半世紀ほど前の街の情景だから、失われて久しいのかもしれない。しかし、まだどこかに残っていそうな気もするのが、三好達治が書いた子供の声の話である。

 「毎朝向いの家で元気な子供の声がきこえる。食事がすむと『いって参りまあす』というのが聞える」。昼になれば「ただいまあ」が、手にとるように聞こえる。露地一つを隔てて隣接しているからで、親しいつきあいはなくとも様子が分かる。宏壮な邸宅に居ては、この風味は味わえない。「私には大厦(たいか)高楼に住まいたい希望はない」(『月の十日』講談社文芸文庫)。

 現代風の大厦高楼とも言える高層マンションの27階から、植木鉢を載せる籐(とう)製の台二つが降ってきたという。大阪府警は、高さ77メートルの自宅のベランダから投げ落としたとの殺人未遂の疑いで、大阪市内の78歳の住人を逮捕、送検した。

 「ベランダの掃除をしていたら台につまずき、腹が立ったので投げた」と供述したというが、一つは自転車に乗っていた女性の前髪をかすめた。落ちた台はひびが入って変形していた。こんな「命拾い」はたまらない。

 塔のような高層の建物に上って感じるのは「近景の欠如」だ。地上のものは、遠景になってしまう。樹木は見えても枝は見えない。人は見えても顔は見えないし、声も届かない。

 こうした地上からの隔絶感をむしろ楽しみ、地面の近くでは得難い見晴らしを味わう人も多いのだろう。高さは、日本の暮らしに新しい形をもたらしたが、ありふれた物を、いつでも一瞬のうちに凶器に変える力をも備えている。