Archive for 一月, 2005

  「クレームが来るのではないかと予想はしていたが、こんなに大きな波とは」。NHK前会長らの顧問辞任を発表する会見で、橋本元一会長は見通しの甘さを認めた。NHKという巨大な船のデッキに立った新船長が、さざ波程度を予想していたとは思えないが、うねりぐらいならかわせると踏んでいたのだろうか。

  波は、時に予想を超える振る舞いをする。その一つが「一発大波」だ。気象エッセイストの倉嶋厚さんの「お天気衛星」にはこうある。普通、人が海岸に立って感じる波の平均の高さは、その時に現れた波を高い順に並べて、上位3分の1までの高さを平均した値に近い。天気予報の波の高さもこれだ。しかし千波に一つは約2倍の大波になって、人や船を襲う。

  波に関する幾つかの本によると、世界で観測された最も高い波は、10階建てのビル並みの37メートルだ。1933年2月、大荒れの太平洋上で、米海軍のタンカー「ラマポ」が報告している。

  巨船「NHK」は、これまでにないような高い波に囲まれている。視聴者の目は厳しく、操船を誤った船長の交代だけでは波は鎮まらない。前船長や取り巻きの口出しを許さない、本当の意味での新しい船出が必要だ。

  この船は不沈船とも言われてきた。受信料という、他の船には無い永久固定燃料の供給があったからだ。今度の波は、燃料供給の方法の見直しも求めているようだ。

  視聴者から見て、民放では得られない価値のある放送?報道がどれだけできるのか。かじ取り次第では「一発大波」を何発もかぶりかねない。

  ポーランドのアウシュビッツ強制収容所が解放されて60年がたった。記念の式に集まる元収容者も老齢化している。人間が人間に対してなした究極的なおぞましい所業の一つを、記憶し直す時だ

  フランクルの『夜と霧』を訳した霜山徳爾さんは、アウシュビッツの記録の中で注意を引くものとして「カポー」の存在を挙げた。元々は囚人だが、その中から選ばれ、他の囚人を監督し取り締まる側に回る

  「彼らの内にはナチスの看視兵よりもずっと残酷に同胞を迫害した人間が少なからず存した」。生き残るために特権にかじりつくだけでなく、享受さえしたという。「人間のエゴイズムの哀しさを露骨に感じさせる」

  一方、極限状況でも尊厳を失わなかったひとりとしてコルベ神父を挙げる。死刑を宣告された男の身代わりとなって殺された。収容所跡には神父の房が残されている

  数年前の今頃、アウシュビッツを巡り、人間の幅というものが試された現場だと感じた。元々は「普通の人」だったはずの多くのドイツ人や「カポー」が行き着いた残虐と、それにさいなまれた人たちの絶望、そして、この残虐も奪い尽くせなかった人間の尊厳。人の弱さと強さとの幅を人気のない雪原の中で思った

  先日来、ハンセン病患者に対するおぞましい所業についての報道が続く。産んだばかりのわが子を看護婦に窒息させられたとの発言もある。これも、元々は「普通」だったはずの人や社会が行き着いた残虐なのか。未来のためにも、そこにまで至った道筋を見極めて記憶する必要がある。

 「雪を掃(はら)ふは落花(らくくわ)をはらふに対(つゐ)して風雅(ふうが)の一ツとし和漢(わかん)の吟詠(ぎんえい)あまた見えたれども、かゝる大雪をはらふは、風雅の状(すがた)にあらず」。越後の大雪や暮らしぶりを描いた鈴木牧之の『北越雪譜』(岩波文庫)の一節だ。雪下ろしは、土を掘るようだから「雪掘(ゆきほり)」と呼ぶともある

  周りの雪の白さとは対照的に、四角い暗い穴がぽっかりと開いている。新潟県小千谷市の旅館「篠田館」で、浴場の屋根が落ちた現場の写真である。いたましいことに、ふたりの男性が亡くなった

  あの地震の後、宿の主人らは客室を一つずつ片付け、間もなく営業を再開した。水道が使えるようになってしばらくは、浴場を住民に無料で開放していた

  あるなじみ客が支援にかけつけると、主人が言ったという。「いつもの4倍の毎日80人以上が入るため、普段より忙しい。4キロもやせた」。鉱泉をボイラーで沸かすので経費がかかる。「まあ、困った時はお互いさま。お金は取れません」

  浴場で亡くなったひとりは、鉄道の復旧工事で働いていた。もうひとりは、近くの自宅が地震で被害を受け、仮設住宅に入っていた。被災者や復旧に携わる人たちにとって、信濃川を望む湯は慰めであり、明日への力にもなっていたはずだ

  牧之は「(雪)掘(ほら)ざれば……力強(ちからつよき)家も幾万斤(いくまんきん)の雪の重量(おもさ)に推砕(おしくだかれ)んをおそるゝゆゑ、家として雪を掘(ほら)ざるはなし」とも記している。旅館では「屋根の雪下ろしは毎日やっていた」という。市は、旅館を「半壊」と認定していた。雪の追い打ちを振り払う手だてが尽くされるようにと願う。

 お追従者からいかに身を守るか。たいへん難しいが、君主にとっては極めて重大な問題だ、とマキャベリが述べている。

 「そもそも、お追従者から身を守る手段は、真実を告げられてもけっして怒らないと人々に知ってもらうしかない」。しかし、誰が言ってもいいとなると尊敬の念が消えてしまう。そこでマキャベリが勧めたのは、何人かの賢者を集めて彼らに自由に真実を語ってもらう仕組みだ(『君主論』中公文庫)。

 NHKの会長辞任劇を見ながら思った。マキャベリの指摘するような「君主の陥穽(かんせい)」にはまっていたのではないか。追従者が重用されるような組織になっていはしなかったか。それをチェックする賢者集団であるはずの経営委員会が、はたしてよく機能していたかどうか。

 皮肉なことに最もよく機能したのが、そもそも論議の多い受信料という仕組みだった。不祥事や対応のまずさに敏感に拒否反応を示した。組織の土台を揺さぶる動きである。

 NHKと似たような受信許可料制度で運営される英国のBBCが数年前にこの制度をめぐる世論調査をした。制度が必要だとする人は69%だった。いまの料金に満足しているという人は53%、非常に不満という人は15%だった。自画自賛気味ではあるが、BBCを英国の財産とみる人が90%にのぼるなどといった数字を挙げながら視聴者の信頼は高いとしている。

 過去、政府と厳しい緊張を強いられることもしばしばだったBBCの経験はNHKにも参考になるだろう。視聴者そして国民の信頼があってこその公共放送である。

 「かくて彼らはその剣を鋤(すき)にうち変え、その槍(やり)を鎌(かま)に変える。国は国に向かって剣を上げず、戦争(たたかい)のことを再び学ばない」

 旧約聖書のイザヤ書(岩波文庫)に出てくる有名な言葉だ。命を奪い合うための剣や槍を溶かし、命を養うための鋤や鎌につくりかえる。時代を超えて訴えかける平和への祈りである。この言葉がニューヨークの国連本部の向かいにある小さな広場の壁に刻まれている。

 国連事務次長などを務め、1971年に死去したラルフ?バンチにささげられた銘だ。彼は大学時代のスピーチコンテストで、まずこの言葉を引用して演説を始めたという。以来、しばしば引用した愛用の言葉だった。

 黒人として初めて米国務省高官になり、国連創設にあたって国連憲章の起草にも深くかかわった彼は、50年にノーベル平和賞を受賞した。第1次中東戦争を和平に導いたことが評価された。しかしかの地では、あれから何度の戦争が起き、何度の和平の挫折が繰り返されたことか。

 いままた、アラファト議長の後を継いだアッバス氏がパレスチナ和平の再構築を図ろうとしている。容易な道ではない。薄氷を踏むような思いの連続だろう。ラルフ?バンチの死去に際し、当時のウ?タント国連事務総長が彼をたたえた言葉を思い起こしたい。「ラルフは理想主義者であり、また現実主義者でもあった」と述べつつ、和平の試みは「やりなおすのに遅すぎるということはない、と彼は信じていた」

 剣を鋤に、が祈りではなく現実になりうる。そう信じて和平への道を探るしかない。

 日本に郵便の仕組みを採り入れる時、前島密(ひそか)は、料金をどう定めるかで思い悩んだ。その折、命じられて洋行し、郵便事業は政府の独占で料金は遠近均一と知る。「其時の心持といふ者は実に清々として、是迄の迷ひも全く霽(は)れ、雲霧を出て青天を望むといふ有様であつた」(『郵便創業談』)

 そして創業2年後の1873年、明治6年に、太政官布告が出された。「量目等一ノ信書ハ里数ノ遠近ヲ問ハス国内相通シ等一ノ郵便税……」。今に続く、全国一律料金の始まりだ。

 しかし、当時は「この手紙は軽い」「届け先が近い」などといって料金を負けろと談判する者もあった。茶やたばこを要求し、断られると横着だなどとののしる手合いもいた。前島は「郵便取扱所」を一時「郵便役所」と改め、官の威力を借りたと述べている。

 「郵便局」となったのは明治8年で、身近な通信網として広がり、生き続けてきた。しかし、膨大な資金を集める世界最大の金融機関という面も問われるようになった。資金の運用にも問題は多い。

 民営化を掲げる小泉政権は、07年4月に4分社?民営化という方針を出した。支持基盤が地方にあり、郵政の組織を有力な支援団体としてきた自民党は抵抗する。郵政だけでなく、貯金、保険事業でも「全国一律サービス義務」を唱えた。

 郵便局を票の束と見ているとしたら、「一律」の創設者も嘆くだろう。何でも一律ではなく、重さ、大きさできちんと仕分けをして送り出さないと、将来の受け手が、とてつもない不足料金を背負う羽目になる。

 ある時、ルーズベルト米大統領は、チャーチル英首相に対して「今度の戦争を何と呼ぶべきかについて、一般の意見を求めている」と言った。即座に「無益の戦争」と答えたと、チャーチルは書いている(『第二次世界大戦』河出書房新社)。今度の戦争ほど、防止することが容易だった戦争はかつてなかったのだとも記す。

 60年前の今頃、その戦争は終わりに近づいていた。1月末、チャーチルは、ルーズベルト、スターリンと会談するため、クリミア半島のヤルタへと向かった。

 一行は3機に分乗していたが、うち1機が途中で墜落した。さすが豪気のチャーチルも、ひやっとして述べた。「奇(く)しき運命の岐(わか)れ道だった」(『チャーチル物語』角川書店)。それは、世界のその後にとっても、小さくない岐れ道だった。

 戦時中、ドイツ軍の空襲を避けて、チャーチルが閣議を開いていた地下施設がロンドンに残されている。ダウニング街の首相官邸にほど近い「戦時内閣執務室博物館」だ。「この部屋から、私は戦争を指揮する」と述べた。

 作戦室や会議室の他に、チャーチルの居室があった。そこには、寝泊まりに使ったというベッドが置かれている。写真や映像での堂々たる巨漢という印象からはほど遠い、小ぶりなものだった。

 チャーチルは、ルーズベルトよりもスターリンよりも前に生まれ、ふたりより長く20世紀を生きた。そして、40年前の今日、90歳で他界した。臨終に際して、こう述べたと伝えられる。「もうすっかり、いやになったよ」(『チャーチル名言集』講談社)

 夜ひそかに集合する。墓地監視人にはワイロをつかうか薬をのませる。暗闇の中で必死に穴を掘り、財宝を探す。夜明けには盗品を山と積んで家に帰る――。エジプトではびこった盗掘の様子を、ツタンカーメンの王墓を発見した英国の考古学者ハワード?カーターは、こんな想像をしながら書いているという。(『ナイルの略奪』法政大学出版局)

 早稲田大の古代エジプト調査隊が、未盗掘の彩色木棺とミイラを発掘した。ミイラのマスクの色が鮮やかだ。顔やその周りに施された神秘的な青と、胸元を飾る軽快な赤との対比も目を引く。

 「さてミイラ加工を職として開業し、専門的技術をもった職人がいるのである」。紀元前5世紀にエジプトを訪れた「歴史の父」ヘロドトスが記している(『歴史』岩波文庫)。職人たちは、絵の具を用いて実物に似せた木製のミイラの見本を依頼人に見せる。見本は最も精巧な細工のもの、それよりは雑なもの、最も安いものと3種類あった。

 今回のミイラの主は行政官だという。「役人の給料は現物で支給された。役人は土地を貰(もら)い受け、そこで収穫されたものが彼らの生活を経済的に保証した」(『エジプト ファラオの世界』)

 現代の仕組みとは大違いだが、妙に似たところもある。「役人たちは引退が近づくと、それなりの働きをした役人は名誉職として大きな神殿の神官など、かなりの報酬が約束される地位を得ることも珍しくはなかった」

 日本にはびこる、天下りの源か。天下り先が、現代の神殿や、財宝付きの墓にも思われてきた。

ワシントン、トラファルガー、コンコルド、天安門、皇居前……。多くの人が集まり、行き交う広場は、その都市の顔でもある。米議会で、ライス次期国務長官が「街の広場の試金石」という聞き慣れない言葉を使った。

 その国の自由の度合いについての判断法だという。人が、ある街の広場に行ったとする。自分の見解を、逮捕や投獄や拷問を恐れずに表明することができないのであれば、その人は自由社会ではなく、恐怖の社会に住んでいるとみなす。

 この「タウン?スクエア?テスト」は、旧ソ連の政治犯で、今はイスラエルの政治家であるナタン?シャランスキー氏が提唱したという。この人は、かつて収監されていたモスクワの監獄を訪れた時、こう述べた。「母校に帰ってきたような気がする。ここは私が学んだうちで最も重要な“大学”だった」

 なるほど、学んで得た判断法には、一応の説得力がある。しかし、想像上のテストで判断はできたにせよ、肝心で、かつ難しいのは、結果との向き合い方だろう。

 ライス氏は「恐怖の社会」に住む全員が最終的に自由を勝ち取るまで、米国は取り組みをやめるわけにはいかないと述べた。ブッシュ大統領も、2期目の就任演説で、圧制に終止符を打つのが最終目的と語った。そして「フリーダム」と「リバティー」を計42回も使った。

 「自由の商人」のつもりかも知れないが、この政権の、武力行使や単独主義への傾きは、依然気がかりだ。ミサイルや砲弾と抱き合わせの「自由」ならば、世界の広場では売ってほしくない。

 世界一高い山は?と尋ねられたら普通はエベレスト(チョモランマ)と答えるだろう。でも、エクアドルのチンボラソ山だという答えも正解だといえるかもしれない。

 海抜でいうとエベレストだが、地球の中心からの距離ではチンボラソ山(海抜6310メートル)が最も遠い。地心距離といい、それだとエベレストは32位になってしまう。地球が真ん丸ではなく、赤道方向が張り出した楕円(だえん)体だから、赤道に近い山ほど「高く」なる(『地球が丸いってほんとうですか』朝日選書)。

 スマトラ沖地震が地球の形や自転などにも影響を与えたことがだんだんわかってきた。米航空宇宙局(NASA)の発表では、地球の扁平(へんぺい)率が減少、ほんの少し丸くなった。また、自転速度が増して一日の長さが100万分の2.68秒ほど短くなった。地軸も2.5センチほど東に移動したという。インドの観測チームによれば、アンダマン諸島はインド本土から1.15メートル遠ざかった。

 地震波は地球を少なくとも5周し、8周に至っているかもしれない、とは北海道大の解析だ。発生から3週間ほどたっても地球が震えていることを観測したのは国立天文台水沢観測所で、0.3ミリの幅で伸び縮みを続けたという。

 激震は人々に苦痛と悲しみをもたらしただけでなく、地球を揺さぶり、衝撃を与え、変形をもたらした。地球自体がなお激痛にあえいでいるかのようだ。

 神戸市で国連防災世界会議が開催されている。地球規模の災害を、地球規模で考える。そんな発想で論議を深めながら成果をあげてほしい。