旧内務官僚出身で、自民党衆院議員として、副総理や官房長官などを務め、晩年は「政界のご意見番」として知られた後藤田正晴(ごとうだ?まさはる)氏が19日、肺炎のため死去した。91歳。近親者で21日に密葬を済ませた。喪主は妻侑子(ゆうこ)さん。22日から30日までの午前10時~午後4時、東京都文京区後楽1の5の3の財団法人日中友好会館で弔問を受け付ける。

 徳島県出身。1939年に東大を卒業して内務省に入り、69年に警察庁長官に就任。長官時代には、70年安保闘争や過激派の爆弾テロ行動の対策に力を入れた。

 72年には当時の田中角栄首相に請われて官房副長官に就任。76年、衆院選徳島全県区で初当選し、計7回当選した。

 政界入り後は、旧内務官僚出身で各省庁ににらみを利かす実力が評価され、歴代首相から頼りにされた。「田中氏の懐刀」「カミソリ」などの異名をとった。79年の大平内閣で自治相、82年の中曽根内閣で官房長官、83年に行政管理庁長官、84年に総務庁長官、85年には再度官房長官に就いた。

 中曽根首相が「戦後政治の総決算」を掲げるなかで行った「防衛費のGNP(国民総生産)1%枠の突破」などに対しては、内側から歯止めをかける役目を果たした。87年9月、ペルシャ湾の安全航行の寄与策として中曽根氏が掃海艇派遣を言い出した際には、首相執務室で怒鳴りあってまで反対したというエピソードも。

 政界を揺るがし、竹下内閣の崩壊につながったリクルート事件後には、自民党政治改革委員長として、派閥や族議員が幅を利かす党の体質改善を柱とした「政治改革大綱」をまとめた。

 92年に成立した国連平和維持活動(PKO)協力法をめぐり、自民党内で論議が行われていた91年秋には、「部隊における正当防衛は憲法で禁じる武力行使にあたらないのか。この法案はガラス細工のようで危ない。歯止めが必要だ」と懸念を表明するなど、護憲の論客として知られた。

 92年の宮沢内閣では法相、93年に副総理を兼務した。

 96年の政界引退後も率直な政治評論で知られ、今年7月の朝日新聞紙上ではインタビューに答え、「首相は靖国神社参拝を控えるのが当然だ」「米国のそばにいれば安心だというのはひとつの選択だが、中国や韓国を敵に回していいはずがない」などと語っていた。

 後藤田氏の事務所は21日、「故人の強い遺志によるものであった事をご理解いただき、お知らせの遅れましたことを深くおわび申し上げます」との談話を出すとともに、「お別れの会」を東京と徳島で行う予定と発表した。



来源: 《朝日新闻》