Archive for 8月, 2005

 あすの公示から、総選挙は本番を迎える。残暑が続くなか、あの騒々しい候補者名の連呼が始まる。そう思うだけで汗がにじむ。

 ところが今夜、ピタリと止まる政治の動きがある。正確に言えば、30日午前0時をもって、公職選挙法によって「動かすな」と言われる。インターネットでの運動だ。候補者のホームページは更新が禁じられる。活動報告のメールマガジンも配信できない。投票依頼の電話がかけ放題なのとは対照的だ。金権選挙を防ぐための法律が、膨大な情報を速く安く伝える手段を封じている。

 米国ではネット選挙が当たり前だ。昨年の大統領選では「ブロガー」が注目された。ネット上に個人的な書き込み「ウェブログ(weblog)」を載せる人たちで、共和、民主両党の大会にも招かれた。討論会でブッシュ大統領の背中が膨らんでいた「無線機疑惑」も、彼らが情報源だった。

 韓国の盧武鉉大統領は、ネット上のファンを現実に組織化して勝った。選挙当日には投票率の経過発表ごとに「いま○○パーセント。君は行ったか?」というメールが飛び交った。

 日本でも3年前、総務省の選挙研究会がネットの一部解禁を促した。なのに国会は法改正をしない。「お年寄りの支持者が多い党に不利」「中傷に悪用されないか」。こんな慎重論が自民党などに多いからだ。

 公約の解説や候補者の選挙中の本音がネットで読めれば面白い。有権者が探して見に行くので受け身でない選挙体験にもなろう。「あと一歩、最後のお願いです」なんて絶叫もメールならうるさくない。

 吾輩(わがはい)は「刺客」である。名前は言えない。人前で言えるような仕事でもない。吾輩に仕事が来た流血の時代はとうに過ぎたはずなのに、現代の日本で「刺客」が飛び交っていると聞いて驚いた。

 民主主義社会について、哲学者カール?ポパー氏も言っていたというではないか。流血を見ることなく、政権を交代させる可能性のある体制だと。今の日本はどうなったのかと思って来てみたら、実際には刃傷ざたはないというので、ひとまずほっとした。

 先日、政権党が、候補を「刺客」と呼ばないでほしいと報道機関に申し入れたという。吾輩とは逆に、表舞台に立つ人たちだが、元気で楽しそうに殴り込んでいる面々も居るようだ。

 党首の小泉氏は「別に『刺客』とか言うつもりはない」と言っていたが、この人の言辞は、相変わらず独特だ。郵政法案が参議院で否決されて解 散した日には、あのガリレオを引き合いに出した。「地動説で有罪判決を受けたとき、『それでも地球は動く』と(ガリレオは)言った」

 法案の正当さを地動説にたとえて強調したかったのだろうが、中世の闇の中の宗教裁判に重ねるのは、闇をかいくぐって生きてきたような吾輩からみれば、やや無理がある。参院でだめなら即総選挙という手を使ったとも聞いたが、現代日本の首相の権力も、なかなか絶大なものだ。

 今日は、その総選挙の公示日らしい。そういえばポパー氏は、流血なしに政権交代を可能にする手だての一つとして選挙をあげていた。来たついでに、吾輩も結末を見守ることにしよう。

 40年も前の夏のことである。太宰治の作を次々に読んで、その世界にひたりかけていた。しかしある日、地方での疎開生活から終戦後の東京に戻った「私」が、「何の事も無い相変らずの『東京生活』」と述べるくだりでつまずいた。

 おびただしい人が死に、家を失った戦禍の街の営みを「何の事も無い相変らずの」とする語り口に違和感を覚えた。若い時分の勝手な読み方ではあったが、太宰への旅は、この「メリイクリスマス」の冒頭で、いったんは途切れた。

 この短編は、占領下の昭和22年、1947年の「中央公論」1月号に掲載された。昨日、図書館で手に取ってみた。茶色に色変わりし、古い本に特有のひなたくさい香りをまとっている。太宰が生きていた時に印刷された一冊かと思うと、「相変らず」のくだりも、その先の「この都会」を「馬鹿は死ななきや、なほらない」と語る段も、実際には聞いたことのない肉声を聞く思いがした。

 同じ昭和22年1月の「群像」に、太宰は「トカトントン」を発表している。兵舎の前で敗戦の玉音放送を聞き、「死のう」と思った男が、背後から聞こえてくる音に気付く。金づちでクギを打つトカトントンという音が、それまでの悲壮も厳粛も一瞬のうちに消し去った。

 確かに敗戦で日本は変わった。しかし、人間たちでつながっているこの世の営みは「相変らず」でもある。いつの頃からか、そう読むようになった。

 60年前の8月28日、連合軍の先遣隊が神奈川県の厚木飛行場に到着した。焦土の日本での占領の時代が始まった。

 夏の台風は時に迷走する。先日の11、12号のように二つが接近すると、とりわけ複雑な動きを見せて予報官を泣かせる。双子がにらみ合って大回転することもあり、これは「藤原効果」と特別な名で呼ばれる。いち早く研究した気象学者の藤原咲平(さくへい)氏にちなんだ。

 藤原氏は大正の末からラジオで気象解説を担当した。昭和16年、1941年に中央気象台長に任命されたが、4カ月後には天気予報が禁じられる。真珠湾攻撃の日を期して気象情報は機密とされた。台風の進路はおろか地震の被害や翌日の暑さ寒さも公表できなくなった。

 予報が再開されたのは、敗戦直後の8月下旬だった。ラジオが「今日は天気が変わりやすく、午後から夜にかけて時々雨が降る見込み」と放送した。ほぼ4年ぶりの予報だったが結果は外れた。

 気象庁刊行の『気象百年史』によれば、その夜のうちに豆台風が上陸し、東京を暴風雨が襲った。手痛い黒星に藤原氏は頭を抱えた。今なら非難の猛風を浴びたはずだが、当時の人々は違った。空模様の予報を聴くだけで、戦火が去った実感に浸ることができたのだろう。

 戦時中の翼賛的な言動が問題とされて、藤原氏は昭和22年春、公職から追放された。長女の霜田かな子さん(79)によると、そのすぐ後に体調を崩し、昭和25年の秋に永眠した。「気象学者としては無念な晩年でしたが、気象台の皆様は最期までご親切でした」と言う。

 郷里の信州諏訪には、後輩たちが建てた記念碑がある。没後半世紀が過ぎたこの夏も、気象台職員ら60人が集い、花を手向けた。


  著名电影表演艺术家郭振清同志,因病于2005年8月24日中午13:06逝世,享年78岁。


 それを「商品です」と言われても、しっくりこない。現物を見たり手にとったりできないし、金を払ってすぐに届くわけでもない。保険とは独特な「商品」だ。

 説明を受け、事故や災害に遭うことを想像しながら契約を結ぶ。そして、できればその日が来ないようにと願う。地上から絶えることのない膨大な不安の上に成り立った安心の仕組みの一つである。

 大手の損害保険各社の社内調査による保険金の不払いが、1社あたり数万件、数億円程度にのぼる見通しとなった。大半は自動車保険で、事故の相手を見舞う時の花代や事故車の代車費用といった、基本契約に上乗せした「特約」の部分で多いという。

 近年、業界では競争が加速し、各社がさまざまな特約を開発して売り込んできた。契約内容の確認もれなどが不払いの原因で、わざと支払わなかったのではないとの釈明も業界にあるようだ。しかし、いざ助けが必要となった時に約束が果たせないのでは、何のための保険なのか。

 事故に直面した時、人は、まず平静ではいられない。細かい特約など、思い起こせる人は多くはないはずだ。そんな時だからこそ、損保会社は契約をきちんと履行し、支援すべきだろう。

 金融庁は先月、損保や生保による不当な不払いなどの事例集を、初めて発表した。今年の2月には、明治安田生命が業務停止を命じられている。保険業界は、安心の仕組みを売り続けてきた。しかし、その業界の内側に、消費者が安心できるだけの仕組みがあるのだろうか。疑問を抱かせることが続いている。

 日本で最初の総選挙は、明治23年、1890年に行われた。当選した中江兆民に「平民の目さまし——一名国会の心得」という一文がある。

 政党とは「政事向に就て了簡の同じ人物が若干人相合して一の党を為し他の党と張り合ふことなり」と記す(『明治文学全集』筑摩書房)。了簡(りょうけん)とは、考えや所存などを指す。今なら政権公約か。それを一言に凝縮したような総選挙用のキャッチフレーズが出そろった。

 自民党の「改革を止めるな。」は党というより党首の了簡のようにも見える。ポスターは小泉首相の4年前の写真を再利用した。人は時とともに姿形を変えてゆく。その変容は止められないが、ポスターの時間は4年前で止められた。

 民主党は「日本を、あきらめない。」。「政権を、あきらめない」とも聞こえるが、政権を狙うにしては言葉に勢いを欠く印象だ。「日本を前へ。改革を前へ。」と与党の公明党。日本をというよりも、小泉首相を前へ押し出しているさまを連想させる。

 共産党は「たしかな野党が必要です」。確かにそんな党は必要だが、この国をどうするのかも気に掛かる。「国民を見ずして、改革なし。」は社民党。姿勢は見えるが、「改革」という「小泉語」に引きずられてはいないだろうか。「権力の暴走を止めろ!!」と国民新党。「権力」を、ある人名に言い換えると、思いがにじむ。新党日本は「信じられる日本へ。」。「信じられる党」には、なれるだろうか。

 標語のような一言だけで「了簡」を見極めるのは難しいが、その構えはうかがえる。

 前日まで窓という窓に垂らしていた暗幕を、母親がとりはずした。「涼しい風がはいってきて、私は生まれてはじめての解放感を味わった」。作家の常盤新平さんが、60年前の終戦時を回想している(『文芸春秋』増刊号「昭和と私」)。

 空襲に備えて家々の光を外にもらさないようにする灯火管制から、その日解放された。中学2年生だった。

 〈涼しき灯(ひ)すゞしけれども哀(かな)しき灯〉。久保田万太郎の句には「八月二十日、灯火管制解除」と前書きがある。「終戦」という前書きでは、こう詠んでいた。〈何もかもあつけらかんと西日中〉。

 焼け跡の街で「戦後」が始まろうとしていた。その始まりの合図のように灯(とも)されたのが、管制を解かれた無数の明かりだった。久々に街に放たれた光は、解放感を呼び起こしつつ、長かった戦争の惨禍や人間の哀しさを思わせたのだろう。

 戦時中に民俗学者の柳田国男が著した「火の昔」に、灯火管制に触れたくだりがある。「近頃では灯火管制をしなければならぬ程、灯火(ともしび)は明るくなつてゐますけれども……」。昔は、闇を明るくするために皆が大変な苦労をしたと述べる。「世の中が明るくなるといふことは、灯火から始つたといつてもいゝのであります」(『柳田国男全集』筑摩書房)。

 あの夏に戻ってきた灯火は、絶えることなく、より強く明るく、街を家を照らし続けてきた。災害時は別として、常にあって当たり前の存在となった。60年後の一夜、光が閉ざされたり、焼け跡を照らし出したりした日々があったことを思い起こしたい。

 阪神甲子園球場で続いた戦いが終わった日、四国の松山では、もうひとつの「甲子園大会」が始まっていた。「俳句甲子園」、全国高校俳句選手権大会である。

 正岡子規や高浜虚子を輩出した松山市で、松山青年会議所が主催して開かれてきた。8回目の今年は、全国20都道府県から36チーム約200人が出場した。決勝戦では、「本」という題で、東京の開成と茨城の下館第一が対決した。

 「寒月や標本の鮫(さめ)牙を剥(む)く」(開成)。「遠雷や絵本に溶ける夢を見た」(下館第一)。5句ずつ詠んで審査員が判定を下し、開成が一昨年に続く2度目の優勝を果たした。今回提出された1260句の中の最優秀句は「土星より薄(すすき)に届く着信音」。京都?紫野高3年、堀部葵さんの作である。

 個々人の表白である俳句と、チームを組んで勝ち負けを競い合うこととは、直接には重ならない。しかし、一句一句が五?七?五という極めて限られた言葉?文字への限りないダイビングだと考えれば、団体戦にも新しい妙味が宿る。

 たったひとつの白球への限りないダイビング、とも言える野球に通じるところがある。青春の一時期に、友と手をたずさえて見知らぬ相手と触れ合い、磨き合うのもいいことだろう。

 これまでの大会での秀句から。「かなかなや平安京が足の下」「小鳥来る三億年の地層かな」「夕立の一粒源氏物語」「裁判所金魚一匹しかをらず」「のどぼとけ蛇のごとくに水を飲む」「長き夜十七歳を脚色す」。若い感性が周りや自分と出会って生まれた、一瞬の詩(うた)である。