ポーランドのアウシュビッツ強制収容所が解放されて60年がたった。記念の式に集まる元収容者も老齢化している。人間が人間に対してなした究極的なおぞましい所業の一つを、記憶し直す時だ

  フランクルの『夜と霧』を訳した霜山徳爾さんは、アウシュビッツの記録の中で注意を引くものとして「カポー」の存在を挙げた。元々は囚人だが、その中から選ばれ、他の囚人を監督し取り締まる側に回る

  「彼らの内にはナチスの看視兵よりもずっと残酷に同胞を迫害した人間が少なからず存した」。生き残るために特権にかじりつくだけでなく、享受さえしたという。「人間のエゴイズムの哀しさを露骨に感じさせる」

  一方、極限状況でも尊厳を失わなかったひとりとしてコルベ神父を挙げる。死刑を宣告された男の身代わりとなって殺された。収容所跡には神父の房が残されている

  数年前の今頃、アウシュビッツを巡り、人間の幅というものが試された現場だと感じた。元々は「普通の人」だったはずの多くのドイツ人や「カポー」が行き着いた残虐と、それにさいなまれた人たちの絶望、そして、この残虐も奪い尽くせなかった人間の尊厳。人の弱さと強さとの幅を人気のない雪原の中で思った

  先日来、ハンセン病患者に対するおぞましい所業についての報道が続く。産んだばかりのわが子を看護婦に窒息させられたとの発言もある。これも、元々は「普通」だったはずの人や社会が行き着いた残虐なのか。未来のためにも、そこにまで至った道筋を見極めて記憶する必要がある。