60年前の今ごろ、岡本喜八郎さんは21歳だった。4月、愛知?豊橋の陸軍予備士官学校でB29に爆撃される。地獄絵のような惨状の中で、仲間の青年たちが死ぬ。やがて米軍の上陸に水際で備える遊撃隊要員となり、対戦車肉迫攻撃の訓練に明け暮れた。

 終戦の日、放送を聞く。「唖然(あぜん)。ある日突然、戦争が始まり、ある日突然、戦争が終る。茫然(ぼうぜん)。……一体、何があって、戦争が終わったんだ」。後年、青年は映画監督?岡本喜八として、この一日を描いた「日本のいちばん長い日」を撮る。

 昨日、惜しくも亡くなった岡本さんの作品の幅は相当広かった。面白くて躍動的だが、その底には、体験に裏打ちされた戦争と国家への厳しい視線があった。政府や軍の動きを追った「いちばん長い日」にあきたらず、「肉弾」では、魚雷をくくりつけたドラム缶で敵艦を狙う青年に自分を重ねて描いた。

 「なかなか寝つけない晩に、きまって戦争の夢をみるんです」と語ったのは10年ほど前だ。自分が銃や手榴弾(しゅりゅうだん)を手に人を殺そうとしている。はっとして目覚める。ぶるぶるっと震え「ああ、殺さなくてよかった」と思う。

 還暦の時に書いた自伝は『鈍行列車キハ60』(佼成出版社)。「キハは……型式記号である。このキハのハは、ハチと読めない事もない」。特急や急行ではなく、鈍行という思いを、鶴見俊輔さんは「あの戦争でなくなった三百万人と一緒に動いている故に早くは走れないのだ」と評した。

 戦後が「還暦」を迎えた年に、岡本さんは「キハ81」となって旅立っていった。