ポーランドの古都クラクフは、中世の町並みを今もなお色濃く残している。後にローマ法王ヨハネ?パウロ2世となるカロル?ボイチワは、クラクフ郊外の町バドビツェで生まれた。

 近くには、後に強制収容所がつくられたアウシュビッツがある。数年前、クラクフを流れるビスワ川のほとりに立って、三つの町の位置関係と法王の人生に、運命的なつながりを感じた。

 ナチス?ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まった時、カロルは哲学科の学生だった。独軍によって大学は閉鎖される。ドイツで強制労働をさせられる国外追放を避けるため、クラクフ郊外の石切り場で働いた。

 「聞いてごらん。ハンマーが規則正しく石を打つ音を……ある想いが私の内で育って行く。仕事の真の価値は、人間の内面にあるのではないだろうかと」。自作の詩について、法王は後年、「当時の異常な体験がなかなか適切に表現されている」と自伝『怒涛に立つ』(エンデルレ書店)で述べている。

 やがて地下活動で神学を学び、司祭になり、クラクフ大司教を務めた。法王としては、故国で民主化を求める「連帯」を励まし、教会が封印してきたことを謝罪し、イラク戦争に反対した。歴史と平和についての明確な発言と行動が際だっていた。

 10年前、バチカンで法王と握手する機会があった。若き日にハンマーを握ったかもしれない手には、厚みがあった。「戦争は人間のしわざです。戦争は死そのものです」。81年に広島で発した言葉が、その手から伝わってくるようだった。