Archive for 四月, 2005

 森鴎外の小説「青年」の主人公は、地方から上京してきた作家志望の青年である。その青年が、明治という「青年期」の日本で、思索や体験を積んでゆく。

 こんなやりとりがある。「一々のことばを秤(はかり)の皿に載せるような事をせずに、なんでも言いたい事を言うのは、われわれ青年の特権だね」「なぜ人間は年を取るに従って偽善に陥ってしまうでしょう」(『岩波文庫』)。主人公の名は、小泉純一である。

 小泉純一郎?内閣が発足してから、きのうで満4年となった。戦後の内閣では、長い方に入るという。還暦も過ぎている首相を「青年」呼ばわりするつもりはないのだが、「言葉を秤の皿に載せずに言いたいことを言う」ような様子が、名前だけではなく、「青年」の一節と重なって見える。

 「ひとこと政治」などと指摘されて久しい。言葉の意味をかみ砕いたり、説明に腐心したりするよりは、言いたいことだけ言い切ってしまうやり方に批判が募っていった。しかし、老練な政治家にまとわりついているいんぎんな尊大さや老獪(ろうかい)さは、あまり感じさせない。「ひとこと」に批判が大きくても支持率が高かったのは、こんな「若さ」が関係しているようにも思われる。

 その支持率だが、発足当時の8割から半分ぐらいになった。確かに「ひとこと」では決着しそうもない課題が、国の内外に山積している。

 青年?純一は、日記に記した。「現在は過去と未来の間に画した一線である」。その一線が、この国と世界の未来にとって重みを増す中で、純一郎内閣は5年目を迎えた。

 ジャンボジェット機で空港に着陸するとする。高度がぐんと下がり、やがて車輪が滑走路に達する。その瞬間の時速は二百数十キロだという。着陸直後は、窓の外の景色は激しく後ろに飛ぶ。そして、その景色の動きは、自動車の窓から見るのと同じくらいに落ち着いてゆく。

 着陸時の速度は、まだ地上のものとは言えない。900キロ前後で空を飛んでいた時の名残をとどめている。そこから大きく減速して100キロ以下になり、やがて車並みに近づいた時、天上の速度から地上の速度に戻ったと感じる。

 JR宝塚線(福知山線)で脱線した快速電車の速度は、線路を飛び出す直前には100キロを超えていたという。着陸後に滑走する飛行機が、地上の速度に戻る前にコンクリートの建物に衝突したような衝撃だったのだろう。

 カーブにさしかかるのに、なぜ高速で走っていたのか、あるいは速度が落とせなかったのか。他にも脱線に結びつく要因があったのだろうか。原因はまだ分からないが、速度の問題に限れば、この電車は遅れを取り戻そうとしていたようだ。

 手前の駅で40メートル行き過ぎたが、報告は8メートルとすることにしたと車掌が供述しているという。それが事実ならば、40メートルの後戻りでできた分の遅れを圧縮し、報告の8メートルに合わせようとして急いだとの状況も考えられる。

 まる2日たっても、先頭車両の一部には救助の手が及ばなかった。地上の事故なのに、現場は飛行機の墜落すら思わせる。使い慣れた安全なはずの乗り物が、一瞬のうちに多くの命を奪った。何とも痛ましい。

 第二次大戦が終わりに近づく60年前の4月は、その後の世界のありようを左右するような節目となった。米国のルーズベルト大統領が12日に急死してトルーマンが後を継いだ。湘南の鎌倉に住む作家?大佛次郎は13日、「ルーズベルトのともらい合戦のつもりにや夜半大襲す」と記した(『大佛次郎敗戦日記』草思社)。

 ドイツを追いつめる米軍とソ連軍がエルベ川で出会う「エルベの誓い」は25日だった。その日の日記にはこうある。「伯林(ベルリン)は両断されたと報道せられる……残った興味はヒットラーがどうなるかである」

 28日、イタリアのムソリーニが処刑される。その数日前、ヒトラーはこの盟友あてに打電したという。「生存か滅亡かの戦いは、頂点に達した……いかに戦いが苛酷であろうとも、あえて死を恐れぬドイツ国民と同様の決意を持つ同盟国民は、事態の打開のために邁進するであろう」(児島襄『第二次世界大戦』小学館)。

 もう一つの同盟国日本では、1日に米軍が沖縄本島に上陸し地上戦が続いていた。小磯国昭内閣が総辞職して、鈴木貫太郎内閣となる。

 「ムッソリニが殺害せられミラノの広場にさらされし由。新聞には遠慮して出してないが逆吊りにしてモッブの陵辱にまかせたそうである。伯林も殆ど陥落。ヒトラーも死んだらしい」。日記の日付は5月1日、ヒトラーの自殺の翌日だった。

 「エルベの誓い」から60年を記念する式が、25日に米アーリントン国立墓地であった。あのソ連は今はなく、九つの国の代表が献花したという。

 きのう1日で36人の新しい市長が生まれた。うち29人は市町村合併に伴うものだ。4月だけで、合併による首長選は約80カ所を数える。国じゅうの行政区画が、日に日に書き換えられている。

 ミニ統一地方選ともいえる選挙ラッシュは、政府の財政支援をあてにした「駆け込み合併」の多さを物語る。優遇措置が手厚いうちに、もらえる金はもらっておこう。そんな心理も働いている。

 3町村と一緒になって10万人を超えた市の市長選で、自民党の衆院議員が公共事業をいっぱいやると叫んでいた。聴衆も「4年制の大学を誘致しろ」なんて声援していた。まるで合併さえすれば、お金がわき出るかのようだった。だが、そんな見込みはどこにもない。

 合併で確実なのは、選挙のあり方が変わっていくことだ。自民党の森喜朗前首相は先日の派閥総会で言った。「これまでの町長や議員さんのような後援会のまとめ方は、大きな市の市長には不可能だ」。その結果、地縁や利権に根ざす連呼型選挙は通じにくくなる。

 この変化を加速させようと、前三重県知事の北川正恭氏らが、自治体選挙へのマニフェストの導入を呼びかけている。数値目標や達成期限を入れた公約で、住民と直接契約しよう、と。投票する人々も政策の優先順位や採否の判断を迫られる。選ばれる側と選ぶ側に「双方向の責任」が生まれる。

 もはや「お任せ民主主義」ではいられない。こんなふうに住民の意識が変化したとき、初めてその合併は成功といえるだろう。たとえ、お金が目当ての駆け込み合併だったとしても。

 踏切での衝突事故でもなければ、電車同士の衝突でもない。それなのに、これほどまでに多くの犠牲者が出てしまったのはなぜなのか。兵庫県尼崎市のJR宝塚線(福知山線)での脱線事故の現場は、最近の鉄道事故では見られなかったような、すさまじいものとなった。

 マンションに衝突した車両の車体は、まるでブリキのようにくねって、ぺしゃんこになった。現場近くの線路では、車輪が石を踏みつぶしたような跡がみつかったという。原因究明を迅速に進めてもらいたい。

 電車がいつもより速いスピードで走っていたという乗客の話もある。手前の駅で行き過ぎて戻ったために遅れが出て、取り戻そうと急いでいたとの推測もある。宝塚線は、尼崎駅で他の線と接続しており、わずかなダイヤの乱れが乗り入れ先の路線にも影響を及ぼす。乗務員は遅れを出さずに運行することを会社から求められていたという。

 ここで思い起こすのは、整備ミスや運航規定違反が続いた日本航空が、国に提出した回答書のことだ。一連のトラブルの背景の一つとして「定時発着を優先し、大前提である安全がおろそかだった」と述べている。

 公共の交通機関にとっては、「定時」は信用の要だ。しょっちゅう遅れていたのでは利用者から厳しく問われる。しかし、肝心の安全の方が失速してしまったら、取り返しがつかない。

 全国の交通機関は、安全がおろそかになっていないかどうか、再点検してほしい。どんなに遅れが大きくなろうと、永遠に着かないという悲惨さとは、比べようもない。

 1年近くテレビ界をにぎわせた血液型番組のブームがひとまず去った。「最強血液型大実験」「血液型まるごと3時間」。そんな番組をこの春はほとんど見かけない。

 ABO式の血液型で性格を四つに分けてしまう血液型診断は、戦前から繰り返し批判されてきた。科学的根拠がないとか、偏見を助長するなどと退けられても、しばらくすると息を吹き返す。

 「紫式部はきっとA型、徳川家康はO型か」と推理を楽しむ分には害もあまりない。だが今回は、どういうわけかB型が集中的にからかわれた。芸能人や幼稚園児を実験台に、B型のふるまいや対人関係をあげつらうような番組が目についた。

 「血液型で人の優劣を決めつけないで」「信じ込んだ子供が血液型でけんかする」。視聴者の声を受け付ける放送倫理?番組向上機構には昨春から今年2月までに、苦情が200件も寄せられた。娯楽番組のつもりで見て、不快に感じた人が少なくなかったらしい。

 最近では韓国でも人気のようだが、日本ほど血液型が話題にのぼる国も珍しい。それなのに献血に寄せる関心は下がっている。いま年間の献血者は全国で560万人ほど。20年前の7割にも満たない。

 四季を通じて最も献血者が少ないのは春先という。進学や異動で気ぜわしいからか。おまけに今年は花粉症で人々の足が遠のき、来月にはヤコブ病対策の献血制限も本格化する。この春、日本は全体に貧血気味である。日本赤十字社によると、血液型占いがテレビでどんなに盛り上がっても、献血意欲は少しも上向かないそうだ。

 半世紀ほど前の街の情景だから、失われて久しいのかもしれない。しかし、まだどこかに残っていそうな気もするのが、三好達治が書いた子供の声の話である。

 「毎朝向いの家で元気な子供の声がきこえる。食事がすむと『いって参りまあす』というのが聞える」。昼になれば「ただいまあ」が、手にとるように聞こえる。露地一つを隔てて隣接しているからで、親しいつきあいはなくとも様子が分かる。宏壮な邸宅に居ては、この風味は味わえない。「私には大厦(たいか)高楼に住まいたい希望はない」(『月の十日』講談社文芸文庫)。

 現代風の大厦高楼とも言える高層マンションの27階から、植木鉢を載せる籐(とう)製の台二つが降ってきたという。大阪府警は、高さ77メートルの自宅のベランダから投げ落としたとの殺人未遂の疑いで、大阪市内の78歳の住人を逮捕、送検した。

 「ベランダの掃除をしていたら台につまずき、腹が立ったので投げた」と供述したというが、一つは自転車に乗っていた女性の前髪をかすめた。落ちた台はひびが入って変形していた。こんな「命拾い」はたまらない。

 塔のような高層の建物に上って感じるのは「近景の欠如」だ。地上のものは、遠景になってしまう。樹木は見えても枝は見えない。人は見えても顔は見えないし、声も届かない。

 こうした地上からの隔絶感をむしろ楽しみ、地面の近くでは得難い見晴らしを味わう人も多いのだろう。高さは、日本の暮らしに新しい形をもたらしたが、ありふれた物を、いつでも一瞬のうちに凶器に変える力をも備えている。

 「50年前、バンドンに集まったアジア?アフリカ諸国の前で、我が国は平和国家として、国家発展に努める決意を表明しました」。今も、その志にいささかの揺るぎもないと、小泉首相はジャカルタで演説した。

 50年前のバンドン会議の日本代表は、首相ではなく、高碕達之助?経済審議庁長官だった。その演説を本紙はこう伝えている。「わが日本が国際紛争解決の手段としての戦争を放棄し、武力による脅しを行わざる平和民主国家であることを、この機会に再び厳粛に宣言する」。大戦後の講和会議から4年、アジア諸国とまみえる場で、新憲法の精神が強調された。

 ジャワ島のバンドンは、さわやかな風が吹き渡る高原の街だという。かつて支配していたオランダ人は「ジャワのパリ」とも呼んだ。しかし過酷な植民の歴史は、この街を「火の海」にしたこともあった。

 独立宣 言後の1946年、再植民地化をたくらむオランダの攻撃に遭い、インドネシア共和国軍はバンドン市の南部に火を放って山岳地帯に逃げた。人々の愛唱歌「ハロ?ハロ?バンドン」は、バンドンを奪い返す誓いの歌だという(『インドネシアの事典』)。

 支配され侵略された側では、その思いは世代を超えて伝わってゆく。相手国の過去を許したとしても、忘れはしまい。相手が忘れることは、許し難いだろう。

 小泉首相は昨日、日本のアジア諸国に対する植民地支配と侵略について「痛切な反省とおわび」を表明した。「決して忘れてはいない」と伝わったのかどうか。耳を澄まして、答えを待ちたい。

  年前某日,去小区发廊例行剪发。由于我的出现频率约等于1次/年,洗发妹妹并不认识我。便饶有兴味地开始跟我聊天。其间得知,她目前寄住在堂哥家,每日与堂侄女厮混,以欺负小姑娘为乐。这有什么了不起呢?没有。了不起的是老的。据称,她堂嫂的父亲是参加过长征的老红军,目前享受政府照顾。也据她称,目前还活着的老红军,全国只有80多人了。而她堂嫂的母亲则是国民党军官。(老红军娶了国民党?真有意思。)还据她称,这个小区有位女客人的父亲也是参加过长征的老红军。我的天,全国仅剩80多位的老革命,竟然在这个连弹丸之地都称不上的地方生活着两位?惊讶!


  今日,因鼻梁遭病毒感染,有些溃烂,去小区诊所看病。如此小题大做,只是出于臭美的原因而已。结果,竟被吊了三瓶。医生解释如下:鱼腥草清热解毒,维生素收缩毛孔,青霉素消炎。认了吧。后一妇人入,称被爱猫咬伤。她认为只是小小创伤,讨点外敷药即可。坚决不肯吃消炎药。于是,医生开始解释为什么一定要消炎,为什么一定要注意观察。如下:伤口不大,但是如果恰好在血管上,就会引起皮下大量出血,形成血管瘤。而血管瘤是很危险的。大意如此吧。无奈那睡衣妇人坚决不从,医生涨红了脸,用非常不流利的普通话高声道:我是亲见过这样的病例的。那时候,反越战场上拉下来一车车的伤员,每天每个人都要这样仔细地消炎并观察。同样是子弹打穿,有的人没事,有的人却活不下来,就是因为这个。我还记得那个医生叫苏**,她/他交班的时候嘱咐我看顾好,结果第二天发作的时候,还是……这个事情我一辈子记得。嗯,我惊愕且崇拜的看着他,这人竟然是反越战时候的军医!这三瓶认了。


天皇皇后両陛下の外国ご訪問前の記者会見の内容

















1 ご訪問国 : ノルウェー(アイルランドお立ち寄り)
2 ご訪問期間: 平成17年5月7日~5月14日
3 会見年月日: 平成17年4月25日
4 会見場所 :

宮殿 石橋の間


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天皇陛下: 兵庫県で大きな列車事故があり,多くの人々が亡くなり,また多くの人々がけがをされました。本当に心を痛めております。遺族の人々のご心痛はいかほどかと察しています。負傷された人々が良い治療を受け回復されていくことを切に願っております。




(宮内記者会代表質問)



問1: 天皇皇后両陛下にお伺いいたします。今回,ノルウェーとアイルランド両国は共に20年振りのご訪問と聞いております。両国に対する印象とともに,今回のご訪問で楽しみにされていること,また3年振りの海外旅行を前にした現在のご体調をお聞かせください。



天皇陛下: 回答については不十分な点があるといけないと思いまして,書いてきましたので,それを読みながらお話したいと思います。



 私がノルウェーを訪れたのは二回あります。最初は1953年英国女王の戴(たい)冠式に当たって戴(たい)冠式後,欧州諸国を回ったときのことです。もうそれから52年がたちました。オスロの王宮にホーコン七世国王とオラフ皇太子をお訪ねし,その後離宮で午餐を頂きました。ホーコン七世国王は百年前ノルウェーがスウェーデンとの同君連合を解消したときに,デンマークの王族から迎えられて国王になられた方です。私がお会いしたときは既に在位期間50年近くに及んでいました。第一次世界大戦前から国王でいらしたわけであり,在位中の様々なご経験を伺わなかったことを残念に思っています。なお,オラフ皇太子に初めてお目にかかったのは英国女王の戴(たい)冠式のときで,皇太子妃もご一緒でした。皇太子は昭和天皇より二つ年下という19才の私とは親子の年齢差があるにもかかわらず,いつも丁重に接してくださったことが印象に残っています。このときお会いした皇太子妃はその後ノルウェーを訪問したときにはもう病院にお入りになっており,お亡くなりになったことを残念に思っています。



 この後オスロから飛行機で西へ飛び,スタヴァンゲル,ハウゲスンド間を船で渡り,そこからイエイロまでフィヨルドや木の生えていない高原を見ながら自動車で旅し,ノルウェーの自然景観を味わいました。平和条約発効の1年後に,戦争の痛手を大きく受けた日本から訪れた者にとって,ノルウェーで訪れた各地が豊かで美しく感じられたことが印象に残っています。



 二度目は20年前のことになりますが,オラフ国王が日本を国賓としてご訪問になったことに対する答訪として当時皇太子であった私が皇太子妃とともに昭和天皇の名代として訪問したときのことです。このときはデンマークの訪問を終えた週末に当時のハラルド皇太子ご夫妻とベルゲン方面のフィヨルドを船で回り,楽しい一時を過ごしました。オックスフォード大学に留学中の現在の皇太子も招いてくださり,本当に心のこもったおもてなしを頂きました。その後のオスロの公式訪問では高齢のオラフ国王が皇太子ご夫妻と共にほとんどの行事にご一緒していただきました。



 今年は日本との国交が樹立して百周年になります。これを記念して,両国間の理解を深める様々な行事が行われると聞いております。この記念の年にノルウェーを訪問することをうれしく思っております。この度の訪問を通して両国の相互理解と友好関係の増進に資するよう務めたいと思っております。



 この度初めて訪れるトロンハイムはホーコン七世の戴(たい)冠式が行われた所であり,歴史を顧みつつノルウェーへの理解を深めていきたいと考えています。



 国王陛下には今月初めに手術をお受けになりご療養中ですが,今回の訪問中にお会いすることができるほどご快復になっていると聞きうれしく思っております。王妃陛下にはご心痛のこととお察ししていますが,先日お会いしたホーコン摂政殿下と共に行事にお出になり,再びお目にかかれることを楽しみにしております。



 アイルランドを訪れたのは二回あります。ただ一回目は1953年に英国女王戴(たい)冠式に参列した後に欧州諸国を巡り,米国へ向かう飛行中の給油のためにシャノン空港に着陸したときです。



 二回目はヒラリー大統領が国賓として日本をご訪問になったことに対する答訪として,当時皇太子であった私が皇太子妃と共に,昭和天皇の名代として訪問したときです。スペイン訪問を終えて非公式にアイルランド西部で週末を過ごし,週が明けてからダブリンでヒラリー大統領にお目にかかるなど公式行事に臨みました。アイルランドで印象に残っていることは様々ありますが,訪れた所では西部の木もないバレンの厳しい自然景観やハイキングの居城があった緑のタラの丘などが印象に残っています。



 この度のアイルランド訪問は時差調節を兼ねた非公式の訪問ですが,先日日本でお会いしたマッカリース大統領閣下と夫君に再びお会いすることをうれしく思っています。



 この前の訪問は3月の初めでしたが,この度は5月の初めであり,緑豊かなアイルランドを味わえることを楽しみにしています。



皇后陛下私もこれまで記憶に頼ってお話をしておりましたけれども,七十になりましたので,今回からは書いたものに頼ってお話をさせていただきます。



 前回の北欧4か国の訪問から,既に20年がたち,この度,再びノルウェーを訪問するに当たり,改めて往時のことを懐かしく思い出しております。



 先の訪問の折,当時の国王オラフ陛下は,そのころまだ東宮,東宮妃であった陛下と私を,オスロ空港で迎えてくださり,滞在の全期間を通じて,手厚くもてなしてくださいました。ちょうど昭和天皇に近いお年頃の国王陛下にお連れいただいて,フログナー公園でヴィーゲランの彫刻を見た夏の一時が,そのときとりわけ印象深かったモノリッテンという作品の記憶と共に,忘れられない思い出となって,私の心に残っております。



 このときの訪問では,オスロでの公式行事に先立ち,4か国訪問のちょうど中日に当たる週末を,西海岸のベルゲンで過ごしましたが,当時皇太子でいらした現国王陛下が,妃殿下と共にオスロからいらしてくださり,美しいソグネ?フィヨルドの航海を楽しませてくださいました。途中,小さな島に立ち寄ったときに,ちょうどその島で公演があったのか,もしかしたら私どものために計画してくださったのか,役者さんの一団が,ヴァイキングの服装で私ども一行を襲ってくれました。素晴らしい経験でした。ご夫妻は,その後の公式日程においても,国王陛下と共に,常に私どもに付き添ってくださり,訪問を成功に導くための,大きな助けとなってくださいました。



 こうした王室皇室間の絆(きずな)に加え,厳しいけれども美しいノルウェーの自然や,その懐(ふところ)ではぐくまれた文化や芸術,国民性とも思われるノルウェーの人々の堅実な生活態度にも心をひかれてまいりました。



 先述したヴィーゲランを知ったのは,前回の訪問のときでしたが,グリークやビヨルンソンの名を知ったのは中学,高校時代のことでした。グリークの「最後の春」や「子守歌」などのピアノの小曲,「シンネエヴェ?ソルバッケン」という,美しい響きをもつ,日向丘(ひなたがおか)の少女の物語等を,私はそのころ,特にノルウェーの作曲家や作家のものとは意識せず,世界の音楽,世界の文学として愛好し,やがてその魅力ある曲想や文体を,ノルウェーのものとして認識していったのだと思います。



 1970年の大阪万博で,ノルウェーは他の北欧の国々と合同で,スカンジナヴィア館を出展いたしましたが,このとき既に,今回の愛知万博のテーマである環境問題への認識を強く打ち出しており,ほぼ全館を使って公害への警告をしていたことが思い出されます。このころから,北海の油田のことがよく話題にのぼるようになりましたが,最近になり,この油田のその後の開発に関し,当時のノルウェー政府が,経済の過度の石油依存を回避するよう努力していたことを知り,感銘を受けました。



 ここ10年,20年を振り返っても,オスロ合意や,スリランカ,スーダンにおける和平交渉などで,ノルウェーの国際平和への貢献は世界に知られており,20世紀の初期,赤十字や難民救済の事業に貢献し,ノーベル平和賞を受けたナンセンの理想が,今もノルウェーの国民の間に確かに受け継がれ,既にこの国の国柄のようにもなっていることを感じます。



 ノルウェーと同じく,アイルランドの訪問も20年振りのことで,当時を思い起こしますと様々な美しい思い出がよみがえり,懐かしい気持ちで一杯になります。



 私の学生時代,聖心でも雙葉でも,アイルランドの修道女のお姿を見る機会は多く,直接お教えを受ける機会は少なかったのですが,どなたも魅力的で美しく,今そのお一人お一人を,お名前と共に思い出します。



 高校2年のとき,一生にただ一度の経験ですが劇の主役に選ばれ,聖パトリックの布教が始まる異教時代末期に,タラの居城から-先ほど陛下がおっしゃったタラです。-タラの居城からアイルランドを統(す)べていた族長の王子の役を致しました。前回のアイルランドの訪問のとき,このタラの地を陛下とご一緒に訪ね,かつてここで美しいハープの音が響いたといわれるその時代に思いをはせました。国花であるシャムロックを土地の子供たちが摘んで見せてくれたことを思い出します。この聖パトリックの布教と,それに続く時代に作られたと思われる,異教とキリスト教との両要素をもつ伝承の物語や,更に古い,ケルトの諸種族の興亡の中で生まれたと言われる常世(とこよ)の国や妖(よう)精の伝説には,心ひかれるものがあり,アイルランドの血を引く小泉八雲が,日本の各地の伝承に関心を示したことは,この観点からも興味深いことに思われます。



 同じく前回の訪問のときに,トリニティー大学で美しい詩の朗読を聞かせていただきました。その一つは,アイルランドの盲目の詩人,ラフタリの「カウンティー?メイヨー」という詩で,一回を原文のゲイル語で,二回目を英訳で読んでくださいました。



 私はこれまで,多くの詩を読んできたわけではないのですが,このラフタリの詩のように,これまでに幾つかの心打つアイルランドの詩に出会えたことは幸運でした。「二つの川の出会うところ」のようなアイルランドの歌についても,同様のことが申せます。そして一方では,こうした心ひかれる詩や歌を通して,私はアイルランドが国として経てきた苦難の歴史-多数の国民が,国外移住を余儀なくされた大飢饉(きん)のことや,独立を求めた詩人たちの蜂(ほう)起の歴史-についても少しずつ知る機会を持つようになり,自分の中のアイルランド像を膨らませてきたように思います。



 この度の訪問では,それぞれのお国の首都に加え,ノルウェーでは古都トロンハイムを,アイルランドではグレンダ?ロッホを訪問いたします。オスロでは,国王陛下がご病後にもかかわらず,私的な夕食会に出席されるということで,大層うれしく,楽しみにしております。王妃陛下もさぞご心労でいらしたこととお察しいたします。また,アイルランドでは,日本にいらしたとき,私がヘルペスを患ってお会いできなかったマッカリース大統領とも,今回このような形でお会いする機会を持てることを幸せに思います。



 訪問するどちらの国においても,旧知の方々を始めとし,各所でその国の大勢の方々とお会いすることを,今から楽しみにしております。



天皇陛下 体調についての質問がありましたけれども,この前お話したのと同じような状況であり,今度の訪問には大丈夫だと思っております。心配している方もあると思いますが,安心していただきたいと願っています。



皇后陛下 私も体調についての質問にお答えいたしますと,体調については,まだご治療を受けていらっしゃる陛下にお疲れが出ませんよう念じております。私も,もうひところのように若くはないので少し心配ですが,よく注意をし,つつがなく務めを果たしたいと思います。




問2 天皇陛下にお伺いいたします。昨年5月,皇太子殿下が欧州訪問前の会見でされた妃殿下をめぐるいわゆる「人格否定」発言が発端となり,皇室の方々の外国訪問の在り方が話題となりました。両陛下は皇太子同妃時代から現在に至るまで,多くの国々を訪問され,国際親善に努めてこられましたが,皇室の方々の外国訪問のあるべき姿,果たすべき役割をどのようにお考えでしょうか。



天皇陛下 私どもは皇太子,皇太子妃として多くの国々を訪問しましたが,ほとんどの外国訪問は日本に国賓をお迎えした国に対する答訪であり,その多くは昭和天皇の名代という立場での訪問でした。これは当初は,天皇の外国訪問の間の国事行為の臨時代行に関する法律がなかったためでしたが,法律制定後,昭和天皇,香淳皇后の欧州ご訪問と米国ご訪問が実現した後も,両陛下のご高齢の問題があり,再び昭和天皇の名代としての外国訪問が始まりました。昭和天皇,香淳皇后の欧州ご訪問までには国賓を迎えたほとんどの国々に対し,私どもは答訪を終えていましたが,その後は国賓の数も多くなり,昭和の終わりには相当数の未答訪国が残っていました。



 平成になってからは,国賓に対する答訪はなくなり,私どもの外国訪問は政府が訪問国を検討し決定するということになりました。このように,天皇の外国訪問の形も時代に伴って変遷を経,現在の私どもの外国訪問は,この度と同様に,ほとんどすべて国際親善のための訪問となっています。



 国際親善の基は人と人との相互理解であり,その上に立って友好関係が築かれていくものと考えます。国と国との関係は経済情勢など良い時も悪い時もありますが,人と人との関係は国と国との関係を越えて続いていくものと思います。この度の訪問が訪問国の人々と日本の人々との相互理解と友好関係を深める上に少しでも役に立てばうれしいことです。




問3 両陛下にお伺いします。今回のノルウェーで,即位後,王室のある欧州の国々をすべて訪問されることになります。各国の王室では,一つの例として,男女平等に王位を継承できる動きが広がるなど,時代とともに変化してきております。今後の皇室を考えていく上で,これまでの欧州の各王室とのご交際の中から参考になることなどがありましたらお聞かせください。



天皇陛下 私が欧州の各王室の方々と知り合うようになったのは今から50年以上前,私の19才のときに英国女王の戴(たい)冠式に参列した機会でした。戴(たい)冠式には,国王や大統領は出席しませんが,皇太子や王族などそれぞれの国から名代が参列します。その中には後年,度々お会いする,当時皇太子や王弟でいらしたノルウェー国王,ベルギー国王,ルクセンブルク大公もいらっしゃいました。戴(たい)冠式参列後,欧州諸国を訪ね,ベルギー,オランダ,デンマーク,ノルウェー,スウェーデンで,国王や女王にお目にかかりました。特にベルギーではお住まいのラーケン宮に二晩泊めていただき,私より三つ年上のボードワン国王の手厚いおもてなしを頂きました。そのようなことからその後も欧州やアフリカを訪問する機会には,当時皇太子妃であった皇后とともに,時差調節もかねてラーケン宮に泊めていただき,何回か両陛下とお話する機会を持ちました。あるときは国王王妃両陛下が,オランダのベアトリックス女王ご夫妻をご一緒に招いてくださり,楽しい一夜を過ごしたこともありました。



 各国で王室の制度は異なっており,スウェーデンのように,近年にいたって,日本に最も近い憲法を持ち,国王が国政にほとんどかかわることのなくなった国もあれば,隣のノルウェーのように毎週国王主宰の下に閣議が開かれる国もあります。そのスウェーデンも私が初めて訪問したときには現国王の祖父に当たられるグスタフ六世の下で閣議が開かれていたということを聞いております。



 このように国によって制度も王室の在り方も異なり,また,歴史に伴う変遷も見られますが,国民の幸せを願い,力を尽くしていくという点では日本の皇室も欧州の王室も一致しており,様々なことで共感を覚えます。私は日本の皇室については過去の日本を振り返り,私どもがこれまでに経験してきたことを基に,国民と心を共にすることを念頭に置きつつ,望ましい在り方を求めていきたいと思っています。



皇后陛下 欧州の王室に限らず,アジアや中東の王室も含め,各国王室とのご交際からは,これまでたくさんのことを学んでまいりました。それらのことは,私の考え方や生き方に,ある種の巾(はば)を加えてきたと思いますが,こうした恩恵にも増して,私がいつも自分の大きな喜びとし,大切にしてきたのは,世界各地の王室の方々の,永年にわたるご友情そのものではないかと思っております。



 今,親しい王室の方々の多くが,現代の激しく移り変わる社会の中で,王制がそれぞれの国の好ましい発展に,どのように寄与していけるかを真剣に考えておられます。こうした意味で,私どもは,離れ離れに暮らしていても,同じ目標に向かって生きており,その同じ志の中で,お互いを支え合い,励まし合っているように感じております。



 今の質問にあった「皇室の今後にとり,参考になること」と申しますのが,皇室制度や組織のことを指しているとすると,私の答えは,少しはずれたお答えをしてしまったかもしれませんが,私にとっての王室,皇室間のお付き合いについての気持ちのみ,述べさせていただきました。



 各国の王室や皇室がそれぞれの社会において成熟し,国民の中により深く内在し,国の安定に寄与していくことができ,お互いに更にふさわしい同志として,友情の質を高め合っていくことができればと願っています。




(在日外国報道協会代表質問)



問4 天皇陛下にお伺いいたします。ご存じの通り,世界の人々は天皇皇后両陛下,及び皇族の方々の日々お過ごしされておられる生活環境に対し,非常に高い関心を持っています。しかしながら現在の状況,つまり我々外国メディアは天皇皇后両陛下,及び皇族の方々の外国ご訪問の際の記者会見のみ参加できる機会しか与えられておりません。外国メディアと接する機会を更に多く増やされるというお考えはいかがでしょうか。



天皇陛下 皇室の活動について,事実に基づいた正しい報道がなされることは,極めて大切なことだと思います。



 ただ,メディアとの関係については,国によって様々な習慣や考え方があり,この問題は,それらを踏まえて,宮内庁が扱っていますので,私からこれ以上触れることは控えたいと思います。




問5 天皇陛下にお伺いいたします。読売新聞の調査によると学生の過半数は国歌斉唱と国旗掲揚には興味がありません。昨年の秋には天皇陛下ご自身が国歌斉唱と国旗掲揚についてご発言を述べられました。学校でこれらのことを強制的にさせることはどうお考えでしょうか。



天皇陛下 世界の国々が国旗,国歌を持っており,国旗,国歌を重んじることを学校で教えることは大切なことだと思います。



 国旗,国歌は国を象徴するものと考えられ,それらに対する国民の気持ちが大事にされなければなりません。



 オリンピックでは優勝選手が日章旗を持ってウィニングランをする姿が見られます。選手の喜びの表情の中には,強制された姿はありません。国旗,国歌については,国民一人一人の中で考えられていくことが望ましいと考えます。




(関連質問)



問1 20年振りに今回ノルウェー,アイルランドをご訪問されることになると思うのですが,先ほどお話の中にもございましたが,アイルランドのタラの丘を前回訪れられた際には,ちょっとしたハプニングなどもあったかと思うんですが,そういった前回のご訪問の思い出で特に両陛下でお話になっていることがあれば。また,この間ノルウェーのホーコン摂政殿下がお見えになったと思うのですが,そのときに今回のご訪問について何か具体的にお話になったようなことがございましたら是非お教えいただければと存じます。



天皇陛下 今タラの話が出ましたけれども,今日の質問へのお答えにも二人ともタラを挙げたように,それぞれタラへの訪問は思い出深いものがありました。ただ,あのときは雨の後だったと思いますけれども,そこで転んでしまったのでそれが今のハプニングということになったんではないかと思います。



 ノルウェーの皇太子殿下とのお話ということですが,まずやはり,国王陛下のご健康のお話を伺いました。それから,皇太子殿下がどのようなことを今なさっているかということもお話を伺いました。先ほど,ノルウェーでは国王が閣議を主宰するということに触れましたけれども,これもそのときのお話に出たことで,帰るとすぐ閣議に出なければならないということを言ってらっしゃいました。