――これまでに、誕生日に合わせて宮内記者会の質問に答えていただいてきましたが、これが最後になります。天皇家の長女として特別な立場で過ごされ、喜びや悲しみなど様々あったと思います。36年間を振り返り、心に残ることを、とっておきのエピソードを含めてお聞かせください。


ご回答


 36年間、大きな病を得たり事故にあったりすることなく元気に今日まで過ごすことができたことは、とても幸いでした。特殊な立場にあって人生を過ごしたことは、恵まれていた面も困難であった面も両方があったと思いますが、温かい家庭の中で、純粋に「子供」として過ごすことができ、多くの人々の支えを得られたことは、前の時代からは想像もつかないほど幸せなことであり、そのような中で生活できたことを深く感謝しております。一つ二つの心に残る思い出をエピソードとともに取り出してお話しするのは大変難しいことですが、やはり私にとって本当に大きかったと思えるのは、この36年を両陛下のお側(そば)で、そのお姿を拝見しながら育つことができたことではなかったかと思います。


 物心ついた頃から、いわゆる両親が共働きの生活の中にあり、国内外の旅でいらっしゃらないことが多かったということは、周囲にお世話をしてくれる人がいても、やはり時に寂しく感じることもありました。しかし、私には兄弟があり、また子供なりに両親のお務めの大切さを感じ取っていたためもあるのでしょうか、こういうものだと考えていた部分もあったように思います。考えてみますと、当時両陛下の外国ご訪問は全て各国元首が国賓として訪日したその答礼として行われていたものであり、しかも昭和天皇の外国ご訪問が難しかったため、皇太子の立場でありながら天皇としての対応を相手国に求めるご名代という極めて難しいお立場の旅でした。1回のご訪問につきイラン?エチオピア?インド?ネパールというように遠く離れた国々をまわらなければならないため、ご訪問が1ヶ月に及ぶことも、年に2回のご訪問が組まれることもあり、一度日程が決まれば、それを取りやめることは許されませんでした。同時に、国内においても日本各地の重要な行事へのご出席要望は強く、またその折には両殿下のご希望により、同年代の若い人たちとのご懇談が各地で行われるなどしていましたので、本当に大変な中でご出産と育児に当たられたのだと思います。幼い間は、もちろん両陛下のそうしたご苦労は何も分からずに、極めてのんびりと与えられた環境の中で過ごしておりましたし、両陛下は、皇族としての在り方を言い聞かせたり諭したりして教えることはなさらずに、子供時代には子供らしく自然に育つことを大事にしてくださいましたので、果たして私がいつごろ自分の特殊な環境に自覚を持つようになったのか、今思い出してもはっきりと覚えておりません。ただ、当時皇太子同妃両殿下でいらっしゃった両陛下の、お立場に対する厳しいご自覚や国民の上を思い、平和を願われるお姿、そして昭和天皇や香淳皇后に対する深い敬愛のお気持ちなどは、日常の様々なところに反映され、自然に皇族であることの意味を私に教えたように思います。何よりありがたかったのは、お忙しく制約も多かったはずのご生活の中で、両陛下がいつも明るくいてくださり、子供たちにとって、笑いがあふれる御所の日々を思い出に持つことができたことでした。


 自分の皇族としての役割や公務について、初めて具体的に深く考えるようになった時期は、高校に入った頃ではなかったかと思います。その頃には、既に成人を迎えておられた皇太子殿下はもちろんのこと、秋篠宮殿下も公務を始められ、まだ時間はあるものの、自分自身の成年皇族としての役割について漠然とした意識を持つようになっていました。日本では皇族の子供たちは、基本的に成人になるまでいわゆる公務に携わることはなく、成人してから急に公務に入るようになるため、ごく自然に様々な公務をこなされる兄宮二人のお姿を拝見しつつ、内親王としての自覚はあっても具体的な皇族としての仕事に触れたことのない私には、成人してからの全てが大変不安な時期でもありました。そのような折に両陛下とご一緒に出席した高校総合体育大会は、大変印象深いものでございました。それは、兄宮二人と同様、私にとってこれが成人するまでに両陛下と地方におけるご公務でご一緒できる唯一の機会であったからです。幼い頃からご両親陛下と離れて過ごされ、他の皇族より早い18歳で成人を迎えご公務におつきになった陛下のお時代を顧みますと、そのような機会を頂けるだけでも大きな恩恵であったと思います。しかし当時は、この機会に両陛下のお仕事の全てを吸収しなければというような、今思いますと少し笑ってしまいそうなほど、かなり切羽詰まった感じを抱きつつ高校総体に臨んだことを記憶しております。結局、高校3年間の毎年を高校総体にご一緒させていただきましたが、2年目には皇后さまがご手術後でご欠席になられたため、陛下と二人だけの旅となり、それもまた忘れがたい体験でございました。もちろん、高校総体だけで、当時皇太子同妃両殿下でいらした両陛下の日々のお務めに寄せるご姿勢が全てわかったわけではありませんでしたし、何よりも両陛下のお仕事の全般すらつかめていない時代でございましたが、ご訪問の先々で両陛下が人々に対されるご様子や細やかなお心配り、暑さの中、身じろぎもされず式典に臨まれるお姿などより、本当に多くのことを学ばせていただいたように感じております。振り返りますと、皇族としての公務はもちろんのこと宮中行事にも宮中祭祀(さいし)にも出席することのなかったこの頃は、両陛下がお忙しい日々のご公務を欠くことなくお務めになる傍らで、私たち子供たちの話に耳を傾けられ、朝には皇后さまがお弁当を作ってくださり、学校に出掛けるときにはお見送りくださるという日常が、どんなに恵まれていたかということにすら気が付いてはいなかったものです。


 昭和64年1月、昭和天皇が崩御されました。私にとって、身近な親族を失う初めての悲しみを体験しただけでなく、昭和天皇の最後の日々を心を尽くして見送られ、お後に残していかれた様々な事柄を丁寧に片づけられ、新しい御代(みよ)を引き継がれる、という両陛下の一連のご様子が深く心に残りました。そしてまだ未成年ではありましたが御大喪、ついで即位礼、大嘗祭に参列し、昭和から平成への移り変わりの儀式すべてを目の当たりにできたことは本当に貴重な体験でした。


 皇族としての最初の地方公務は、兵庫県で行われた進水式出席であり、初めて言葉を述べたのは、陛下(当時の皇太子殿下)の名代として出席した豊かな海づくり大会(茨城県)においてで、どちらも成人になる少し前のことでした。以来、様々なお仕事をさせていただきました。皇族の務めの分野は多岐に渡るので、その意味での大変さはありますが、幼い頃から両陛下が、私たち子供たちをなるべく様々な世界に触れさせてくださったことも、務めを果たす上の心強い土台になってくれました。軽井沢など私的な旅の折々に、障害児の施設につれていっていただき、子供たちと一緒に自由に遊ばせていただいたこと、沖縄豆記者の子供たちとの交流にご一緒させていただいたこと、海外の日系移住者やハンセン病の歴史を話してくださったこと、また、伊勢神宮、熱田神宮、熊野大社を始め各地の神社参拝のため、皇后さまと二人だけの旅を行ったことなどが、子供の記憶としてではありますが私の意識にとどまり、後々、公務や宮中祭祀などに当たる折の備えになってくれたのではないかと感じております。


 国内外の務めや宮中の行事を果たす中には、失敗も後悔もあり、未熟なために力が尽くせなかったと思ったことも多々ありました。また、以前にも述べましたが、目に見える「成果」という形ではかることのできない皇族の仕事においては、自分に課するノルマやその標準をいくらでも下げてしまえる怖さも実感され、いつも行事に出席することだけに終始してしまわないよう自分に言い聞かせてきたように思います。どの公務も、それぞれを通して様々な世界に触れ、そこにかかわる人々の努力や願いを知る機会を得たことは新鮮な喜びと学びの時でした。また、第一回目から携わることになったボランティアフェスティバルや海洋文学大賞を始め、幾つかの行事が育ち、また実り多く継続されていく過程に立ち会うことができたのは幸せであり、そうしたものは、訪問しご縁があった国々と同様、この先も心のどこかに掛かるものとしてあり続けるのだろうと思います。


 両陛下のお姿から学んだことは、悲しみの折にもありました。事実に基づかない多くの批判にさらされ、平成5年ご誕辰(たんしん)の朝、皇后さまは耐え難いお疲れとお悲しみの中で倒れられ、言葉を失われました。言葉が出ないというどれほどにか辛く不安な状態の中で、皇后さまはご公務を続けられ、変わらずに人々と接しておられました。当時のことは私にとり、まだ言葉でまとめられない思いがございますが、振り返ると、暗い井戸の中にいたようなあの日々のこと自体よりも、誰を責めることなくご自分の弱さを省みられながら、ひたすらに生きておられた皇后さまのご様子が浮かび、胸が痛みます。


 私が日ごろからとても強く感じているのは、皇后さまの人に対する根本的な信頼感と、他者を理解しようと思うお心です。皇后さまが経てこられた道には沢山の悲しみがあり、そうした多くは、誰に頼ることなくご自身で癒やされるしかないものもあったと思いますし、口にはされませんが、未だに癒えない傷みも持っておられるのではないかと感じられることもあります。そのようなことを経てこられても、皇后さまが常に人々に対して開けたお心と信頼感を失われないことを、時に不思議にも感じていました。近年、ご公務の先々で、あるいは葉山などのご静養先で、お迎えする人々とお話になっているお姿を拝見しながら、以前皇后さまが「人は一人一人自分の人生を生きているので、他人がそれを充分に理解したり、手助けしたりできない部分を芯(しん)に持って生活していると思う。???そうした部分に立ち入るというのではなくて、そうやって皆が生きているのだという、そういう事実をいつも心にとめて人にお会いするようにしています。誰もが弱い自分というものを恥ずかしく思いながら、それでも絶望しないで生きている。そうした姿をお互いに認め合いながら、懐かしみ合い、励まし合っていくことができれば???」とおっしゃったお言葉がよく心に浮かびます。沈黙の中で過去の全てを受け入れてこられた皇后さまのお心は、娘である私にもはかりがたく、一通りの言葉で表すべきものではないのでしょう。でも、どのような人の傍らにあっても穏やかに温かくおられる皇后さまのお心の中に、このお言葉がいつも息づいていることを私は感じております。36年という両陛下のお側で過ごさせていただいた月日をもってしても、どれだけ両陛下のお立場の厳しさやお務めの現実を理解できたかはわかりません。他に替わるもののないお立場の孤独を思うときもありますが、大変な日々の中で、陛下がたゆまれることなく歩まれるお姿、皇后さまが喜びをもってお務めにも家庭にも向かわれていたお姿は、私がこの立場を離れた後も、ずっと私の心に残り、これからの日々を支える大きな力になってくれると思います。そうした両陛下との日々に恵まれた幸せを、今深く感謝しております。