Archive for 六月, 2005

 衆議院には、「議場内粛正に関する決議」というものがある。「議場の神聖を守るは国民の信託を受けたるわれらの最大の義務なりと信ず。よって今後議員は酒気を帯びて議場並びに委員会に入ることを厳禁すべし」

 日付は、戦後間もない昭和23年の暮れである。決議の少し前、国会内の食堂で、泥酔した蔵相が女性議員に抱きつき、蔵相と議員を辞職している。昔は「良識の府」などと呼ばれていたからかどうかは分からないが、参議院の方には、同じような決議は無いという。

 半世紀以上を経て、粛正決議が突然注目されている。先日の衆院本会議に飲酒をして出席していたとして、与野党双方の議員計18人の懲罰動議が出された。

 民主党から「飲んでいた」と名指しされた小泉首相は「一滴も飲んでいない」と、委員会で岡田代表に強く反発した。難問が山積している この国会で、飲酒を巡る「党首討論」が盛り上がって目立つのは、いささか珍妙で、わびしい感じもする。

 国会の「本場」といえばイギリスであり、イギリスといえばパブである。英国議会の近くにも伝統のパブがある。議会の空き時間には、議員たちがアルコールを楽しむという。本会議や採決の時間が近づくと、その日程に合わせて店のベルが鳴る。議員たちはぞろぞろと店を出て議場に向かう。

 国会に限らず、判断に悪影響が出るような酒は控えるのが、たしなみというものだろう。しかし反論も聞こえてくる。「飲んだ方がいい判断ができる」。人をそんな気にさせてしまうのも、酒のこわいところである。

 東京?板橋の自宅で両親を殺したあと、15歳の少年は池袋に出た。映画館に入り「バットマン ビギンズ」を見る。そして新幹線に乗って、長野県の軽井沢へと向かった。

 社員寮の管理人の父と母を刺すなどして殺害した疑いで逮捕された高校1年の長男の供述という。映画は、主人公の幼い時に、両親が殺害される設定だ。少年は、どんな面持ちで映画館にいたのだろうか。

 福岡市では、15歳の中学3年生が、自宅マンションの部屋で、17歳の兄を包丁で刺し殺した容疑で逮捕された。「兄に夜中に起こされて肩をもまされるなど、こきつかわれている」と、友人に不満をもらしていた。

 板橋の少年の方は、「父に馬鹿にされた」と供述しているという。まだ詳しい動機は分からないが、少年による二つの事件の底には、肉親に対する日頃からの「憎しみ」があるようにみえる。

 日本の殺人事件の検挙人数は、戦後の混乱期や経済成長期を経て減少し、2000年代は1300~1400人台となっている。うち少年は、60年代までは300~400人台が多かったが、70年代初めに100人台となり、2000年代は100人前後の年が多い。

 この大きな流れを見る限りでは、少年による殺人事件は、増える傾向にあるとはいえないようだ。しかし自宅を犯行現場とし、肉親を殺害する「家庭内殺人」は、世の中に独特の衝撃を与えている。戦後の60年で都市化が進み、都会の多くの家庭から庭が失われた。土の庭はあってもなくても、小さな「こころの庭」があれば、と思う。

 60年前の6月23日は、沖縄戦で日本軍の組織的な戦闘が終わった日とされる。その15年後の同じ日には、新しい日米安保条約が発効した。6月23日は、沖縄戦で失われた二十数万の人々を慰霊する日だが、安保の名の下で、沖縄に多くの米軍基地を置き続けることが事実上決められた日でもある。

 戦後、日本が独立したのは、51年のサンフランシスコ講和条約の調印によってだった。沖縄はこの条約に基づいて米国の施政下に置かれた。旧安保条約の調印もなされた。

 それから半世紀以上が過ぎた。冷戦が終わってからも久しいのに、沖縄の米軍基地は、いまだに圧倒的な規模で存在している。昨年、米軍のヘリコプターが大学に墜落したが、日本の警察は現場検証が何日もできなかった。これでは、日本は果たして本当に独立しているのかという思いすら浮かぶ。

 沖縄に行けば、海外の戦場と直結していることを実感する。ベトナム戦争のころは、飛び立った爆撃機がベトナムの人々を襲った。

 北ベトナムへの空爆が始まったのは65年だった。翌年来日した哲学者ジャン?ポール?サルトルが講演会で述べた。「知識人は、この戦争は、世界一豊かな国であるアメリカが、貧しい国に対して行っている侵略なのだということを、暴露して行かなくてはならない」

 戦後の実存主義の代表格で、ノーベル文学賞を拒絶した。9?11からイラク戦争に至った世界を見たなら、「嘔吐」「壁」「出口なし」の作家は、どう語ることだろうか。80年に没したが、今月が生誕から100年にあたる。

 郵送されてきた利用明細書に「100万リラ」とあった。前の月に、ローマのホテルで1泊した分として印字されている。通貨がユーロになるかなり前で、リラは円の1割弱だったが、それでも8~9万円にはなる。そんなホテルには泊まっていないから、すぐおかしいと分かった。

 クレジットカードの会社に連絡した。間もなく「間違いでした」という電話があり、当然ながら銀行口座からの引き落としはなかった。カードのデータ処理の「誤り」なのか、ホテルかどこかの「過ち」なのかは分からなかった。

 カードは便利だが、誰かがなりすまして使うこともできる。対面しないインターネット上の売買は、カードそのものではなく、会員番号や有効期限のやりとりでも成りたつ。

 不正アクセスによるカード情報の大規模な流出がアメリカで起きた。ネット社会のもろさを象徴するようなできごとで、被害は国境を超えて日本にも及んでいる。米の情報処理会社が、社内に蓄積すべきでなかったカード情報を「調査目的」で記録に残したという。不正アクセスは、昨年だったとの報もある。流出から発覚するまでが、なんともまだるっこしい。

 芥川龍之介が「河童」に書いている。「最も賢い生活は一時代の習慣を軽蔑(けいべつ)しながら、しかもそのまた習慣を少しも破らないように暮らすことである」

 人間の社会の方では、カードの利用という一時代の習慣を、軽蔑しきるのも、抜け出すのも難しい。明細書を点検したり、不用なカードを減らしたりするのが、そこそこに賢い生活のようだ。

 両の手のひらを合わせる。拝む、祈る、誓う、感謝する。この古来のしぐさには、さまざまな意味が込められている。

 小泉首相が、硫黄島で戦没者の碑に手を合わせた。追悼式は、2万8千人にのぼる日米両軍の戦死者の霊を慰めるものだった。敵味方を超えた慰霊だが、現職首相の硫黄島訪問は戦後初めてだった。首相は、23日には、沖縄戦の終結60年を迎える沖縄での追悼式に出席する。摩文仁の丘の「平和の礎(いしじ)」には、国籍や軍民を問わずに犠牲者の名が刻まれている。

 戦後、日本での戦没者の追悼は、自国の軍人や市民に向いた。未曽有の戦禍への追悼が、まず身内へ向かうのは致し方のないことだったかも知れない。しかし戦後60年になっても追悼の幅はなかなか広がらない。日本が侵略し惨害を与えた人たち全体に対しても手を合わせることが大切だ。

 〈切実な願いが吾れに一つあり争いのなき国と国なれ〉。小泉首相は、ソウルでの首脳会談後の会見で、韓国の女性歌人?孫戸妍(ソンホヨン)さんの一首を引いた。

 孫さんは戦前に東京で生まれ、戦後再び来日して和歌を学んだ。戦後の最初の歌集の名は韓国の国花の「無窮花」だった。巻頭近くに「悲願」と題した歌がある。〈東亜細亜の涯(きはみ)の国に生ひたちし吾ひたすらに平和を祈る〉。

 孫さんの歌を引いたということは「切実な一つの願い」の実現に力を尽くすということなのだろう。ぜひそうあってほしい。そのためには、日本によって被害を受けた側の声に耳を澄ますことだ。そして、互いに手をたずさえて歩んでいきたい。

 AEDをご存じですか。自動体外式除細動器といっても、ますますわかりにくいかもしれない。乱暴にいえば、心臓が突然止まった時に、電気ショックを与えて、心臓の動きを元に戻すものだ。1年前、医師や救急救命士に限らず、だれでも使えるようになった。空港やホテルなどに置かれつつある。

 銭湯にもあると聞いて、東京?市谷の大星湯を訪ねた。「AED」のステッカーがはられ、現物はフロント横の棚にちょこんと載っていた。経営者の前田哲也さん(37)は「地域の人たちにお役に立てればと思って」という。

 大星湯は7年前から人工呼吸や心臓マッサージの講習をしている。この町のために何かやれないか。若い経営者たちで話し合った時に、救命講習を受けたことのある前田さんが手を挙げた。受講生は銭湯のお客さんたちだ。年に数回、脱衣場が講習の場に変わる。AEDを置くのは自然な流れなのだ。

 自宅や路上で心停止をきたす人は年2、3万人といわれる。先月末と今月初めには、愛知万博の会場で、AEDが役に立ち、男性2人が命をとりとめた。

 東京都済生会中央病院副院長で、心臓病を専門にする三田村秀雄さんは「救急車が来る前に使うのがAEDです。将来は消火器のように一家に1台ほしい。行政が交番や消防団員宅に置き、普及を図るべきです。そうすれば値段も下がる」という。

 買えば数十万円。レンタルしている大星湯は月約7千円の持ち出しだ。それでも前田さんは「銭湯は深夜まで開いています。救急の地域の拠点になりたい」と話している。

  一教讲完了,其他地方大约再也占不了这么多文字了吧。


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  与一教并排的是办公楼(西语大楼),这个地方我相当不熟。在它被装修成新的办公大楼后,一度很疑惑:这楼原本就是工字形的吗?大三的时候,由于参加合唱排练进过这里的某阶梯教室,好像就是现在的第一会议室。恍惚记得从后门离开时会经过一小片树丛,有些惊心。


  记叙走到一教背面,才发现这栋大楼说是丁字形恐怕比L字形更贴切。因为在横划背后延伸出去的竖划竟是区分了两块用途截然不同的地方。


  西边,即与前西语大楼隔道相望的是前印刷厂,一楼二楼都是轰隆作响的机器,三楼则是我和ookyoo陪金san买课本的地方–教材科。那是一间简陋的大房子,尽管是个卖书的地方,我却几乎没有满满当当的印象。只记得进门是些淘汰的课桌拼凑的简陋柜台,课桌后面坐着负责卖书找书和收钱的老师(不知现在的学生如何,那时,除了看门的阿伯,水房的小伙子,我们对学校的工作人员是一律称呼老师的)。负责卖日语书的是个有些矮胖的相当开朗健谈的中年女老师D。明明年届中年,却很喜欢把她那看起来已经烫过若干遍的卷曲头发扎成两个小小辫子。大约由于长年负责卖日语书的缘故吧,她竟已经能用简单的日语与外教就书名进行交谈。比如:“会話の本をください。ー会話(KAIWA)?ーはい、会話です。ーわかりました(WAKARIMASHITA)。”等。


  东边,即一教车棚后的一大片地则是苗圃。有一次随金san去中医学院的时候,我发现即使是那里的苗圃,也不像我们的那样,位于这么重要的位置。现在想来,大约也是林业学院的遗产之一吧。苗圃就在现在整个草坪的位置,面积相当大(个人认为)。估计有20*30=6公亩左右。(当然,我的目测大家不信也罢。)入口只有一处,是个相当破旧的铁门,开在东侧。看园人一家三口住在园子尽头,颇有点灌园叟的味道。苗圃正中有个花架走廊,成横向走势。本来这种结构都会象征性地称之为葡萄架,然而,在这个如百草园般繁茂而荒凉的苗圃里,葡萄架自然也只能用来爬爬牵牛花,随后依例被爬山虎侵占。牵牛花、爬山虎的叶子都是深绿色,浓密地覆盖在敷有白色石灰的水泥花架上。显示的不只是生机勃勃,更有舍我其谁的霸道。而在这个位于上下学必经之路却人迹罕至的园子,花架走廊则是一个下马威。大概许多人都和我一样,多少次都在走廊前张望并止住了脚步。其实里面风景独好,除了簕杜鹃开得火热,还有野蔷薇、蔓陀萝、倒挂金钟等。当然,更多的是我不认识的植物。现在回想起来,好像都不是学校用来摆设的植物。那这苗圃的作用什么呢?尽管每日清晨都会有学生在这里晨读,但比起其它读书圣地,这里显然寂寥得多了。苗圃的西面尽头是几行参天的小叶相思和百千层,就是他们在一教五楼阳台留下落叶。从院子里看上去,只觉得树枝树叶都在极高处,倒是那缠绕不清的绿萝遍布每一棵树干。三层楼左右的高度,只能看到粗大的藤茎张弛有力。四层楼以上才会看到黄绿相侵的叶子,用个煞风景的类比,至少有15存显示器那么大。那样高,那样紧贴着树干张延开去,以至于我一度以为那是这巨大的树的叶子。不过,后来我也怀疑过,叶子长这么大,还能叫绿萝吗?《红楼梦》里写蘅芜苑:“或有牵藤的,或有引蔓的,或垂山岭,或穿石脚,甚至垂檐绕柱,萦砌盘阶,或如翠带飘摇,或如金绳蟠屈,或实若丹砂,或花如金桂,味香气馥,非凡花之可比。”又有宝玉赋诗:“蘅芜满净苑,萝薜助芬芳。软衬三春草,柔拖一缕香。轻烟迷曲径,冷翠滴回廊。谁谓池塘曲,谢家幽梦长。”将藤蔓写得极美。然而,那是江南的藤蔓,在华南,就要粗犷许多了。我想,到了南亚的热带雨林,大约可以用狰狞了吧。



“葡萄架”


  走出苗圃,来到一教与电教之间这条校道,这里先不说,我们向后折。一条从西向东的小路,将教学区划分了南北两部分,前面所述均为西南面,西北面只有两栋楼和一个杂草丛生的足球场。两栋四层的教学楼在西面围墙边上,紧邻公路。前面一栋我们称作“涉外秘”,主要是秘书系的教室。后面一栋则是出国培训部。这两栋楼,尤其是后面一栋我去得少,不甚清楚。与他们平行,也就是现在二教的位置上,是学校的足球场。草长到小腿高,女生的乐趣是在里面看小花小草以及照相(410照过)。而男生是否经常在上面踢球,我想那些野草应该很能说明问题。草坪有多大呢?我能提供的数据只有一种,那就是考八百米的时候,要围着草坪跑2又3/4圈。大学里,我一直比较自负的长跑考得都一般,勉强没有太丢人而已。大一下学期的体育课,我们在这个草坪上学习了接球、击球、跑垒等。记得是tei完成过全垒打。夏天,暴雨后的夜晚,足球场成了一片泽国,响亮如牛的蛙声此起彼伏。黎跟我们说那是牛蛙,烧着吃很不错,不知有没有人尝试过。不过,很久以后,又有人说那不是牛蛙,是牛蚨。我没什么生物常识,不知道蛙与蚨是否如此相似。而当时,只觉得这个地方真是不同寻常,鼠比猫大,蛙似牛鸣。


  至此,教学区西面就结束了,重新来到方才路过的校道。它从校友亭所在的草坪,沿一教、单车棚、苗圃延伸至足球场。校道的北端尽头是一个砌有白色瓷砖的影壁(权且让我这么称呼吧)。上书红色美术字:增强人民体质 发展体育运动(好像是这样)。整条校道均是双行参天的小叶相思夹道,显得格外幽静。9月2日报到那天,是第一处让我体会到大学气氛的地方。从这里往南走,右手边就是足球场,而球场与影壁间的路口,则正是女生800米考试的终点。左手边也是球场,一排蓝色的肋木架将其由北至南分为排球场和篮球场各三。北边的排球场尽头是一溜水泥高墙,每天早晨都有女生(东语则多是93级女生)在这里对壁练网球,网拍生风,身影十分矫健。记得一次体育课上,刘老师对从来与白皙二字无缘的我说:我常笑话我们家小白‘一白遮百丑’。言语之间,尽显爱溺。让我一直为他有这么个可心的女儿高兴。不想小白却是他的侄女,老人儿子不成器,幸而侄女孝顺,得慰膝下寂寞。球场四周有许多水泥石墩,自是为观战而设。每天下午4点后,这里可说是全校最热闹的地方了。但清晨,也一无例外地都是晨读的身影。书包、早点放在石墩上,捧书倚架(篮球架、排球柱、肋木架),迎接第一缕晨光。


  继续向北,左手边就是真正的网球场了,恰在苗圃对面。在我看来,这里除了铁丝网外围,并看不出网球场的身份来。每周五晚,网球场摇身变成露天电影院。屏幕是右手边用以练习的高大石灰墙。这里与电影厅不同,一般放映国产片、历史片等。记得看过《兰陵王》《红粉》《大辫子的诱惑》《阳光灿烂的日子》《红樱桃》《半生缘》《红河谷》《一半是海水 一半是火焰》《摇啊摇 摇到外婆桥》《大红灯笼高高挂》《巴顿将军》等。刚开始的时候,是要买票的。票价2元?后来不知哪一年哪一天,学校突然说要统一收费,每学期交20元,大家免费看。记得这个不讨好的差事是阿元办的,也记得我们班的同学都乖乖交了一次20元。第一次去,看到师兄师姐们都从教室、宿舍搬凳子去看,我和于蓝蹭不到现成的,便索性铺张报纸,在场边席地而坐。后来便再也没有搬过板凳。水泥地经太阳一日的洗礼,即使是晚上7点半也还是温热。那时也没什么讲究,并不觉得场边有什么不好,而且还不用早早地来占地方。看得甚是安乐。四年来,我只有一次能够坐在场中间的凳子上看电影,那就是看《巴顿将军》。其实只是因为开演不久就下起了倾盆大雨,大家四散逃去,有的甚至来不及搬凳子。我和93的aken师姐以带了伞为由,独自留在场中间,坐上别人留下的板凳,看完了2个半小时的电影。当然是湿透了。散场时才发现,留下看的不过十数人,而一直冒雨坐在场中央的却只有我俩而已。其他人都躲到左侧尽头的主席台里去了。这个主席台不知道什么时候坐过哪个级别的主席,倒是在风雨礼堂拆了之后,外语书店曾一度在这里开张。


  网球场旁边有一间平房和一栋三层小楼,是电话所。那时莫说手机,call机都还没有普及。大家都是通过书信和家人朋友约好打电话的时间。打电话在平房一侧,共有六(四?)间小电话间,用于拨出。里面没有凳子,只有一个水泥小台,上面放着红色的电话机。那时,我很感慨这一小点保护隐私的设计。多少人都是红着眼睛出来的啊!电话所收钱的柜台像当铺(不太恰当)一样高,只看得见职员那张爱理不理的脸。打电话之前,要先填一张表,写上自己的姓名、拨叫城市及号码。表上没有编号,所以都是直接叫名字:***,3号!大约是96、97年吧,电话所在旁边另辟了一间平房,将电话间扩充到了十余间,但由于同时已在宿舍楼道开通了记账电话,并没怎么光顾过。96年前后,call机普及,电话所用以市话及接听的两部电话益发繁忙,但也许是收费低廉的缘故吧,最终也只是增加到三台而已。这里除了打电话,还能发电报。在开学后给父母发出第一份电报后,我曾以为自己有机会练习电报用语。结果,我再没有发过第二份电报。旁边的三层小楼是电话所的办公室,开设记账电话后,我们要到这里办理开通及缴费手续。


  网球场背面,是电教馆。电教馆分为前楼和后楼。后楼较新,有新的语言实验室。杨wz老师的听力课就是在这里上,每周两次。前楼有学校的录音资料室,可以翻录各种外语磁带,包括电影原声带等。也可以在这里买到较便宜的空白磁带。那时候,空白磁带、随身听、短波收音机是学校里每个人必备的武器,因此,有相当一部人曾试图倒卖磁带、耳机和修理收音机、随身听挣钱。93级师兄陆**就是靠联系修理收音机起家的名人。我们虽然没有卖过这些东西,却一直试图买到更便宜的空白磁带以省生活费。于是,就认识了“文园”–即文化公园这个著名的集散地。那大约是大二大三的事了。对于日语的学生来说,学校的录音资料远不如系里多,所以这里对我们意义不大。四年如一日吸引我们的是前楼北端的电影厅。电影每周三出通告,除了电教馆大厅,还分别张贴在生活服务部前和饭堂附近的公告栏。每周五下午2点半开始售票,中午就排起了长队。电影一般有五场,周五晚一场,周六日晚各两场。那时候广州市还没有什么五星级电影院,学校电影厅的好片子、好碟子、好场子一直是我们的骄傲。说好片子,不仅有国内外经典影片,也有最新获奖的热门影片。记得除了《铁达尼号》,《生死时速》《真实的谎言》《惊世未了缘》等几乎都是和市电影院同步上映的。至于好碟子,那就是电影厅自始自终坚持用LD,从不曾将就过vcd,更不用说录像了。而场子,其实是97年装修以后才好起来的,以至于98年毕业之时,电影厅成了大家最恋恋不舍的地方之一。后来我有机会认识负责选片的老师,向他询问学校是否放过《春天狂想曲》这部片子。由于片子并不十分出名,我其实十分忐忑。结果这位先生将学校前一年放过和未来一年将要放的片子如数家珍地讲了一遍,末了才说:《春天狂想曲》啊,讲施光南的,对不对?是邵兵和瞿颖演的。片子不错,上学期放过了,可能近期不会重放。他讲述时的神采我至今记忆犹新,才知道电影的播放并不是随便决定的:经典片要重放,让大家都有机会知道;尽量及时地向大家介绍新片;有些片子虽没获奖,也有其可取之处,且留给大家自己判断优劣等。正是他们那样投入了,我们才能感受到电影多元的快乐。原来那样不起眼的一个小小工作,也有这么多的乐趣和这么重大的作用。电影厅虽然不大,却是当时学校最大的聚会场所,因此常在这里举办各种大小活动、会议、比赛等。


  在苗圃与网球场、电教馆的夹道上,沿网球场外围是一溜黑板报。这个地方现在堕落得惨不忍睹。而当时每期板报没出好,我们已经在期待、在评比了。好像是英语系、东语系、西语系、国贸系、秘书系和团委各一个板块吧。大多数时候西语都是赢家,从版面设计到插图、书法没有一样不是精雕细作。我们嘛,偶尔也赢过一两次。北端最尽头,也就是团委的黑板报柱子还有一个用处—-贴露天电影的通告。与电影厅的预告不同,这个只贴这一处,而且周五中午才贴。有时下课不小心就走过了。粉红色、粉蓝色、粉黄色的布告纸每周地换着,提醒的仿佛不止是电影。


  电教馆的正门开在南面,从那里出来正对面就是图书馆的自修室。然而图书馆的门并没有体贴地开在这里,而是开在朝向校友亭的西面。不错,图书馆正是和校友亭平行的。反匚字形建筑,一竖在西边,是大门开处。一楼大厅是期刊阅览室,可以借各种合订本期刊。北面朝向电教馆方向的一横是两间大自修室。每天都人满为患,四年来我占到位置的次数屈指可数。南边一横好像是办公室吧。二楼正厅是外语流通室,其实就是英语书籍流通室。我基本没来过。二楼北边是中文期刊阅览室,南边我还是不清楚,好像是梁宗岱藏书室?学校的前任黄校长是梁宗岱先生的门生,固有此室。只是在二楼还是三楼就不太清楚了。三楼正厅是中文书籍流通室,北边是外语期刊阅览室。南边有教师阅览室等,是我不曾涉足的地方。三楼书库尽头有个楼梯,能上一个小阁楼,上面好像是法语德语等小语种的藏书,不知确否。古人尝言:书非借不能读也。我却有个怪癖,喜欢将读过的书留下。换言之,喜欢读属于自己的书。这个恶习至今限制了我的读书能力。对图书馆最熟悉的莫过于江总,她大一开始在图书馆勤工俭学,直到大四。简也曾干过半个学期,最终耐不住琐碎。


  和所有学校的图书馆一样,我们借书既可以按类别及拼音顺序搜寻书卡(电脑查询系统是后来才有的),也可以入库自行寻找。两种方法各有优缺点,我比较喜欢用书卡。入库要先存包,然后把证押在柜台,拿一个红色的取书板后方能入库。取书板是为了防止入库查书的人弄乱书籍的摆放秩序而设的。在拿出一本书翻阅之时,将其代替书插入原位即可。


  图书馆的故事不仅在她自身,还在于她旁边有一条全校最美丽的林荫道。我一直不知道林荫道这三个字是固有路名,还是学生老师口耳相传、约定俗成的名字。总之,尽管由于前身是林学院的缘故,校园四处高木参天,但提起“林荫道”三个字,从来无人做他想。这里的奇景,除了绿荫如盖之外,还在于道路两旁总是两种季节。其实,树荫只是图书馆一侧的大叶榕的功劳,电教馆一侧种的是瘦小的紫薇。春天,大叶榕迅速吐出新芽,褪去胞衣,绿满枝头之际,紫薇却在飘落片片红叶。当紫薇蓄好一身深绿过冬,大叶榕则在慢慢抖落一年的尘埃,露出遒劲的枝干,等待新春。


 ホタル研究家の間で、聖典と呼ばれる本がある。昭和10年刊の『ホタル』という学術書だ。ページを開くと、ホタルに寄せる偏執的な愛情に圧倒される。

 著者の神田左京は、相当な奇人だった。昆虫研究家の小西正泰さんによると、とにかく偏屈で人と交わることができない。定職定収のないまま、学界の大御所の論文でも誤りと見れば徹底攻撃した。「私はホタルと心中する」と妻帯もしなかった。

 たえず不遇を嘆きはしたが、業績は海外までとどろいた。英国の学界から「ぜひ会員に」と誘われ、日本の皇室からは進講を頼まれたが、「権威は嫌い」と応じない。昭和14年、65歳で没した。

 功績の一つは、西日本と東日本でゲンジボタルの発光間隔が倍ほど違うと発見したことだ。西では2秒ごとに光るのに、東では4秒おきなのはなぜか。戦後の研究家は、彼が残した難題に取り組んだ。東西の遺伝子の違いと見る説が支配的だが、東京都板橋区職員の阿部宣男さんはこれに新説で挑む。「西でも東でもホタルは同じ。温度が上がれば明滅が早くなる」と。

 高校時代は暴走族に入り、大学は中退した。就職した区役所でたまたまホタルの飼育をあてがわれ、のめり込む。16年間の成果を「人の感性とホタルの光」という論文にまとめ、茨城大で今春、博士号を受けた。「僕も研究者としては異色だけど、左京の反骨ぶりにはしびれます」と笑う。

 はるか昔からホタルは人々を魅了してきた。先人が恋や魂を連想したように、神秘の光は美しく妖(あや)しい。時には人の生き方すら変えてしまう。

 「荒鷲、沖縄へ反復猛攻——敵飛行場を炎上」。60年前の6月18日の本紙1面の見出しだ。しかし現地では、日本軍が、いよいよ追いつめられていた。

 18日の夜、本島南部の地下壕(ごう)で看護活動をしていた「ひめゆり学徒隊」の女生徒や教員に、軍からの「解散命令」が伝えられた。「私はただただぼうぜんとなってしまいました……敵を目前にして、この壕を出て、いったいどこへ行けというのだ……」(宮良ルリ『私のひめゆり戦記』ニライ社)。

 翌19日の未明、壕を出る時、日本語で投降の呼びかけが繰り返された。壕の奥に移った瞬間、米軍のガス弾が襲った。生徒と教員51人のうち、生き残ったのは5人だった。

 ひめゆり学徒隊の悲劇は、十数万もの県民が犠牲になったとされる沖縄戦の象徴となった。宮良さんたちの壕の前には「ひめゆりの塔」がたてられ、89年には、そばに「ひめゆり平和祈念資料館」が開館した。

 資料館を、今週、東京の青山学院高等部の関係者が謝罪のために訪れた。2月の入試で、ひめゆり学徒隊の体験を聞いた生徒が「退屈だった」と感じたという趣旨を含む英語の問題を作って出した。これを知って、資料館の語り部のひとりが述べていた。「昔は話すのもつらかった体験を、『それでも伝えなければ』と思って語り出した。……衝撃を受けた」

 先日、沖縄タイムスに、「今年が沖縄戦終結から60年と認識している県内の高校生は6割に満たなかった」というアンケートの結果が載った。日本全体では、どのくらいになるのかと思った。

 フランスの文化相にもなった作家アンドレ?マルローは、22歳の時に盗掘のかどで有罪判決を受けた。カンボジアで、アンコールワットの近郊の寺院から女神の像を盗み出そうとした。わずかに首をかしげてたたずむ、たおやかな像だったという。

 アンコールワットの巨大な石造りの遺跡を欧州に紹介したのは、19世紀の仏の探検家アンリ?ムオだった。「かくも美しい建築芸術が森の奥深く、しかもこの世の片隅に、人知れず、訪ねるものといっては野獣しかなく、聞こえるものといっては虎の咆哮か象の嗄れた叫び声、鹿の啼声しかないような辺りに存在しようとは」(『インドシナ王国遍歴記』中公文庫)。

 「地雷を踏んだらサヨウナラ」の言葉を残した報道写真家?一ノ瀬泰造が、危険を冒してアンコールワットに向かったのは73年だった。母信子さんが編んだ『もう みんな家に帰ろー!』(窓社)に、遺跡に近いシエムレアプでの「最後の一枚」が載っている。

 風に揺らぐ木々の彼方(かなた)に遺跡の塔の先が見える。「望遠レンズで眺めては“俺の血”が騒ぎます」。知人に書き送って間もなく行方不明となった。

 シエムレアプの国際学校が、銃を持った男たちに一時占拠された。日本人の園児らは無事だったが、いたましいことに、カナダ人の幼児が殺された。警察は、金目当ての犯行とみているようだ。「観光バブル」で潤う層と貧困層との差が広がっているという。

 遺跡は、時を超えて人を引きつけてきた。「訪ねるもの」が膨らんで、人心の方が荒(すさ)んでしまったのだろうか。