Archive for 十二月, 2005

 横殴りの風と雪とで、通りの向かいの家すら見えなくなる。昔、任地の秋田市で何度かそんな体験をした。勤め先では、支局の前の大通りの名を付けて「山王ブリザード」などと呼んでいた。

 真冬に日本海から吹き付ける風には、かなりの力がある。海岸沿いで車を運転していると、何度もハンドルをとられそうになった。しかしその風が、何両も連結した長い列車の脱線にまでからむとは思ってもいなかった。

 秋田発新潟行きのJR羽越線の特急「いなほ」が、山形県庄内町で脱線転覆し、乗客4人が死亡する惨事となった。くの字に折れ曲がった車体は、尼崎市での痛ましい事故を連想させる。

 「いなほ」は新幹線の開通前は上野まで運行されていて、出張に利用したこともあった。それまで平穏だったはずの車内が一気に覆された瞬間を思うと、胸が詰まる。

 原因の究明はこれからだが、突風が一因としてあげられている。列車は、風速によって徐行や運転停止が定められている。今回、現場に近い風速計での観測は20メートル以下で、通常運行の範囲内だったという。しかし現実には脱線が起きた。最上川の長い鉄橋を渡った直後の脱線なので、線路の下の川面から吹き上げる風の強さを指摘する専門家もいる。

 最上川の上流域が出身の歌人、斎藤茂吉が、この川の冬の厳しいさまを詠んでいる。〈最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも〉。今年は、いつにも増して雪が深いという。風もまた強いとすれば、その中での列車運行の判断も、より慎重にしてもらいたい。

 この一年、小泉首相の言動には、残念ながらなかなか賛同できるものがなかった。そのまま年が押し詰まってきたが、首相は一昨日、「東京の日本橋の上に空の復活を」と述べたという。

 「お江戸日本橋七つ立ち」の古い橋だが、東京五輪を機に川沿いにつくられた高架の高速道路の下になっている。浮世絵で描かれたような開放感はない。その空の復活なら、あるいは賛同できるかと思い、発言をたどってみた。

 「日本橋という昔からの名所、これが上に高速道路が走っているからね。景観もよくないと」。五輪の開催に沸いた時代はともかく、今では、「よくない」と思う人も多いだろう。

 「川の流れ、日本橋、そして、昔ながらの名所を復活すれば、単なる東京の名所になるだけでなくて、世界的な名所になるのではないかと。夢をもって、日本橋の上を思い切って空にむかって広げてみようと」。川のたもとを散策で楽しめるようにしたいとも述べた。

 夢を持つのは悪くはない。そう思って、久々に日本橋に行き、渡ってみた。橋は、高速道路の影の中にあった。行き交う人たちも寒そうだ。確かに、空が開けて陽光が橋に届く方が気持ちがいいだろう。それを待ち望む地元の人たちの思いも改めて実感した。

 そのうちに、今の日本橋の姿は、やみくもに都市開発や道路づくりに走った時代を象徴する負の遺産ではないかという気がしてきた。この橋にとどまらず、日本のその時代と施策とを省みるという視点が伴っていればいいのだが。「空の復活」発言にそんなことを思った。

 大地震に備えるには、建物を鉄やコンクリートで固めるのがよいのか、それとも柳のように揺れを吸収する方がよいのか。関東大震災の直後、建築界でそんな議論が起きた。「柔剛論争」と呼ばれた。

 地震にからむ論争は戦後もあった。総ガラス張りのビルが東京や大阪に建ち始めた1950年代、「地震が心配だ」「いやガラスの持つ不安感は芸術性を高める」と応酬が続く。こちらは「不安感論争」と命名された。

 建築評論家の宮内嘉久氏によると、不安感論争の象徴となったのは、皇居わきに建った米出版社リーダーズ?ダイジェストのビルだった。ガラス面が大きく、柱が細く見える。建築学者や建設省技官らが「一度揺すってみないと安全かどうかわからない」などと盛んに批判した。

 設計したのは、チェコ生まれの建築家アントニン?レーモンド氏である。戦前と戦後に計44年間日本で暮らし、関東大震災も体験した。「地震に強い」と評された建築家には心外な非難で、晩年に出版した自伝でもなお憤慨している。

 レーモンド氏に師事した建築家ふたりの回顧展を見て回った。東京?上野の東京芸術大で25日まで開催中の吉村順三展と、23日に東京駅で始まった前川國男展である。

 吉村氏は生前「大震災を見て建築家を志した」と語っている。前川氏も建物の頑丈さには終生こだわり続けた。どちらの会場でも、設計図や模型に顔を近づけて見入る人々のまなざしが印象に残った。戦前から日本の建築界が耐震や免震にどれほど心を砕いてきたのか改めて思いを致した。

広告終わり


 ああ、届かない。その瞬間、どよめき立つ16万余の観衆から悲鳴がもれた。無敗の3冠馬ディープインパクトが「第50回有馬記念」で敗れた。

 千葉県船橋市の中山競馬場で観戦して思った。なぜ、人々はこの馬に、これほど熱狂するのだろう。前回レースでは1?0倍の単勝馬券を記念品として取り置く人が続出し、全体の5%、5640万円が払い戻されなかった。ギャンブルというより「お祭り」なのだ。

 強いものを見たい。勝利の陶酔感にしびれたい。こんなファン心理を満たしてきたのは確かだ。だが、それだけではない。70年代のハイセイコーが石油ショックに沈む世相を、80年代末のオグリキャップがバブル経済に躍る雰囲気を投影したように、ディープインパクトもいまの気分を映しているに違いない。

 たとえば株価が持ち直して、景気回復が語られる浮揚感だろうか。連戦連敗の馬が話題になったときより明らかに上向きだ。同時に、強いものへの支持が広がりやすい世情を反映しているようにも見える。

 きのうのスタンドを埋めた人波から、総選挙で小泉首相に群がった聴衆を思い出した。郵政解散を断行した首相の強硬さが圧倒的に支持されていた。強い指導者なら問題を解決してくれると願ったような若者の投票行動も多かったという分析もあった。

 強いものに、すがりたい。ありがちな風潮だが、やはりどこか危うい。その意味で、3冠馬の敗北は現実の厳しさを見つめ直す好機かもしれない。はずれ馬券を懐に、駅へと続く「おけら街道」を歩きながら、そう思った。

 遠くのビルの窓を染めて、いつものように夕日が落ちてゆく。100年後の地上は、どうなっているだろうか。ふと、そんなことを思ったのは、そのころには、日本の人口が今の半分に減ると予想する記事を読んだからだ。

 2005年生まれの赤ちゃんの数が、亡くなった人の数を下回る。明治期に統計を取り始めてから初めて、日本の人口が自然減に転じることが、厚生労働省の推計でわかった。政府の想定よりも1年早かった。

 私たちは今、おそらくは太古の時代からほぼ増え続けてきた人口のグラフの頂点に立っている。これからあとは、右下がりに減ってゆく。現在の1億2800万の人口が、このままだと、2100年には6400万になるという。人口がそのくらいだったころを過去にさがせば、あの大恐慌が始まった昭和4年、1929年から翌年あたりになる。

 イギリスの経済学者マルサスは、18世紀末に出した『人口の原理』で述べた。「人口は、制限せられなければ、幾何級数的に増加する。生活資料は算術級数的にしか増加しない」(岩波文庫)。徐々にしか増えない食糧に対する、人口の爆発的な増加の勢いを印象づける表現だった。

 今後の自然減については、国全体で幅広く対処してゆく必要がある。しかし、そもそも、人口がいつまでも増え続けるものではないだろう。

 半分の人口といっても、現在のエジプトやトルコ並みで、フランス、イギリスを上回る。今よりも、ひとりひとりが重みを増した、ひきしまった国に向けて、百年の計を立てる好機だ。

 英語のpatriot(パトリオット)は、愛国者を意味する。湾岸戦争では、米軍のミサイルの名前として知られた。「愛国法」と呼ばれる、9?11テロの後にできた法の扱いを巡って、米国内で論議が起きている。

 愛国法は、テロ対策のため、捜査機関の権限の強化を認めている。ただ、電話の傍受のように、市民的自由を侵害する条項などは4年間の時限付きで、その期限が今年末だった。

 ブッシュ大統領は時限措置の恒久化を求めた。民主党に加え、一部の共和党議員も反対していたが、とりあえず、この権限を短期間延長することで歩み寄った。しかしこれとは別に、大統領が、令状なしで盗聴する権限を国家安全保障局(NSA)に秘密裏に与えていたとニューヨーク?タイムズ紙が特報し、大統領は批判にさらされた。

 民主党のファインゴールド上院議員が述べた。「大統領が勝手に法律をつくりあげることはできない。そんなことをしていては、ジョージ?ブッシュ大統領ではなく、ジョージ?ブッシュ国王となってしまう」

 チェイニー副大統領は、こう反論した。「ベトナム戦争やウォーターゲート事件で、大統領権限は制約されてしまった。しかし私たちは、大統領権限をかなりの程度まで合法的に回復することに成功した」

 「合法的な回復」に疑問が浮かぶ。令状なしの盗聴には民主主義社会を根本から覆す危険性がある。愛国法が成立したのは9?11のテロ直後の「戦時」だった。しかし「戦時」だからといって、ひそかに権限を膨らませていいはずはない。

 「小サナル早附木売ノ娘」。デンマークの作家アンデルセンの「マッチ売りの少女」が、明治期に翻訳された時の題だという。古くから日本にもなじみ深いアンデルセンの生誕200年の記念展が、東京?大手町の逓信総合博物館で25日まで開かれている。

 アンデルセンは、英国の作家ディケンズと交流があった。英国への招待を受けて送った手紙の複製がある。「私は今、あなたのところに向かって旅をしています……私はロンドンが好きではありませんし、2、3日以上は決してそこに留まらないでしょう……田舎の空気に触れたいと思います」

 筆まめだったというが、母親あての手紙は長くみつかっていなかった。最近、デンマーク王立図書館の研究員が発見した。記念展には、その複製も展示されている。「いつもと同じようなおたよりをいたします……最近の旅行記がやっと書き終わりました……お母さんはお元気ですか?……おたよりを楽しみにしています。僕は元気ですよ あなたのクリスチャンより」

 これまで、アンデルセンの母親への感情は冷え切ったものといわれてきた。この26歳の時の手紙からは、母親を気遣う新しい一面がうかがえる。

 銀座の通りに出ると、救世軍の社会鍋が出ていた。クリスマスの歌が流れ、電飾をまとったツリーが並んでいる。

 ディケンズは「クリスマス?キャロル」を著し、アンデルセンは、大みそかの夜の「マッチ売りの少女」を書いた。19世紀の歳末をそれぞれに描いたふたりの会話を想像しながら、人の波に分け入った。

  中新上海网十二月二十四日电 海峡两岸关系协会会长汪道涵今天上午七时许在上海逝世,享年九十岁。消息传出,两岸各界人士纷纷扼腕。


  汪道涵,生于一九一五年,安徽省嘉山县人,毕业于上海交通大学。一九四九年十月起,历任浙江省财政厅厅长、商业厅厅长、华东军政委员会工业部部长等职,后调往北京任职。一九八一年四月,汪道涵出任上海市市长。


  上世纪八十年代中期,汪道涵退居二线后,长期关注海峡两岸和平统一大业。一九九一年十二月,海峡两岸关系协会在北京成立,汪道涵出任会长。


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  “19日中午12时10分左右,关鹤岩在正午时分离开人世,病房外,应该有暖暖的阳光,像他创作的那首曾温暖了无数人心灵的《丢手绢》,他的人格,他的心灵,永远阳光灿烂”—肖云儒


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摘自:新浪网


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