Archive for 4月, 2005

 森鴎外の小説「青年」の主人公は、地方から上京してきた作家志望の青年である。その青年が、明治という「青年期」の日本で、思索や体験を積んでゆく。

 こんなやりとりがある。「一々のことばを秤(はかり)の皿に載せるような事をせずに、なんでも言いたい事を言うのは、われわれ青年の特権だね」「なぜ人間は年を取るに従って偽善に陥ってしまうでしょう」(『岩波文庫』)。主人公の名は、小泉純一である。

 小泉純一郎?内閣が発足してから、きのうで満4年となった。戦後の内閣では、長い方に入るという。還暦も過ぎている首相を「青年」呼ばわりするつもりはないのだが、「言葉を秤の皿に載せずに言いたいことを言う」ような様子が、名前だけではなく、「青年」の一節と重なって見える。

 「ひとこと政治」などと指摘されて久しい。言葉の意味をかみ砕いたり、説明に腐心したりするよりは、言いたいことだけ言い切ってしまうやり方に批判が募っていった。しかし、老練な政治家にまとわりついているいんぎんな尊大さや老獪(ろうかい)さは、あまり感じさせない。「ひとこと」に批判が大きくても支持率が高かったのは、こんな「若さ」が関係しているようにも思われる。

 その支持率だが、発足当時の8割から半分ぐらいになった。確かに「ひとこと」では決着しそうもない課題が、国の内外に山積している。

 青年?純一は、日記に記した。「現在は過去と未来の間に画した一線である」。その一線が、この国と世界の未来にとって重みを増す中で、純一郎内閣は5年目を迎えた。

 ジャンボジェット機で空港に着陸するとする。高度がぐんと下がり、やがて車輪が滑走路に達する。その瞬間の時速は二百数十キロだという。着陸直後は、窓の外の景色は激しく後ろに飛ぶ。そして、その景色の動きは、自動車の窓から見るのと同じくらいに落ち着いてゆく。

 着陸時の速度は、まだ地上のものとは言えない。900キロ前後で空を飛んでいた時の名残をとどめている。そこから大きく減速して100キロ以下になり、やがて車並みに近づいた時、天上の速度から地上の速度に戻ったと感じる。

 JR宝塚線(福知山線)で脱線した快速電車の速度は、線路を飛び出す直前には100キロを超えていたという。着陸後に滑走する飛行機が、地上の速度に戻る前にコンクリートの建物に衝突したような衝撃だったのだろう。

 カーブにさしかかるのに、なぜ高速で走っていたのか、あるいは速度が落とせなかったのか。他にも脱線に結びつく要因があったのだろうか。原因はまだ分からないが、速度の問題に限れば、この電車は遅れを取り戻そうとしていたようだ。

 手前の駅で40メートル行き過ぎたが、報告は8メートルとすることにしたと車掌が供述しているという。それが事実ならば、40メートルの後戻りでできた分の遅れを圧縮し、報告の8メートルに合わせようとして急いだとの状況も考えられる。

 まる2日たっても、先頭車両の一部には救助の手が及ばなかった。地上の事故なのに、現場は飛行機の墜落すら思わせる。使い慣れた安全なはずの乗り物が、一瞬のうちに多くの命を奪った。何とも痛ましい。

 第二次大戦が終わりに近づく60年前の4月は、その後の世界のありようを左右するような節目となった。米国のルーズベルト大統領が12日に急死してトルーマンが後を継いだ。湘南の鎌倉に住む作家?大佛次郎は13日、「ルーズベルトのともらい合戦のつもりにや夜半大襲す」と記した(『大佛次郎敗戦日記』草思社)。

 ドイツを追いつめる米軍とソ連軍がエルベ川で出会う「エルベの誓い」は25日だった。その日の日記にはこうある。「伯林(ベルリン)は両断されたと報道せられる……残った興味はヒットラーがどうなるかである」

 28日、イタリアのムソリーニが処刑される。その数日前、ヒトラーはこの盟友あてに打電したという。「生存か滅亡かの戦いは、頂点に達した……いかに戦いが苛酷であろうとも、あえて死を恐れぬドイツ国民と同様の決意を持つ同盟国民は、事態の打開のために邁進するであろう」(児島襄『第二次世界大戦』小学館)。

 もう一つの同盟国日本では、1日に米軍が沖縄本島に上陸し地上戦が続いていた。小磯国昭内閣が総辞職して、鈴木貫太郎内閣となる。

 「ムッソリニが殺害せられミラノの広場にさらされし由。新聞には遠慮して出してないが逆吊りにしてモッブの陵辱にまかせたそうである。伯林も殆ど陥落。ヒトラーも死んだらしい」。日記の日付は5月1日、ヒトラーの自殺の翌日だった。

 「エルベの誓い」から60年を記念する式が、25日に米アーリントン国立墓地であった。あのソ連は今はなく、九つの国の代表が献花したという。

 きのう1日で36人の新しい市長が生まれた。うち29人は市町村合併に伴うものだ。4月だけで、合併による首長選は約80カ所を数える。国じゅうの行政区画が、日に日に書き換えられている。

 ミニ統一地方選ともいえる選挙ラッシュは、政府の財政支援をあてにした「駆け込み合併」の多さを物語る。優遇措置が手厚いうちに、もらえる金はもらっておこう。そんな心理も働いている。

 3町村と一緒になって10万人を超えた市の市長選で、自民党の衆院議員が公共事業をいっぱいやると叫んでいた。聴衆も「4年制の大学を誘致しろ」なんて声援していた。まるで合併さえすれば、お金がわき出るかのようだった。だが、そんな見込みはどこにもない。

 合併で確実なのは、選挙のあり方が変わっていくことだ。自民党の森喜朗前首相は先日の派閥総会で言った。「これまでの町長や議員さんのような後援会のまとめ方は、大きな市の市長には不可能だ」。その結果、地縁や利権に根ざす連呼型選挙は通じにくくなる。

 この変化を加速させようと、前三重県知事の北川正恭氏らが、自治体選挙へのマニフェストの導入を呼びかけている。数値目標や達成期限を入れた公約で、住民と直接契約しよう、と。投票する人々も政策の優先順位や採否の判断を迫られる。選ばれる側と選ぶ側に「双方向の責任」が生まれる。

 もはや「お任せ民主主義」ではいられない。こんなふうに住民の意識が変化したとき、初めてその合併は成功といえるだろう。たとえ、お金が目当ての駆け込み合併だったとしても。

 踏切での衝突事故でもなければ、電車同士の衝突でもない。それなのに、これほどまでに多くの犠牲者が出てしまったのはなぜなのか。兵庫県尼崎市のJR宝塚線(福知山線)での脱線事故の現場は、最近の鉄道事故では見られなかったような、すさまじいものとなった。

 マンションに衝突した車両の車体は、まるでブリキのようにくねって、ぺしゃんこになった。現場近くの線路では、車輪が石を踏みつぶしたような跡がみつかったという。原因究明を迅速に進めてもらいたい。

 電車がいつもより速いスピードで走っていたという乗客の話もある。手前の駅で行き過ぎて戻ったために遅れが出て、取り戻そうと急いでいたとの推測もある。宝塚線は、尼崎駅で他の線と接続しており、わずかなダイヤの乱れが乗り入れ先の路線にも影響を及ぼす。乗務員は遅れを出さずに運行することを会社から求められていたという。

 ここで思い起こすのは、整備ミスや運航規定違反が続いた日本航空が、国に提出した回答書のことだ。一連のトラブルの背景の一つとして「定時発着を優先し、大前提である安全がおろそかだった」と述べている。

 公共の交通機関にとっては、「定時」は信用の要だ。しょっちゅう遅れていたのでは利用者から厳しく問われる。しかし、肝心の安全の方が失速してしまったら、取り返しがつかない。

 全国の交通機関は、安全がおろそかになっていないかどうか、再点検してほしい。どんなに遅れが大きくなろうと、永遠に着かないという悲惨さとは、比べようもない。

 1年近くテレビ界をにぎわせた血液型番組のブームがひとまず去った。「最強血液型大実験」「血液型まるごと3時間」。そんな番組をこの春はほとんど見かけない。

 ABO式の血液型で性格を四つに分けてしまう血液型診断は、戦前から繰り返し批判されてきた。科学的根拠がないとか、偏見を助長するなどと退けられても、しばらくすると息を吹き返す。

 「紫式部はきっとA型、徳川家康はO型か」と推理を楽しむ分には害もあまりない。だが今回は、どういうわけかB型が集中的にからかわれた。芸能人や幼稚園児を実験台に、B型のふるまいや対人関係をあげつらうような番組が目についた。

 「血液型で人の優劣を決めつけないで」「信じ込んだ子供が血液型でけんかする」。視聴者の声を受け付ける放送倫理?番組向上機構には昨春から今年2月までに、苦情が200件も寄せられた。娯楽番組のつもりで見て、不快に感じた人が少なくなかったらしい。

 最近では韓国でも人気のようだが、日本ほど血液型が話題にのぼる国も珍しい。それなのに献血に寄せる関心は下がっている。いま年間の献血者は全国で560万人ほど。20年前の7割にも満たない。

 四季を通じて最も献血者が少ないのは春先という。進学や異動で気ぜわしいからか。おまけに今年は花粉症で人々の足が遠のき、来月にはヤコブ病対策の献血制限も本格化する。この春、日本は全体に貧血気味である。日本赤十字社によると、血液型占いがテレビでどんなに盛り上がっても、献血意欲は少しも上向かないそうだ。

 半世紀ほど前の街の情景だから、失われて久しいのかもしれない。しかし、まだどこかに残っていそうな気もするのが、三好達治が書いた子供の声の話である。

 「毎朝向いの家で元気な子供の声がきこえる。食事がすむと『いって参りまあす』というのが聞える」。昼になれば「ただいまあ」が、手にとるように聞こえる。露地一つを隔てて隣接しているからで、親しいつきあいはなくとも様子が分かる。宏壮な邸宅に居ては、この風味は味わえない。「私には大厦(たいか)高楼に住まいたい希望はない」(『月の十日』講談社文芸文庫)。

 現代風の大厦高楼とも言える高層マンションの27階から、植木鉢を載せる籐(とう)製の台二つが降ってきたという。大阪府警は、高さ77メートルの自宅のベランダから投げ落としたとの殺人未遂の疑いで、大阪市内の78歳の住人を逮捕、送検した。

 「ベランダの掃除をしていたら台につまずき、腹が立ったので投げた」と供述したというが、一つは自転車に乗っていた女性の前髪をかすめた。落ちた台はひびが入って変形していた。こんな「命拾い」はたまらない。

 塔のような高層の建物に上って感じるのは「近景の欠如」だ。地上のものは、遠景になってしまう。樹木は見えても枝は見えない。人は見えても顔は見えないし、声も届かない。

 こうした地上からの隔絶感をむしろ楽しみ、地面の近くでは得難い見晴らしを味わう人も多いのだろう。高さは、日本の暮らしに新しい形をもたらしたが、ありふれた物を、いつでも一瞬のうちに凶器に変える力をも備えている。

 「50年前、バンドンに集まったアジア?アフリカ諸国の前で、我が国は平和国家として、国家発展に努める決意を表明しました」。今も、その志にいささかの揺るぎもないと、小泉首相はジャカルタで演説した。

 50年前のバンドン会議の日本代表は、首相ではなく、高碕達之助?経済審議庁長官だった。その演説を本紙はこう伝えている。「わが日本が国際紛争解決の手段としての戦争を放棄し、武力による脅しを行わざる平和民主国家であることを、この機会に再び厳粛に宣言する」。大戦後の講和会議から4年、アジア諸国とまみえる場で、新憲法の精神が強調された。

 ジャワ島のバンドンは、さわやかな風が吹き渡る高原の街だという。かつて支配していたオランダ人は「ジャワのパリ」とも呼んだ。しかし過酷な植民の歴史は、この街を「火の海」にしたこともあった。

 独立宣 言後の1946年、再植民地化をたくらむオランダの攻撃に遭い、インドネシア共和国軍はバンドン市の南部に火を放って山岳地帯に逃げた。人々の愛唱歌「ハロ?ハロ?バンドン」は、バンドンを奪い返す誓いの歌だという(『インドネシアの事典』)。

 支配され侵略された側では、その思いは世代を超えて伝わってゆく。相手国の過去を許したとしても、忘れはしまい。相手が忘れることは、許し難いだろう。

 小泉首相は昨日、日本のアジア諸国に対する植民地支配と侵略について「痛切な反省とおわび」を表明した。「決して忘れてはいない」と伝わったのかどうか。耳を澄まして、答えを待ちたい。

  年前某日,去小区发廊例行剪发。由于我的出现频率约等于1次/年,洗发妹妹并不认识我。便饶有兴味地开始跟我聊天。其间得知,她目前寄住在堂哥家,每日与堂侄女厮混,以欺负小姑娘为乐。这有什么了不起呢?没有。了不起的是老的。据称,她堂嫂的父亲是参加过长征的老红军,目前享受政府照顾。也据她称,目前还活着的老红军,全国只有80多人了。而她堂嫂的母亲则是国民党军官。(老红军娶了国民党?真有意思。)还据她称,这个小区有位女客人的父亲也是参加过长征的老红军。我的天,全国仅剩80多位的老革命,竟然在这个连弹丸之地都称不上的地方生活着两位?惊讶!


  今日,因鼻梁遭病毒感染,有些溃烂,去小区诊所看病。如此小题大做,只是出于臭美的原因而已。结果,竟被吊了三瓶。医生解释如下:鱼腥草清热解毒,维生素收缩毛孔,青霉素消炎。认了吧。后一妇人入,称被爱猫咬伤。她认为只是小小创伤,讨点外敷药即可。坚决不肯吃消炎药。于是,医生开始解释为什么一定要消炎,为什么一定要注意观察。如下:伤口不大,但是如果恰好在血管上,就会引起皮下大量出血,形成血管瘤。而血管瘤是很危险的。大意如此吧。无奈那睡衣妇人坚决不从,医生涨红了脸,用非常不流利的普通话高声道:我是亲见过这样的病例的。那时候,反越战场上拉下来一车车的伤员,每天每个人都要这样仔细地消炎并观察。同样是子弹打穿,有的人没事,有的人却活不下来,就是因为这个。我还记得那个医生叫苏**,她/他交班的时候嘱咐我看顾好,结果第二天发作的时候,还是……这个事情我一辈子记得。嗯,我惊愕且崇拜的看着他,这人竟然是反越战时候的军医!这三瓶认了。


天皇皇后両陛下の外国ご訪問前の記者会見の内容

















1 ご訪問国 : ノルウェー(アイルランドお立ち寄り)
2 ご訪問期間: 平成17年5月7日~5月14日
3 会見年月日: 平成17年4月25日
4 会見場所 :

宮殿 石橋の間


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