国会の「乱闘手当」が廃止されるという。国会開会中に「勤労の強度が著しい事務」に従事した職員に支給する「国会特別手当」である。支給が決まったのは、日米安保条約の改定で与野党が激しく対立する60年の6月だった。

 そのころは、改定反対のデモが何度も国会を取り巻いていた。そして15日の夜、南通用門から構内に入ったデモ隊の中にいた樺美智子さんが、警官隊との衝突の中で死亡した。東大4年で、22歳だった。

 樺さんの母光子さんは「週刊朝日」に手記「遠く離れてしまった星」を寄せた。「私はしみじみ、あなたにいったものでした……『学生でありながら、勉強をギセイにするのは、いくらなんだってもったいないじゃないの』『そうだわ。でも私たち以外のだれもやってくれない以上、仕方ないじゃないの』」

 「朝日ジャーナル」には、警棒で打たれて頭にけがをしたという学生の手記「その夜の記憶」が載った。「ぼくは受けた傷が一生なおらず、痕跡を残してほしいと願うのです」

 45年後のきのう、国会の周辺を歩いた。議事堂の前の通りを、修学旅行らしい中学生を乗せたバスが行き交う。雨にぬれたイチョウが、細長い緑の傘のように連なっている。西田佐知子が歌い、「60年安保の挽歌(ばんか)」ともいわれた「アカシアの雨がやむとき」が聞こえてきそうだった。

 樺光子編『友へ/樺美智子の手紙』(三一書房)に収められた追悼文の一編に、こんな言葉が引かれている。「死者はわれわれを戒める」。ベルリンの墓地の記念碑に記されているという。