天声人语


 「今年はケヤキが不気味な枯れ方をしています」と東京近郊の読者からお便りをいただいた。「葉が縮れたまま散らない」とある。家のそばのケヤキ並木を観察してみた。くすんだ茶色の葉が枝先で絡まり合い、素人目にも様子がおかしい。

 ケヤキの巨樹がある立川市の国営昭和記念公園を訪ねた。樹木医の川原淳さんによると、専門家の間でも話題になり始めたところだという。異変に気づいたのは春先で、花が例年になく多く咲いた。夏には緑の葉が茶色に変わり、秋には縮み出した。「病気ですか」と心配する来園者もいた。

 関東地方だけではない。京都府立植物園でも今年はケヤキの葉がよじれ、枯れが目立った。名古屋市の東山植物園では、カエデやモミジは例年通りだったのに、ケヤキだけ十分に色づかないまま秋を終えた。山陰や九州でも同様の例が見られた。

 「ケヤキの葉が枯れたまま落ちない現象は十数年前からあるが、今年は特にひどい」。植物の生態に詳しい国立科学博物館の萩原信介さんは話す。病虫害ではないようだが、葉と枝を切り離す離層という部位が十分に育たず、北風に吹かれても古い葉が枝から落ちない。

 ケヤキは古名を槻(ツキ)と言う。万葉集にも歌われ、戦国時代にはお城の造営に使われた。現代では公園や街路でおなじみで、「けやき通り」や「けやき平」はあちこちにある。

 地球温暖化のせいかどうか原因はまだ不明だ。米国の思惑もあって人類共通の温暖化対策がうまく進まない。しびれを切らしたケヤキが身を挺(てい)して何か警告しているのだろうか。

 アインシュタインは、1922年、大正11年の暮れの今頃、京都、奈良を夫婦で旅していた。ノーベル物理学賞の受賞が決まったばかりで、東京や仙台、名古屋などでも盛んな歓迎を受けた。東京では小石川植物園で帝国学士院の歓迎会があり、記念写真が残された。

 戦後の昭和39年、その植物園に英国からリンゴの苗木がやってきた。ニュートンが万有引力を発見したとの逸話のあるリンゴから接ぎ木されたものだった。その時、科学の巨人ふたりの接点が小石川にできた。

 「ふたりのどちらが、科学や人類により貢献したか」。アインシュタインの特殊相対性理論などの発表から100周年の今年、英王立協会が投票を募った。

 「科学への貢献」では、協会の科学者も一般人も、ニュートンの方がかなり多かった。「人類への貢献」では、科学者の6割がニュートンだが、一般人では、票は半々に分かれた。

 2000年に、本紙が、この千年の傑出した「日本の科学者」を読者から募集した。「日本の」なのに、科学に国境はないというのか、外国人を挙げる人もいた。そのトップはアインシュタインで、ニュートンは5番目だった。

 アインシュタインは、自宅の書斎にニュートンの肖像を飾っていたという。「ニュートンにとって自然は一冊の開かれた書物であり、その文字を難なく読むことができた」とも述べた(金子務『アインシュタイン劇場』青土社)。昨日、冬空に枝を差し伸べる小石川のリンゴの前で、自然という書物を前人未到の目で読み解いたふたりのことを考えた。

 アドリア海に注ぐイタリアのルビコン川は、古代ローマ時代にカエサルが「賽(さい)は投げられた」と言って渡った故事で知られる。河口近くの町で見たルビコン川は、幅十数メートルの小さな流れだった。

 橋のたもとにカエサルの像が立っている。渡れば元老院に背くことになるその一線を、彼は越えた。川は小さかったかもしれないが、歴史への刻印は大きかった。

 耐震強度を偽装した姉歯秀次元建築士が、一線を越えて法に背いたのは、1998年ごろだったという。昨日、国会の証人喚問で証言した。鉄筋を減らすのはこれ以上は無理だと、木村建設側に何度も言ったという。それでも「減らしてくれ」と言われる。「断ると収入が限りなくゼロになる」。そして、ついに「やってはいけないと思いながらやった」

 木村建設側は偽装への関与を否定した。真相はまだ分からない。しかし、一線を越えた後、建設され続けた偽装の疑いのある建物は、数十棟にも及ぶという。その一つ一つで営まれていた人々の暮らしが大きくゆさぶられた。捜査による早期の解明を待ちたい。

 20年近く前、出張先のローマで、高層住宅の一角が突然崩れ落ちたという現場を見た。別の建物では、ひさしが崩れてけが人が出ていた。その一方、2千年も前のカエサルの時代の建築は往時の姿をとどめている。「永遠の都」の皮肉な一面だった。

 国会で、今後の改善策を問われた元建築士は、民間の検査機関の審査を厳しくチェックしてほしいと述べた。偽装建築士が、偽装対策を語る。皮肉な問答だった。

 「郵刺客者(ゆうしかくしゃ)」「セパ琢磨(たくま)」「大株主命(おおかぶぬしのみこと)」。住友生命が募集した今年の出来事や気分を表す「創作四字熟語」だ。

 こんな作品もある。住宅や駅にサソリやヘビが出没した「行方悲鳴(ゆくえひめい)」。少子化の傾向が止まらない「減子次代(げんしじだい)」。クールビズが広まった「薄衣多売(はくいたばい)」。世界の各地で大きな地震や災害が起きて、「津々揺々(つつゆらゆら)」。大方は、11月までの動きにちなむものだ。そこで主に直近のニュースに即して、及ばずながら思案してみた。

 ブッシュ米大統領が演説して、イラクの大量破壊兵器についての機密情報が間違っていたと認めつつ、戦争を正当化した。イラク人の死者は、民間人だけで約3万人ともいう。謝罪とざんげがないのでは、「先制薮主(せんせいぶっしゅ)」の強弁と言われても仕方がないのではないか。

 その大統領による先制攻撃をいちはやく支持した小泉首相の責任も、改めて問われる。大統領の開戦責任と、つながっているからだ。大事な日米関係が、「ブ唱小随(しょうこずい)」でいいはずがない。イラクへの自衛隊派遣の1年延長も「米意和達(べいいわたつ)」のように、あっけなく決まった。

 国内では、耐震偽装の問題が深刻だ。鉄筋を不当に減らされた「中空楼閣(ちゅうくうろうかく)」が幾つも建てられた。株を巡っての騒動も相次いだ。買い占めに走る「株主総買(かぶぬしそうかい)」があり、誤って発注された株を大量に手に入れたものの、利益を取るかどうか対処に迷う「握銭苦悩(あくせんくのう)」と「取捨忖度(しゅしゃそんたく)」があった。

 この一年、殺伐としたニュースが目立った。最後ぐらいは、明るい出来事に期待したい。除夜の鐘までには、まだ少しだが間がある。

 みずほ証券が株を大量に誤って発注した問題で、与謝野経済財政?金融担当相が述べた。「誤発注と認識しながら、他の証券会社がその間隙(かんげき)をぬって自己売買部門で株を取得するというのは美しい話ではない。行動の美学を持つべきだ」

 今回、いわば瞬時に何億、十何億円という利益を得たとされる証券会社が幾つかある。発注後に間もなく間違いと気付いたが、システムの不備で訂正が利かず市場を巡ったジェイコム株をつかまえた会社だ。

 生き馬の目を抜く舞台で、俊敏に仕事をしたに過ぎないとも言えるだろう。しかし一方では、本当にこれでいいのだろうかという思いもわいてくる。

 「右手にそろばん、左手に論語」。利潤の追求と道徳という、一見相いれない二つのものをあえて両の手に掲げたのが、明治期の実業家の草分け、渋沢栄一だった。著書の『経営論語』には、こんな一節がある。「古くから、『盛(さか)って入るものは盛って出づ』といふ諺がある。一攫千金の相場で儲けた金銭なぞが即ちそれで……」

 銀行家でもあった渋沢は、投機には一切手を出さなかったという。「論語とそろばん」が両立しにくい分野だと考えたのだろうか。「商売の徳は売る者も買ふ者も共に利益を得て悦ぶ所にある」とも述べている。

 兜町の東京証券取引所の前身である東京株式取引所は、渋沢らの提唱によって、明治11年、1878年に開設された。商売にも道徳的な美を求めた創設者の目に、今の巨大な市場は、どう映ることだろうか。あえて、辛口の言葉を聞いてみたい気もする。

 小1の少女が下校中に連れ去られた栃木県今市市の学校周辺を歩いた。少女の通学路の一つは雑木林をぬける細い道だった。行き交う人影はない。散り敷いた落ち葉を踏む自分の足音だけが聞こえた。

 持って来た防犯ブザーを鳴らしてみた。ビーンビーンと人工的な音が響く。説明書によれば音量は90デシベルだが、ここでは無力だ。人家は遠く、だれの耳にも届くまい。頭上で鳥がけたたましく鳴いた。

 携帯用の防犯ブザーが商品化されたのは1959年である。業界団体によると、もとは痴漢やひったくり犯から女性を守るのが主な用途だった。次いで外回りの銀行員らに広まる。子どもが襲われる事件が続いた数年前から需要が増え、今や全国の低学年児に行き渡りつつある。

 広島市の事件で命を奪われた少女もふだんは防犯ブザーを持って登校していたようだ。ただ当日は電池切れで自宅に置いたままだったらしい。持っていたとしても、魔の手を遠ざけることができたかどうかはわからない。

 栃木県を離れ、少女の遺体が見つかった茨城県へ向かう。車で東へ2時間弱、発見現場の山林は昼間でもほの暗かった。狩猟の下見で男性が通りかからなければ、発見は遅れていたはずだ。事務机を並べた簡素な祭壇に、少女の好物なのか、乳酸菌飲料や鶏の空揚げが供えられていた。

 きのうは京都府の学習塾で惨劇が起きた。小学生の通学や塾通いにこれほど不安を感じた時代があっただろうか。このごろは防犯ブザーだけでなく、寺社のお守りを結わえたランドセル姿が急に増えた気がする。

 ところ変わればマークも変わる。日本ではなじみの深い赤十字のマークは、イスラム教圏では赤くて細い月の「赤新月」になる。

 十字の形が、キリスト教を連想させるからだ。この二つに加えて、赤いひし形を第3のマークとして認めることがジュネーブの国際会議で決まった。

 赤い十字のマークは、創立者アンリ?デュナンの祖国で、赤十字の創設に寄与したスイスに敬意を表し、国旗の配色を逆にして定められた。マークには宗教的意味合いは含まれていないというが、かつては日本でも赤い十字を避けた時期があった。

 日本赤十字社の前身の「博愛社」は1877年、明治10年に設立された。西南戦争での両軍の負傷者の救援がきっかけだった。キリスト教の布教のための活動ではないかという誤解を避けるため、日の丸の下に横一文字を書いたマークの旗が掲げられた(桝居孝『世界と日本の赤十字』タイムス)。

 新しいマークは、これまで赤十字と赤新月のどちらもの使用を拒んできたイスラエルの「ダビデの赤盾社」が、赤十字運動へ加盟する道を開くという。赤いひし形の中に、各国の組織が独自のマークを入れることが可能で、赤盾社が認めるように要求してきた「ダビデの星」を中に組み込むことができる。

 イスラエルについては、イランの大統領が、「地図から消されるべきだ」「ドイツなどに移せばよい」などと述べて波紋を呼んでいる。対立の根は深い。しかし、使うマークは違っていても、赤十字運動という場を共にすることは決して無益ではないはずだ。

 一日が無事に終わると、カレンダーの日付に丸をつけた。ただし、その日の夜にではなく、翌朝にだった。なぜなら、攻撃は決まって夜だから。イラクのサマワでの任務を終えて帰国した自衛隊員が、本紙の取材に語っていた。宿営地での緊迫感がうかがえる。

 国内で待つ人たちも、一日一日を祈るような思いですごしてきたに違いない。幸い、今のところ犠牲者は出ていない。しかし、これは隊員の細心の備えや日々の努力と幸運とによってもたらされた薄氷の無事だった。

 小泉内閣は昨日、自衛隊のイラクへの派遣期間をもう1年延ばすことを決めた。イラク戦争そのものの正当性が強く疑われ、米国内でも撤退を求める声が高まっているが、さほどの議論もないまま延長が決まった。

 藤原帰一?東大教授の言葉を借りれば、国際政治は米国による徳川幕藩体制のように動いている(『不安の正体!』筑摩書房)。「将軍はもちろんブッシュ大統領、そのブッシュにどれだけ近いか忠誠を競い合うわけです」。各国が「大名」とすれば、英国が親藩、日本は譜代だろうか。

 イラク戦争に反対した、いわば外様のドイツのメルケル首相が、ライス米国務長官を横にして記者会見で米側を批判した。「民主主義の原則や法律、国際的ルールを守らなければならない」。米中央情報局(CIA)が東欧などに秘密収容所を設け、独国内の空港を無断利用した疑惑についての発言だ。

 「将軍」への批判は広がっている。日本は付き従うことなく、撤退への道筋を独自に描く時期に来ている。

 ラジオから日本軍の真珠湾攻撃の報が流れてきた。「アメリカと戦争が始まったよ」。若き日の池波正太郎が言うと、日清?日露戦争を体験した祖母は平然として「また戦(いく)さかえ」とこたえた。「ちえッ。落ちついている場合じゃないよ」とどなりつけて家を飛び出す。日本が米英に宣戦布告した1941年、昭和16年12月8日の朝である。

 東京?浅草の家を出て日本橋で友人と会った後、レストランに行く。カキフライでビールを2本のみ、カレーを食べてから銀座で映画「元禄忠臣蔵」をみた。「映画館は満員で、観客の異様な興奮のたかまりがみなぎっていた。いずれも私のように、居ても立ってもいられない気持で映画館へ飛び込んで来たのだろう」(『私の一本の映画』キネマ旬報社)。

 「聴きいる人々が箸(はし)を捨てた、フオークを捨てた、帽子もオーヴアも脱いだ……全員蕭然と直立し頭を垂れ、感極まつてすゝり泣く人さへあつた」。東京?神田でラジオの開戦の放送を聴く人々の姿で、「同じやうな感激の光景は全国至るところに描かれた」と、本紙3面のコラム「青鉛筆」は伝えた。

 真珠湾攻撃の報を聞いたチャーチル英首相は、すぐルーズベルト米大統領に電話した。大統領は「いまやわれわれは同じ船に乗ったわけです」と言った。

 チャーチルは、感激と興奮とに満たされたと自著に記した。「日本人についていうなら、彼らはこなごなに打ちくだかれるだろう」(『第二次世界大戦』河出書房新社)。

 日本が、あの破局へと向かう、3年と8カ月の第一日だった。

 2016年の夏季五輪に向けて、国内の候補都市を来年8月末までに一本化するという。既に手をあげている東京都、福岡市や模索中の札幌市は、五輪の開催を景気回復や道路、新幹線整備などの「起爆剤」とみているそうだ。

 五輪は独特の輝きを放つ催しだ。肥大化や招致競争の過熱、選手の薬物汚染などの問題は深刻だが、いつも多くの感動的な場面が生まれ、人を酔わせる。開催される都市や国の夢を担ってきた。

 東京五輪は、焦土からの完全な復興を国際社会に示すという戦後日本の大きな夢を背負っていた。それが1964年、昭和39年の秋に実現したとも言えるが、一方で、五輪成功の旗印のもとに、街は大きく造りかえられた。

 五輪の少し前の東京を舞台にした映画「ALWAYS 三丁目の夕日」(山崎貴監督)が公開されている。東京タワーが建設中だった昭和33年の都心の街での、さまざまな人模様が描かれる。大通りはともかく、裏通りと路地の多くは、自動車ではなく、まだ人と自転車のものだった。

 東京での職場は光り輝いているものと思い描いてきた集団就職の少女の夢が、いったんは破れる。しかし、そこには、路地の網の目のように張り巡らされた人の心の結びつきがあった。

 東京に限らず、改造の度に、都会からはこうした心の路地や自然が失われてきた。もし2016年に五輪が来たら、その都市はどんな変化をするのだろうか。巨額の出資を伴う「起爆剤」や「再開発」が、残されていた貴重なものすら取り払うことのないように願いたい。

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