ラジオから日本軍の真珠湾攻撃の報が流れてきた。「アメリカと戦争が始まったよ」。若き日の池波正太郎が言うと、日清?日露戦争を体験した祖母は平然として「また戦(いく)さかえ」とこたえた。「ちえッ。落ちついている場合じゃないよ」とどなりつけて家を飛び出す。日本が米英に宣戦布告した1941年、昭和16年12月8日の朝である。

 東京?浅草の家を出て日本橋で友人と会った後、レストランに行く。カキフライでビールを2本のみ、カレーを食べてから銀座で映画「元禄忠臣蔵」をみた。「映画館は満員で、観客の異様な興奮のたかまりがみなぎっていた。いずれも私のように、居ても立ってもいられない気持で映画館へ飛び込んで来たのだろう」(『私の一本の映画』キネマ旬報社)。

 「聴きいる人々が箸(はし)を捨てた、フオークを捨てた、帽子もオーヴアも脱いだ……全員蕭然と直立し頭を垂れ、感極まつてすゝり泣く人さへあつた」。東京?神田でラジオの開戦の放送を聴く人々の姿で、「同じやうな感激の光景は全国至るところに描かれた」と、本紙3面のコラム「青鉛筆」は伝えた。

 真珠湾攻撃の報を聞いたチャーチル英首相は、すぐルーズベルト米大統領に電話した。大統領は「いまやわれわれは同じ船に乗ったわけです」と言った。

 チャーチルは、感激と興奮とに満たされたと自著に記した。「日本人についていうなら、彼らはこなごなに打ちくだかれるだろう」(『第二次世界大戦』河出書房新社)。

 日本が、あの破局へと向かう、3年と8カ月の第一日だった。