ホタル研究家の間で、聖典と呼ばれる本がある。昭和10年刊の『ホタル』という学術書だ。ページを開くと、ホタルに寄せる偏執的な愛情に圧倒される。

 著者の神田左京は、相当な奇人だった。昆虫研究家の小西正泰さんによると、とにかく偏屈で人と交わることができない。定職定収のないまま、学界の大御所の論文でも誤りと見れば徹底攻撃した。「私はホタルと心中する」と妻帯もしなかった。

 たえず不遇を嘆きはしたが、業績は海外までとどろいた。英国の学界から「ぜひ会員に」と誘われ、日本の皇室からは進講を頼まれたが、「権威は嫌い」と応じない。昭和14年、65歳で没した。

 功績の一つは、西日本と東日本でゲンジボタルの発光間隔が倍ほど違うと発見したことだ。西では2秒ごとに光るのに、東では4秒おきなのはなぜか。戦後の研究家は、彼が残した難題に取り組んだ。東西の遺伝子の違いと見る説が支配的だが、東京都板橋区職員の阿部宣男さんはこれに新説で挑む。「西でも東でもホタルは同じ。温度が上がれば明滅が早くなる」と。

 高校時代は暴走族に入り、大学は中退した。就職した区役所でたまたまホタルの飼育をあてがわれ、のめり込む。16年間の成果を「人の感性とホタルの光」という論文にまとめ、茨城大で今春、博士号を受けた。「僕も研究者としては異色だけど、左京の反骨ぶりにはしびれます」と笑う。

 はるか昔からホタルは人々を魅了してきた。先人が恋や魂を連想したように、神秘の光は美しく妖(あや)しい。時には人の生き方すら変えてしまう。