第二次大戦が終わりに近づく60年前の4月は、その後の世界のありようを左右するような節目となった。米国のルーズベルト大統領が12日に急死してトルーマンが後を継いだ。湘南の鎌倉に住む作家?大佛次郎は13日、「ルーズベルトのともらい合戦のつもりにや夜半大襲す」と記した(『大佛次郎敗戦日記』草思社)。

 ドイツを追いつめる米軍とソ連軍がエルベ川で出会う「エルベの誓い」は25日だった。その日の日記にはこうある。「伯林(ベルリン)は両断されたと報道せられる……残った興味はヒットラーがどうなるかである」

 28日、イタリアのムソリーニが処刑される。その数日前、ヒトラーはこの盟友あてに打電したという。「生存か滅亡かの戦いは、頂点に達した……いかに戦いが苛酷であろうとも、あえて死を恐れぬドイツ国民と同様の決意を持つ同盟国民は、事態の打開のために邁進するであろう」(児島襄『第二次世界大戦』小学館)。

 もう一つの同盟国日本では、1日に米軍が沖縄本島に上陸し地上戦が続いていた。小磯国昭内閣が総辞職して、鈴木貫太郎内閣となる。

 「ムッソリニが殺害せられミラノの広場にさらされし由。新聞には遠慮して出してないが逆吊りにしてモッブの陵辱にまかせたそうである。伯林も殆ど陥落。ヒトラーも死んだらしい」。日記の日付は5月1日、ヒトラーの自殺の翌日だった。

 「エルベの誓い」から60年を記念する式が、25日に米アーリントン国立墓地であった。あのソ連は今はなく、九つの国の代表が献花したという。