天声人语


 トリを焼く煙がもうもうとあがり、勢いよく通りに出てゆく。東京?吉祥寺の駅前で、井の頭公園に近い場所だ。この春に逝った歌手、高田渡さんの行きつけだった店の止まり木で、しばししのんだ。

 「鉄砲や戦車や飛行機に/興味をもっている方は/いつでも自衛隊におこし下さい/手とり足とり教えます」。「自衛隊に入ろう」は1967年、高田さんが都立高の定時制に通う頃に作られた。このデビュー曲が放送禁止になった。

 主義主張を正面からぶつける作風ではない。「あたりさわりのないことを歌いながら、皮肉や批判や揶揄(やゆ)などの香辛料をパラパラとふりかけるやり方が好きだった」と自著『バーボン?ストリート?ブルース』(山と渓谷社)に書いている。

 何度聴いてもしんみりするのが「すかんぽ」だ。「土堤の上で すかんぽは/レールの間に 生きていた/急行ごとに気を付けをし/人の旅するのを眺めていた」。酒場や小劇場で自作詩の朗読を続けたドイツの詩人、ヨアヒム?リンゲルナッツの「哀れな草」に緩やかな曲を付けた。弱い草だが「目もあり 心もあり 耳もある」と、語るように歌う。

 高田さんがドイツを訪ねるNHKのテレビ番組で、原詩に軽快な曲を付けて歌う現地の青年たちが出てきた。気を付けする草にはこっけい味があるから、明るく歌うのも分かるが、高田さんはその姿に、生きるものの愁いと根強さも見ていたのではないか。

 1月1日生まれで、存命なら明日が57歳の誕生日だった。その歌は、人々の心の中に流れ続けてゆくだろう。

 この一年、小泉首相の言動には、残念ながらなかなか賛同できるものがなかった。そのまま年が押し詰まってきたが、首相は一昨日、「東京の日本橋の上に空の復活を」と述べたという。

 「お江戸日本橋七つ立ち」の古い橋だが、東京五輪を機に川沿いにつくられた高架の高速道路の下になっている。浮世絵で描かれたような開放感はない。その空の復活なら、あるいは賛同できるかと思い、発言をたどってみた。

 「日本橋という昔からの名所、これが上に高速道路が走っているからね。景観もよくないと」。五輪の開催に沸いた時代はともかく、今では、「よくない」と思う人も多いだろう。

 「川の流れ、日本橋、そして、昔ながらの名所を復活すれば、単なる東京の名所になるだけでなくて、世界的な名所になるのではないかと。夢をもって、日本橋の上を思い切って空にむかって広げてみようと」。川のたもとを散策で楽しめるようにしたいとも述べた。

 夢を持つのは悪くはない。そう思って、久々に日本橋に行き、渡ってみた。橋は、高速道路の影の中にあった。行き交う人たちも寒そうだ。確かに、空が開けて陽光が橋に届く方が気持ちがいいだろう。それを待ち望む地元の人たちの思いも改めて実感した。

 そのうちに、今の日本橋の姿は、やみくもに都市開発や道路づくりに走った時代を象徴する負の遺産ではないかという気がしてきた。この橋にとどまらず、日本のその時代と施策とを省みるという視点が伴っていればいいのだが。「空の復活」発言にそんなことを思った。

 横殴りの風と雪とで、通りの向かいの家すら見えなくなる。昔、任地の秋田市で何度かそんな体験をした。勤め先では、支局の前の大通りの名を付けて「山王ブリザード」などと呼んでいた。

 真冬に日本海から吹き付ける風には、かなりの力がある。海岸沿いで車を運転していると、何度もハンドルをとられそうになった。しかしその風が、何両も連結した長い列車の脱線にまでからむとは思ってもいなかった。

 秋田発新潟行きのJR羽越線の特急「いなほ」が、山形県庄内町で脱線転覆し、乗客4人が死亡する惨事となった。くの字に折れ曲がった車体は、尼崎市での痛ましい事故を連想させる。

 「いなほ」は新幹線の開通前は上野まで運行されていて、出張に利用したこともあった。それまで平穏だったはずの車内が一気に覆された瞬間を思うと、胸が詰まる。

 原因の究明はこれからだが、突風が一因としてあげられている。列車は、風速によって徐行や運転停止が定められている。今回、現場に近い風速計での観測は20メートル以下で、通常運行の範囲内だったという。しかし現実には脱線が起きた。最上川の長い鉄橋を渡った直後の脱線なので、線路の下の川面から吹き上げる風の強さを指摘する専門家もいる。

 最上川の上流域が出身の歌人、斎藤茂吉が、この川の冬の厳しいさまを詠んでいる。〈最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも〉。今年は、いつにも増して雪が深いという。風もまた強いとすれば、その中での列車運行の判断も、より慎重にしてもらいたい。

 大地震に備えるには、建物を鉄やコンクリートで固めるのがよいのか、それとも柳のように揺れを吸収する方がよいのか。関東大震災の直後、建築界でそんな議論が起きた。「柔剛論争」と呼ばれた。

 地震にからむ論争は戦後もあった。総ガラス張りのビルが東京や大阪に建ち始めた1950年代、「地震が心配だ」「いやガラスの持つ不安感は芸術性を高める」と応酬が続く。こちらは「不安感論争」と命名された。

 建築評論家の宮内嘉久氏によると、不安感論争の象徴となったのは、皇居わきに建った米出版社リーダーズ?ダイジェストのビルだった。ガラス面が大きく、柱が細く見える。建築学者や建設省技官らが「一度揺すってみないと安全かどうかわからない」などと盛んに批判した。

 設計したのは、チェコ生まれの建築家アントニン?レーモンド氏である。戦前と戦後に計44年間日本で暮らし、関東大震災も体験した。「地震に強い」と評された建築家には心外な非難で、晩年に出版した自伝でもなお憤慨している。

 レーモンド氏に師事した建築家ふたりの回顧展を見て回った。東京?上野の東京芸術大で25日まで開催中の吉村順三展と、23日に東京駅で始まった前川國男展である。

 吉村氏は生前「大震災を見て建築家を志した」と語っている。前川氏も建物の頑丈さには終生こだわり続けた。どちらの会場でも、設計図や模型に顔を近づけて見入る人々のまなざしが印象に残った。戦前から日本の建築界が耐震や免震にどれほど心を砕いてきたのか改めて思いを致した。

広告終わり


 ああ、届かない。その瞬間、どよめき立つ16万余の観衆から悲鳴がもれた。無敗の3冠馬ディープインパクトが「第50回有馬記念」で敗れた。

 千葉県船橋市の中山競馬場で観戦して思った。なぜ、人々はこの馬に、これほど熱狂するのだろう。前回レースでは1?0倍の単勝馬券を記念品として取り置く人が続出し、全体の5%、5640万円が払い戻されなかった。ギャンブルというより「お祭り」なのだ。

 強いものを見たい。勝利の陶酔感にしびれたい。こんなファン心理を満たしてきたのは確かだ。だが、それだけではない。70年代のハイセイコーが石油ショックに沈む世相を、80年代末のオグリキャップがバブル経済に躍る雰囲気を投影したように、ディープインパクトもいまの気分を映しているに違いない。

 たとえば株価が持ち直して、景気回復が語られる浮揚感だろうか。連戦連敗の馬が話題になったときより明らかに上向きだ。同時に、強いものへの支持が広がりやすい世情を反映しているようにも見える。

 きのうのスタンドを埋めた人波から、総選挙で小泉首相に群がった聴衆を思い出した。郵政解散を断行した首相の強硬さが圧倒的に支持されていた。強い指導者なら問題を解決してくれると願ったような若者の投票行動も多かったという分析もあった。

 強いものに、すがりたい。ありがちな風潮だが、やはりどこか危うい。その意味で、3冠馬の敗北は現実の厳しさを見つめ直す好機かもしれない。はずれ馬券を懐に、駅へと続く「おけら街道」を歩きながら、そう思った。

 遠くのビルの窓を染めて、いつものように夕日が落ちてゆく。100年後の地上は、どうなっているだろうか。ふと、そんなことを思ったのは、そのころには、日本の人口が今の半分に減ると予想する記事を読んだからだ。

 2005年生まれの赤ちゃんの数が、亡くなった人の数を下回る。明治期に統計を取り始めてから初めて、日本の人口が自然減に転じることが、厚生労働省の推計でわかった。政府の想定よりも1年早かった。

 私たちは今、おそらくは太古の時代からほぼ増え続けてきた人口のグラフの頂点に立っている。これからあとは、右下がりに減ってゆく。現在の1億2800万の人口が、このままだと、2100年には6400万になるという。人口がそのくらいだったころを過去にさがせば、あの大恐慌が始まった昭和4年、1929年から翌年あたりになる。

 イギリスの経済学者マルサスは、18世紀末に出した『人口の原理』で述べた。「人口は、制限せられなければ、幾何級数的に増加する。生活資料は算術級数的にしか増加しない」(岩波文庫)。徐々にしか増えない食糧に対する、人口の爆発的な増加の勢いを印象づける表現だった。

 今後の自然減については、国全体で幅広く対処してゆく必要がある。しかし、そもそも、人口がいつまでも増え続けるものではないだろう。

 半分の人口といっても、現在のエジプトやトルコ並みで、フランス、イギリスを上回る。今よりも、ひとりひとりが重みを増した、ひきしまった国に向けて、百年の計を立てる好機だ。

 英語のpatriot(パトリオット)は、愛国者を意味する。湾岸戦争では、米軍のミサイルの名前として知られた。「愛国法」と呼ばれる、9?11テロの後にできた法の扱いを巡って、米国内で論議が起きている。

 愛国法は、テロ対策のため、捜査機関の権限の強化を認めている。ただ、電話の傍受のように、市民的自由を侵害する条項などは4年間の時限付きで、その期限が今年末だった。

 ブッシュ大統領は時限措置の恒久化を求めた。民主党に加え、一部の共和党議員も反対していたが、とりあえず、この権限を短期間延長することで歩み寄った。しかしこれとは別に、大統領が、令状なしで盗聴する権限を国家安全保障局(NSA)に秘密裏に与えていたとニューヨーク?タイムズ紙が特報し、大統領は批判にさらされた。

 民主党のファインゴールド上院議員が述べた。「大統領が勝手に法律をつくりあげることはできない。そんなことをしていては、ジョージ?ブッシュ大統領ではなく、ジョージ?ブッシュ国王となってしまう」

 チェイニー副大統領は、こう反論した。「ベトナム戦争やウォーターゲート事件で、大統領権限は制約されてしまった。しかし私たちは、大統領権限をかなりの程度まで合法的に回復することに成功した」

 「合法的な回復」に疑問が浮かぶ。令状なしの盗聴には民主主義社会を根本から覆す危険性がある。愛国法が成立したのは9?11のテロ直後の「戦時」だった。しかし「戦時」だからといって、ひそかに権限を膨らませていいはずはない。

 「小サナル早附木売ノ娘」。デンマークの作家アンデルセンの「マッチ売りの少女」が、明治期に翻訳された時の題だという。古くから日本にもなじみ深いアンデルセンの生誕200年の記念展が、東京?大手町の逓信総合博物館で25日まで開かれている。

 アンデルセンは、英国の作家ディケンズと交流があった。英国への招待を受けて送った手紙の複製がある。「私は今、あなたのところに向かって旅をしています……私はロンドンが好きではありませんし、2、3日以上は決してそこに留まらないでしょう……田舎の空気に触れたいと思います」

 筆まめだったというが、母親あての手紙は長くみつかっていなかった。最近、デンマーク王立図書館の研究員が発見した。記念展には、その複製も展示されている。「いつもと同じようなおたよりをいたします……最近の旅行記がやっと書き終わりました……お母さんはお元気ですか?……おたよりを楽しみにしています。僕は元気ですよ あなたのクリスチャンより」

 これまで、アンデルセンの母親への感情は冷え切ったものといわれてきた。この26歳の時の手紙からは、母親を気遣う新しい一面がうかがえる。

 銀座の通りに出ると、救世軍の社会鍋が出ていた。クリスマスの歌が流れ、電飾をまとったツリーが並んでいる。

 ディケンズは「クリスマス?キャロル」を著し、アンデルセンは、大みそかの夜の「マッチ売りの少女」を書いた。19世紀の歳末をそれぞれに描いたふたりの会話を想像しながら、人の波に分け入った。

 0歳から100余歳まで、1年ごとの年齢のもつ意味合いを、各界の著名人がその年でしたことと並べてつづる。英国の動物行動学者デズモンド?モリスの『年齢の本』(平凡社)は、ユニークな視点で描かれた一冊だ。

 「15歳は門出の年だ。青年期の若者が成人期にまさに入ろうとする時期であり、刺激的な世界に胸をときめかす」。ビリー?ホリデイがニューヨークで歌い始めた年とある。日本なら、プロ棋士?羽生善治の誕生を挙げるところか。

 モリスは、日本を含む多くの国々が、この年齢を義務教育の修了年限にしていることにも触れている。日本の場合は、進学や就職といった試練に直面するこの年を「15の春」と形容してきた。

 この人の「15の春」はどうなるのか。フィギュアスケートのグランプリファイナルで優勝した浅田真央さんの見事な演技の映像を見ていて、そんなことを思った。

 今年の7月1日の前日までに15歳に達しているのが、トリノ五輪の出場資格の規定だった。浅田さんが15歳になったのは9月だった。この年齢制限の規定は一貫しておらず、その時々で変わってきた。

 年端も行かない小学生のような幼子に、才能があるからといって練習や演技を強要しているのなら、より強い規制も必要だろう。しかし今回は「門出の年」に達した人の出場資格だ。伸び盛りの若い人には、独特の胸のすくような勢いがある。重力のくびきを離れる瞬間の姿が五輪で見られないのは残念だ。今の線引きの仕方がくびきになっていないかどうか、再考する価値はある。

 毎年クリスマスが近づくころに読み返したくなる本がある。ドイツの作家ケストナーの『飛ぶ教室』だ。寄宿学校を舞台に一群の生徒たちと、彼らを取り巻く人々との交流の物語である。

 主人公の一人は、貧しい給費生のマルチン。冬の休暇直前に故郷から手紙が届いた。父親が失職し、旅費が工面できないという。他の生徒が帰省する中、学校に居残る彼を舎監のベク先生が見つけた。「どうしたわけなのだ」「いいたくありません」

 泣き崩れるマルチンに先生は20マルクを渡す。「クリスマスの前日に贈る旅費は返すにはおよばない。そのほうが気もちがいいよ」(高橋健二訳)。その晩遅く、息子の帰還に驚く両親にマルチンがまっ先に言ったのは、「帰りの汽車賃もぼく持ってるよ」だった。

 何度読んでも、ここで目頭が熱くなる。本が書かれた1933年は、ヒトラーが政権を取った年だ。世界が不況に沈み、多くの人にとって、貧困や失業は生々しい問題だった。

 今からみれば、主人公の抱える友情やライバル関係の悩みは甘っちょろいかもしれない。最近ドイツで映画化された「飛ぶ教室」では、学校への不適応や両親の離婚など現代の状況を織り込み、大胆に改作していた。

 しかし、原作の伝えるメッセージに変わりはない。ケストナーは言う。「どうして大人は子どものころを忘れることができるのでしょう。子どもの涙は、決して大人の涙より小さいものではありません」。子どもを暴力や欲望の対象としか見ない悲劇が続く年の終わりに、改めてこの名作を読もうと思う。

« 上一页下一页 »