日本に郵便の仕組みを採り入れる時、前島密(ひそか)は、料金をどう定めるかで思い悩んだ。その折、命じられて洋行し、郵便事業は政府の独占で料金は遠近均一と知る。「其時の心持といふ者は実に清々として、是迄の迷ひも全く霽(は)れ、雲霧を出て青天を望むといふ有様であつた」(『郵便創業談』)

 そして創業2年後の1873年、明治6年に、太政官布告が出された。「量目等一ノ信書ハ里数ノ遠近ヲ問ハス国内相通シ等一ノ郵便税……」。今に続く、全国一律料金の始まりだ。

 しかし、当時は「この手紙は軽い」「届け先が近い」などといって料金を負けろと談判する者もあった。茶やたばこを要求し、断られると横着だなどとののしる手合いもいた。前島は「郵便取扱所」を一時「郵便役所」と改め、官の威力を借りたと述べている。

 「郵便局」となったのは明治8年で、身近な通信網として広がり、生き続けてきた。しかし、膨大な資金を集める世界最大の金融機関という面も問われるようになった。資金の運用にも問題は多い。

 民営化を掲げる小泉政権は、07年4月に4分社?民営化という方針を出した。支持基盤が地方にあり、郵政の組織を有力な支援団体としてきた自民党は抵抗する。郵政だけでなく、貯金、保険事業でも「全国一律サービス義務」を唱えた。

 郵便局を票の束と見ているとしたら、「一律」の創設者も嘆くだろう。何でも一律ではなく、重さ、大きさできちんと仕分けをして送り出さないと、将来の受け手が、とてつもない不足料金を背負う羽目になる。