1年間の全国の交通事故の死者数が、7千人を下回ったという。1956年、昭和31年以来というから、ほぼ半世紀ぶりだ。

 「交通戦争」といわれた70年前後には年々1万数千人が死亡していたから、おおむね半減したことになる。罰則の強化や、警察、消防、地域の人たちが力を尽くしてきたことの効果が表れてきたのだろうか。しかし減ったとはいえ、昨年は6871人もの命が失われた。その家族や周囲の人たちの悲嘆は、はかりしれない。負傷者も100万人を大きく上回って、約115万6千人にのぼっている。

 運転者が、「凶器」を操っているという自覚を持って交通ルールを厳しく守るのは当然だ。その上で、人が常に車に襲われかねないような今の道や街を、そうならない形に変えてゆけないものだろうか。

 例えば、市街地では、歩道の無い道路は原則として人と自転車の専用にする。行き場を失った車をどうするのかは、地域の意向を尊重しつつ知恵を絞る。そのくらいの発想の転換を試みる時ではないか。

 政府は、年間の死者5千人以下を目標に掲げているという。死者の数値目標とは、やはりかなしい。「ひとりでも減らし、減らし続ける」を掲げて、人と車との新しい関係を探ってゆきたい。

 この時代を考えるために、時代をさかのぼってみる。そんな思いもあって、ルネサンスにゆかりの深いイタリアの地へ、短い旅をした。

 ローマ発の列車で半島を横切り、バスに乗り換えて着いたのが古都ウルビーノだ。早朝、小高い丘から眺めると、古い城壁の下に霧がわいていた。

 16世紀の初頭、この地にはレオナルド?ダビンチや、「君主論」のマキャベリも来たことがあるという。ふたりは、共同で大きな川の流れを変える計画も立てていた(R?マスターズ『ダ?ヴィンチとマキアヴェッリ』朝日選書)。ふたりの巡り合わせの妙を思いながら、フィレンツェを経由して、レオナルドの生地のビンチへ行った。

 「生家の跡」といわれている石造りの家は、オリーブの木の立ち並ぶ丘にあった。前は小さな谷で、視界は大きく開けている。夜空の広がりや闇にきらめく星々が、やがてルネサンスの巨人となるレオナルド少年の心を大きく羽ばたかせたのだろうと想像した。

 ルネサンスは、清新な機運を広く引き起こした。丘を吹き渡る風の中で、その言葉の意味が「再生」だったことを改めて思った。最近、日本では、長く信頼してきたものが崩れている。安全や安心の土台も大きく揺さぶられている。世界を見ても、力の強い者の強弁がまかり通る場面が続く。人間が、苦難を重ねて築いてきた大事なものが壊されてしまうのではないか。

 「再生」は、時を超えて、今の時代のために発せられた警句のようだ。信頼というきずなを、再び結びたい。そう思いつつ、丘を下りた。

 正月の開館日を早めたと聞いて、昨日、東京?両国の江戸東京博物館にでかけた。冷たい雨が降ったが、館内は、家族連れや子どもたちでかなりのにぎわいをみせていた。

 江戸時代の浮世絵師?葛飾北斎の「冨嶽三十六景」の展示(22日まで)に、人だかりができている。中でも、小舟と大波と富士山とを組み合わせて描いた「神奈川沖浪裏」の前で立ち止まる人が多かった。

 舟をのみ込まんばかりに逆巻く波のかなたに、雪を頂いた富士山が小さく見える。何かに襲いかかろうとする無数の手のような波頭の描写には、鬼気迫るものすら感じられる。

 北斎の絵は、印象派の画家のゴッホやモネに影響を及ぼした。ドビュッシーが、交響詩の「海」を作曲する際に、「神奈川沖浪裏」から啓示を受けていたという説もある。時空を超えて、強く呼びかける一枚だったのだろう。そう思って、しばらくたたずんでいると、「おたから、おたからーっ」という威勢のいいかけ声が聞こえてきた。

 寄席に見立てた一角があって、昔の物売りの声を聞かせる人が演じていた。この日は、七福神が描かれている昔の「宝船絵」が入館者に配られた。正月の江戸の町では、枕の下に敷いていい初夢を見るようにと、「宝船売り」が「おたからーっ」の声とともに売り歩いたという。縁起のよい初夢の筆頭には、富士山があげられた。

 この年が、どなたにとっても、穏やかで幸せの多い年でありますように。北斎が描いた数々の富士の姿を思い浮かべながら、「宝船」をかたわらにして、この文をつづった。

 今年も、残りわずかとなった。一枚だけになった古いカレンダーを見やりながら、新しいものを用意する。まだ見ぬ白い時間というような不思議な魅力が、来年のカレンダーにはある。

 JR東日本のカレンダーをめくってみた。1月の暦の上の写真は、広い雪原の向こうを列車が行く風景だ。かなたに雪を頂く山があって、厳しくも美しい北国の冬の写真だが、その列車の説明に「羽越本線 いなほ」とある。山形県での脱線転覆事故で、思いも寄らない巡り合わせになってしまった。

 痛ましい事故の現場では、昨日も捜索が続いた。改めて、犠牲者のご冥福を祈りたい。JRは事故が防げなかった原因を一日も早く究明し、再発防止の手を打ってほしい。

 大きな街の駅では、ふるさとに向かう帰省客や家族連れが目立ってきた。ふるさとの山や海は、遠くに暮らす人に呼びかけてくるようなところがある。暮れには、それが強まる。

 「海なりは/こうも 聞こえるのだ/そうら/まめで暮らしているか/もう そろそろ帰って来いよ。ってな。/不思議だというか」(『竹内瑛二郎詩集 海潮』秋田豆ほんこ)。竹内氏は、1904年に秋田市の港近くに生まれ、地元で長く教職にあった。

 子どもたちをうたった詩からは、教室での様子が目の前に浮かんでくる。「きょうもまた/せんせいといってくれるか/おう おう/子どもらよ」。この一年、地上の様々なところで多くの命が散らされた。何事もないことは何でもないことではなく、尊いことなのだと、思い知らされる暮れである。

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