Archive for 6月, 2005

 国会の「乱闘手当」が廃止されるという。国会開会中に「勤労の強度が著しい事務」に従事した職員に支給する「国会特別手当」である。支給が決まったのは、日米安保条約の改定で与野党が激しく対立する60年の6月だった。

 そのころは、改定反対のデモが何度も国会を取り巻いていた。そして15日の夜、南通用門から構内に入ったデモ隊の中にいた樺美智子さんが、警官隊との衝突の中で死亡した。東大4年で、22歳だった。

 樺さんの母光子さんは「週刊朝日」に手記「遠く離れてしまった星」を寄せた。「私はしみじみ、あなたにいったものでした……『学生でありながら、勉強をギセイにするのは、いくらなんだってもったいないじゃないの』『そうだわ。でも私たち以外のだれもやってくれない以上、仕方ないじゃないの』」

 「朝日ジャーナル」には、警棒で打たれて頭にけがをしたという学生の手記「その夜の記憶」が載った。「ぼくは受けた傷が一生なおらず、痕跡を残してほしいと願うのです」

 45年後のきのう、国会の周辺を歩いた。議事堂の前の通りを、修学旅行らしい中学生を乗せたバスが行き交う。雨にぬれたイチョウが、細長い緑の傘のように連なっている。西田佐知子が歌い、「60年安保の挽歌(ばんか)」ともいわれた「アカシアの雨がやむとき」が聞こえてきそうだった。

 樺光子編『友へ/樺美智子の手紙』(三一書房)に収められた追悼文の一編に、こんな言葉が引かれている。「死者はわれわれを戒める」。ベルリンの墓地の記念碑に記されているという。

 〈泥いろの山椒魚(さんしょううお)は生きんとし見つつしをればしづかなるかも〉。斎藤茂吉の歌集「赤光」の中の一首である。両生類のサンショウウオは夜行性で、水中にひっそりと暮らしている。

 鳴くこともない静かなサンショウウオが、川の堰(せき)を懸命にはい上がろうとしているという。兵庫県豊岡市の出石(いずし)川でのことだ。ある夜は、体長40~70センチぐらいのオオサンショウウオ10匹ほどが、高さ約1?5メートルの堰のすぐ下に居たという。

 流れに逆らうように短い手足を動かし、時には立ち上がるようにして堰にはりつくが、長くは続かない。姿形も独特な、国の特別天然記念物の「生きた化石」が、力を尽くして「生きん」としているかのようだ。

 県では200匹以上のオオサンショウウオを確認した。周辺では、改修工事が予定されている。近く、池や養殖場のようなところに保護するという。

 この両生類最大の生き物を西欧に紹介したのは、シーボルトだった。オランダ商館長が江戸幕府を表敬するのに随行した際、鈴鹿峠の辺りでオオサンショウウオを手に入れた。江戸へ行き、長崎へ戻り、海路オランダまで生きたまま運んだという。合わせて4年以上も飼っていた(小原二郎『大山椒魚』どうぶつ社)。

 「山椒魚は悲しんだ」は、井伏鱒二の「山椒魚」の書き出しだ。岩屋の出入り口より頭が大きくなって閉じこめられた山椒魚の物語には「ああ寒いほど独りぼっちだ!」の一句もある。独特のユーモアと哀感のこもる作品だが、出石川の方では、「山椒魚は喜んだ」となってほしい。

 精肉店で国産牛の売り場が日に日に狭くなっている。高くて品数も乏しい。代わりに豚肉が領土を広げる。しゃぶしゃぶでもカレーでも最近は豚肉を使う人が多い。

 牛海綿状脳症(BSE)の発生で、米産牛の輸入が止まって1年半になる。国産牛の値段は上がり続け、農水省の週ごとの調査で今月初め、最高値になった。冷蔵ロース100グラムの小売値が全国平均で704円だった。食用牛の歴史に残る高値かもしれない。

 日本の牛肉史をさかのぼれば、白鳳から幕末まで千年を超す空白期がある。「牛馬犬猿鶏を食うなかれ」。天武天皇が勅命を出して以降、肉食は次第に禁忌とされていく。

 日本を訪れた外国人は、肉のない食事に困り果てた。鯖田豊之氏の『肉食の思想』(中公新書)によると、宣教師ザビエルは「日本では家畜を食べないから口腹が満足しない」と嘆いた。幕末の米総領事ハリスの日記にも、牛肉を食べられない切なさが随所に出てくる。

 肉食の禁制が解かれたのは明治に入ってからだ。維新政府が盛んに勧めたが、庶民はなかなか踏み切れない。かしわ手を打ち、経文を唱えて牛肉にハシをつけた人々もいた。牛鍋の流行をへて、牛肉は食文化に地歩を築いていく。

 米国でBSEの疑いのある2頭目の牛が見つかった。大統領や国務長官が口をそろえて「米産牛はもう安全」などと輸入再開を迫ったはずなのに。米国の強引さにはへきえきする。牛丼屋に牛丼がなく牛タン店に牛タンがないのは寂しいが、やはり安全本位で行きたい。牛の歩みと言われようと。

 街の至る所に、飲み物の自動販売機が立っている。品物はペットボトル入りが増えたようだが、缶や紙パック入りのほかに、ガラス瓶のものもある。

 山口県の光高校の教室で炸裂(さくれつ)した爆発物は、大人の手のひら大で、清涼飲料のガラス瓶に、花火の火薬やクギなどを詰めたものだったという。逮捕された高校3年の男子生徒が、どこで入手したのかは分からないが、身近な品物が使われたようだ。

 爆発物の作り方は、インターネット上のホームページ(HP)や掲示板に相当流布している。男子生徒も、HPを参考にしながら、市販の花火をほぐして瓶に詰めたことを認めているという。

 人が、何か「良くないこと」を考えたとする。次に、可能かどうかや方法を夢想するかもしれない。しかし、ほとんどの場合は、それまでで終わり、実行は踏みとどまるだろう。それによって、この世の中は保たれている。

 しかし、中には実行する方へと傾く場合もある。爆弾のようなものに心ひかれている時に作り方を知れば、まねをすることは十分考えられる。世界に張り巡らされたインターネットは、人を犯罪に導き、そそのかすような陰湿な面を備えている。

 梶井基次郎の「檸檬(れもん)」には、時限爆弾に見立てた檸檬を、書店の棚の本の上に置いて立ち去る場面があった。檸檬は、読み手の想像の中で炸裂し、鮮烈な印象を残す。今回、なぜ炸裂が現実の中で起きてしまったのか。踏みとどまらせる機会はなかったのだろうか。社会全体に突きつけられた問題として、丁寧に跡付けてゆきたい。

 霧雨の中を歩く。傘をさすほどではない。限りなく細かい雨粒が緩やかに吹きつけてくるのが心地よい。関東や九州北部などが、昨日梅雨入りした。傘の花咲く季節が始まる。

 「愚か者だけが人に貸すというものが三つある。また、貸したものが返してもらえると思ったら、これほど愚かなことはない。それは、本、傘、金だ」。英国のユーモア作家、ダグラス?ジェロルドの言葉という(T?S?クローフォード『アンブレラ』八坂書房)。

 「名前を思い出せないが、どういう物かは言える。他人が持っていく物だ」。米国の思想家ラルフ?エマソンが「言葉の記憶があやしくなり始めたころ」に言ったという。被害が度重なったのか。こんなふうに言い換える人がいるかも知れない。「名前を思い出せないが、それを無くしたくなければ、決して家の外に持ち出してはいけない物だ」

 傘は小さな別世界をつくる。「夜目遠目笠の内」という。傘もまた、その下の淡い影で人をぼんやりと包む。

 絵や文学にも数多く登場してきた。6月11日を「傘の日」とする日本洋傘振興協議会の広報紙が、荷風の「ぼく東綺譚」を取り上げている。「わたくしは多年の習慣で、傘を持たずに門を出ることは滅多にない」。そんな男の傘に、「そこまで入れてってよ」と言いつつ、女が首を突っ込んでくる。梅雨の日の情景だ。

 霧雨は、いつか本降りとなった。街の並木にふりかかる。柳が一本、ぬれそぼって立っている。柳は春の季語だが、ふと、芭蕉の一句が思い浮かんだ。傘(からかさ)に押わけみたる柳かな

 本名は、アルトゥール?アントゥネス?コインブラという。そのアルトゥールがアルトゥジーニョになり、アルトゥズィーコが簡略化されてズィーコ(Zico)になった。後に世界中に知れ渡るこの愛称を付けたのは従姉妹(いとこ)リンダだった(『ジーコ自伝 「神様」と呼ばれて』朝日新聞社)。

 監督?ジーコの声が、タイ?バンコクのスタジアムに響いた。からっぽの白いスタンドに囲まれた異様な無観客試合を見事に制して、日本代表が帰国した。

 サッカー?ワールドカップ(W杯)出場を決め、ジーコ監督は「日本に恩返ししたいと思っていた。それが出来て感激でいっぱい」と述べた。一時は、監督の進退を問う声もあがった。就任から1千余日、力を尽くし、ついに期待された結果を得たという思いが強いのだろう。

 時に、印象的な言葉を残す人だ。「我々がスポーツをしているのと同じ時間に、人が殺し合い、幼い子どもが命を落としていることを思うと非常にやりきれない」。一昨年3月、イラク戦争の開戦後に語った。「私はブラジルという平和な国で育ち、愛の大切さを教えられた。戦争の当事者たちに、愛と平和についてもう一度考えてもらいたい」

 「自伝」には、こうある。「(私を)どうか過大評価しないでほしい。私はサッカーが好きで、そのサッカーを続けていくために人より努力と犠牲を惜しまなかっただけなのだから」

 ジーコ流とはそれぞれが「個」を磨き続けることのようだ。世界からドイツの空の下に集う、磨かれた「個」の競い合いが楽しみだ。

 将軍徳川家治は玄人はだしの絵を描いた。何しろ仕事は、臣下の田沼意次が一手に裁いてしまう。自身はもっぱら画業に励み、会心の作には「政事之暇」という落款を押して各方面に配った。よほど暇だったらしい。

 首都の「政事」は暇なのか、忙しいのか。石原慎太郎都知事が週に2、3日しか出勤しないと話題になっている。仕事は30年来の腹心である副知事に任せ、月曜や火曜に登庁しない週が増えた。知事の決裁を得るなら水木金というのが、都庁内では半ば常識化していた。

 1期目は違った。まめに登庁し、局務報告や会議をこなした。2期目の今は午前の公務も減った。知事の近著『老いてこそ人生』(幻冬舎)には、8時間睡眠では寝不足で能率が上がらず、次の日必ず12時間は眠るとある。朝が苦手なのかもしれない。

 都によれば、在庁しない日でも、知事は「終日庁外」で働いている。都議会では自ら「国の役所を含めて外でしかできない仕事もある」と答弁し、会見でも「毎日同じ机に座っているのが能じゃない」と述べた。

 ほかの知事はどうか。大阪府の太田房江知事は週5日ほぼ皆勤で、週末もよく登庁する。愛知県の神田真秋知事も、平日は必ず朝から出勤という。同じ作家出身の田中康夫長野県知事は、出張の多さが目立つが、登庁率は石原氏ほど低くはない。

 都知事の給与は年2796万円という。ほかに原稿料や印税収入が大きい。頼みの副知事を泣いて斬(き)るからには、今後はきっと忙しくなるだろう。登庁は週4日、いや初心に帰って週5日だろうか。

故意に仕掛けられたのか、あるいは事故でできたのか。全国各地の道路でみつかった謎の金属片は、ガードレールにぶつかった自動車の車体の一部という見方が強まっているようだ。

 衝突した形跡が無い所とか、金属片がねじこまれたような個所もあるという。従って故意説も捨てきれないが、もし金属片の多くが事故によるものとなれば、故意による犯行とはまた別の、深刻な問題が浮上する。

 金属片に気付かずに走り去ることもあるだろう。ガードレールにぶつかった後、届けを出さなければ「当て逃げ」の疑いが出てくる。運転者にけがもなく、車の損傷も小さいとなれば、届けを出さない方に流れてしまうのかも知れない。

 刃物のようなものが残っても、それで将来、運転者本人が傷つくことは、まずない。いつの日か、現場に潜む危険を知らずにさしかかる歩行者などにまでは思いが及ばず、あるいはそうなっても自分とはかかわりがないなどと、無責任な考えに陥るかも知れない。

 金属片は、全国の万を超える個所でみつかった。長く放置されていたらしく、さびたものもある。その群れは、「道路は車のもの」といった運転が横行する車社会に突きつけられた刃(やいば)のようにもみえる。

 この国には7千万台を超す車があり、日々走り回っている。道路を造り、管理し、事故を扱う部門で、路上の刃はどう扱われてきたのか。放置されてきたのはなぜか。そして車の業界では、車体の一部が刃になりうることをつかんでいなかったのだろうか。謎はそちらの方にも向いている。

 日本人が初めて世界を一周したのは、江戸後期のことだった。鎖国の時代で、旅でもなければ貿易でもなかった。

 1793年、今の宮城県の石巻から米を積んで江戸に向かった千石船?若宮丸は、嵐に遭って北へ流された。アリューシャン列島に漂着し、後に乗組員はロシアを横断することになる。そして、ロシアの船に乗せてもらい、大西洋、太平洋を航海、石巻を出てから11年後に長崎にたどり着いた。最初の乗組員16人のうち、故国の土を踏んだのは4人だけだった。

 漂流に始まる過酷な世界一周から約200年がたつ。今では、何度か世界一周を繰り返す人も少なくない。飛行機なら数日でも可能になった。しかし小さなヨットで、しかも独りだけでとなれば、今も大きな危険をはらむ冒険だ。

 単独のうえに無寄港という試みに、ふたりの日本人が相次いで成功した。ふたりとも、年齢の上では若い方ではない。6日に帰港した斉藤実さんは71歳で、単独無寄港世界一周では最高齢という。7日にゴールに入った「太平洋ひとりぼっち」の堀江謙一さんは、66歳になった。周りの支えがあるとはいえ、ふたりの元気な姿と笑顔は、人間ひとりが備えている力の大きさや勇気、不思議さを思わせる。

 堀江さんは、96年には空き缶を再利用した船体で太平洋を横断した。その時、「太平洋を渡りたいから渡った34年前と、気持ちは同じです」と述べている。

 人生は、航海になぞらえられる。そのせいか、「渡りたいから渡った」という言葉は、決然として潔く、そしてまぶしい。

 ことしも「カスタネットの季節」がやってきた。カッカッ、カッカッ。陽気に誘われるように、駅の階段や下りエスカレーターで、よく聞こえてくる。手のひらでなく、女性たちが足元で鳴らす。そう、あのわざと響かせているような靴音だ。

 涼しくて、デザインもかわいい、ミュールという突っかけが音源である。歩くたびに、いったん浮いたかかとが、着地する際にヒール部分を地面に打ちつけて鳴る。歩く姿勢や速さ、体重、ヒールの高さ、細さによって、音は高くも低くもなる。

 いかに履きやすくても、本人もうるさかろう。あまりに傍若無人ではないのか。こんなオヤジの小言を口にしたら、同僚が教えてくれた。彼女たちは「カスタネット娘」とか「カンカン女」と呼ばれているのだ、と。

 名前がつくほど広がったからだろう、あの音を防ぐ商品がよく売れている。かかとの部分に張る両面テープ状の敷物で、足の裏が靴底から離れない。いわば、カスタネットを閉じておく仕掛けだ。

 2年前から売り出した静岡市のメーカーの場合、27歳の女性社員のアイデアだった。ミュールでも走りたいと考案したら、防音効果も大きかった。いま特許出願中だ。今春から別の会社も参入している。靴の騒音は改善されるかもしれない。

 そう思って列車内を見渡すと、大声で話す「ケータイ君」もヘッドホンをつけた「シャカシャカ虫」も減った気がした。ほっとした気分で降りようとしたら、ドアの前で動かない男性がいた。まるで「お地蔵さん」だ。静かでも、乗り降りの邪魔だってば。