「荒鷲、沖縄へ反復猛攻——敵飛行場を炎上」。60年前の6月18日の本紙1面の見出しだ。しかし現地では、日本軍が、いよいよ追いつめられていた。

 18日の夜、本島南部の地下壕(ごう)で看護活動をしていた「ひめゆり学徒隊」の女生徒や教員に、軍からの「解散命令」が伝えられた。「私はただただぼうぜんとなってしまいました……敵を目前にして、この壕を出て、いったいどこへ行けというのだ……」(宮良ルリ『私のひめゆり戦記』ニライ社)。

 翌19日の未明、壕を出る時、日本語で投降の呼びかけが繰り返された。壕の奥に移った瞬間、米軍のガス弾が襲った。生徒と教員51人のうち、生き残ったのは5人だった。

 ひめゆり学徒隊の悲劇は、十数万もの県民が犠牲になったとされる沖縄戦の象徴となった。宮良さんたちの壕の前には「ひめゆりの塔」がたてられ、89年には、そばに「ひめゆり平和祈念資料館」が開館した。

 資料館を、今週、東京の青山学院高等部の関係者が謝罪のために訪れた。2月の入試で、ひめゆり学徒隊の体験を聞いた生徒が「退屈だった」と感じたという趣旨を含む英語の問題を作って出した。これを知って、資料館の語り部のひとりが述べていた。「昔は話すのもつらかった体験を、『それでも伝えなければ』と思って語り出した。……衝撃を受けた」

 先日、沖縄タイムスに、「今年が沖縄戦終結から60年と認識している県内の高校生は6割に満たなかった」というアンケートの結果が載った。日本全体では、どのくらいになるのかと思った。