「ある時、息子の洋服のお古を、千葉に住んでいた弟の息子に送ってあげようと思った。ところが、運輸業の社長である自分に送る手段がない」。元ヤマト運輸社長、小倉昌男さんは、「宅急便」を思いついたヒントのひとつを、そう記している(「私の履歴書」日本経済新聞)。

 国鉄小荷物や郵便小包ぐらいしかない頃で、家庭の主婦は不便な思いをしているはずだと思った。「それまで運送会社といえば荒くれ男のイメージが強く、主婦は業界から最も縁遠い存在だったが、実は大いなる潜在顧客だと気づいた」

 生活感に根ざした発想と強い指導力で、小口輸送の新時代を築いた。このアイデア豊かな開拓者は、骨っぽさでも知られる。路線免許の申請を何年も許可しなかった旧運輸省を相手に行政訴訟を起こした。

 創業者の父から江戸っ子の町人気質を受け継いだ。「二本差しが怖くておでんが食えるか」。そんな侍を恐れない意気が、官僚との闘いの支えになったという。

 21世紀が近づいた98年の元日、本紙は、各界の人たちの俳句による特集「21世紀を詠む」を載せた。〈初日の出車椅子寄せ接吻す〉。この小倉さんの句に添え書きがある。「日本は障害者が住み難い国です。21世紀は、ノーマライゼーションを実現したいものです」。私財を提供して福祉財団をつくり、障害者の自立実現のために尽力した。

 〈ほととぎす去りにし静寂(しじま)旅果つる〉。会長職を退いた時の作だ。惜しくも人生の旅は80年で終わったが、その気概や福祉へのまなざしは長く継がれてゆくだろう。