前文: 『桐壺更衣のかたる』Ⅰ
その間も、迎えにまいっていた母はもしものことで御所を穢してはと、気が気でないらしくおろおろしておりました。その上母は、帰りの行列に、わたくしを呪う例のお方たちからどのようなあくどい嫌がらせや凌辱を受けるかもしれないと案じ、恐れおののいていたようでございます。
若宮をお連れして万一のことがあってはと、御所におあずけして帰ることにしたようです。
主上さまは乳母の手から若宮を抱きとられ、もう抱きしめる力もないわたくしの顔の前に、近々とさし寄せてくださり、
「早く帰ってきてくださいとお願いしなさい。皇子は寂しくって毎日泣いているからとお言い」
とおっしゃるお言葉も、終わりは涙にむせてしまわれるのでした。
まだ何もわきまえないまま幼い若宮は、人一倍敏感なお心に、その場の雰囲気から常とは違うただならぬものを感じとられたのでしょうか、わたくしのほうに身をゆすってさしのべた両掌を、ふと途中で弱弱しくひっこめ、主上さまの首に廻され、しっかりと抱きついて、おびえたようにわたくしのほうをじっと見つめられたのです。
泣かれもせず、ただ清らかな瞳をいっぱいにみはって、ひたすらわたくしを見つめられるその真剣なお顔の可愛らしさ。わが身が産み奉ったとも信じられない世にも類い稀なその美しさ。照り映える月光をそのまま珠に凝らせたような光り輝く御容貌。
三歳になったばかりで母を失うこの若宮の薄幸があわれて、この世に残るほだしは、主上さまへの尽きせぬ未練と、若宮への愛憐の想いでございます。その執着が迷いになって、心でもとうていわたくしは浄土とやらへはいかれないと信じます。いいえ、浄土へなど行きたくありません。煩悩の鬼になろうともいつまでも中有に迷いつづけ、主上さまの御身辺に寄りそい、おふたりをいついつまでもお護りしとうございます。
母は、
「今日始める予定の祈祷の僧たちがすでに邸にまいっていて待ちかねております。今夜から始まるのです。」
とせかしながら、しきりに退出をうながすのでした。
母の目には主上さまのあまりの未練げな御様子が、天子にもあるまじきこととうつったのから知れません。
主上さまは母の見幕に押されて、ようやくわたくしを見送るお気持ちになってくださいました。
輦車を頂戴し、その中へかかえいれられたとたん、それまではりつめていた最後の気力も萎えて、ぐったりと気を失ってしまったようです。
母はもう、わたくしが絶え入ったとばかり思い込み、道々ずっと泣き通していたともうします。
気がついたら、実家の部屋に寝ておりました。ああ、まだ死ななかったのかと思うと、またお逢いできる日もあるかと嬉しく、一瞬心がときめきました。でもすぐ、意識はもどっても、軀じゅうの力は抜けきって指ひとつ動かせない状態に気がつき、とうてい生き通せない自分を認めなければなりませんでした。束の間でも、もう一度この世に戻してくださった仏に感謝しなければなりません。
絶え間ない読経の声を聞きながら、思いはすべて主上さまの上へ走り寄ってまいります。
どういう前世の御縁によってか、この世でめぐりあい、お側に上がれ、あのように愛していただいたわが身の幸せを、心の底からありがたくお礼申し上げます。
亡父の大納言が一人娘のわたくしにどういう分不相応な望みをかけたものか。必ず後宮にお仕えさせるよう遺言して逝ったと申します。
母は古い家柄の出で一通りの教養もあり、しっかり者でしたので、父の遺言を守り、私が後宮に上がって恥をかかぬよう、しっかり教養もつけてくれました。
御縁があって、主上さまのお側に侍るようになり、亡父の望みが達せられました時から、母の不安と不幸が始まったのかもしれません。
両親うち揃った権力者の姫君で、華々しく後宮に時めいていらっしゃるお妃たちの中に立ちまじり、しっかりした後見もないわたくしの立場が、どれほど惨めな心細いものかは、説明しないでも、母には痛いほどわかっておりました。それでもわたくしに肩身のせまい想いをさせまいと、衣裳や調度などは、後ろ指さされない程度に調えてくれておりました。そのため、どれだけの苦労を母がひとりで引き受けたものか、わたくしには想像もつきません。
更衣という低い身分にかかわらず、数ある女御や妃たちをさしおいて、いつの間にか、どなたよりも主上さまの御寵愛を一身にあつめる光栄に浴しておりました。
前々から御所に上がりそれぞれ自信にみち、われこそはと思っていられた方々からは、思いがけないわたくしの寵幸を、生意気な、身のほど知らぬ女よと卑しみ妬まれるし、それより下のわたくしと同等の更衣たちは、まして心中おさまらないものがあったことでしょう。
事ごとにわたくしを嫉妬と憎しみの対象にされ呪われるのも仕方のないことでした。いただいた局の桐壺は、後宮の北東の端に近く、主上さまのいらっしゃる清涼殿からは、最も遠い場所に当たります。
主上さまのお召しがあり、清涼殿の夜の御殿にまでまいるには、長い長い廊下を渡り、その廊下には、それぞれの妃たちの局が並び、そこを通過しなければならないのです。
簾の中に光る刺すような怨嗟の眼差しを全身に浴びながら、主上さまのお側まで通うのは、これが地獄の針の山というものかと、身も心もすくむような思いでございました。
どの女御や妃にしても、それぞれ親や一族の切ないほどの願望を一身にかけられ入内したわけなのですから、一日も早く、誰よりも熱く主上さまのお情けを受けて、皇子を産むことだけが絶大な願望なのですもの。そこへ突然あらわれたわたくしのような身分も低く後見もない頼りない女が、場ちがいのように迷いこみたちまち主上さまの御寵愛をひとり占めにしてしまったのですから、口惜しいのは当然でしょう。
(つづく)