幕末の志士、高杉晋作は何かと仲間に血判を求めた。「夷狄(いてき)を討つ」と江戸で御楯(みたて)組を結成した時には二十数人が血盟に応じた。なのに京都で将軍暗殺の同志を募ると1人しか応じない。高杉の呼びかけでも、企てがむちゃならそっぽを向かれたようだ。

 郵政法案をめぐる血判の動きが報じられている。民営化に反対の自民党議員たちが結束を固めるため、誓紙に名を連ね、血の判を押したと。本当なら、何とも時代がかった話ではないか。

 発案したと伝えられる亀井久興衆院議員に尋ねた。「たしかに私が誓紙を用意した。同じ意見の衆院議員に署名を頼んだが、血判はお願いしてませんよ」。応じたのは約20人で、採決では全員が誓い通り反対票を投じた。牛王(ごおう)宝印と呼ばれる熊野神社発行の誓紙を使ったそうだ。

 熊野信仰では、牛王宝印の誓いを破ると血を吐いて死ぬと伝えられる。『吾妻鏡』には、義経が頼朝に忠心を訴えた手紙は牛王宝印に書かれたとある。赤穂浪士が復仇(ふっきゅう)の誓いに使ったのもやはり牛王宝印だった。神罰覚悟の連判状など講談の世界だけかと思っていたが、政界では今でも立派に通用するらしい。

 誓文に署名する習わしは平安時代にさかのぼる。戦国の世に裏切りが相次ぎ、署名だけでは安心できなくなった。それで血判が重みを増す。徳川幕府も忠誠の血判をしばしば諸大名に出させている(石井良助『はん』学生社)。

 参院自民党でも、血判や連判の動きがあると聞く。切り崩しや寝返りをにらみつつ、票を読む声がセミのごとくかまびすしいこの夏である。