家の薬箱に、タミフルがある。今年初め、家族がインフルエンザにかかった折に処方された残りだ。淡い黄色の小さなカプセルがこれほどまでに世界の注目を浴びるとは思っていなかった。

 スイスのロシュ社が独占供給する薬である。新型インフルエンザが懸念される中、事実上ただ一つ有効な内服薬として各国が備蓄に乗り出し、テレビや新聞が連日取り上げている。

 英紙は、「効能も品質も同じ薬を量産するには3年かかる」というロシュ社の主張を伝えた。台湾では「わずか18日でタミフルの開発に成功」と報じられた。「特許など構わず、独自に作れ」と訴える声は途上国に多い。

 あおりで、中華料理の香辛料でおなじみの八角という実が、産地の中国で高騰している。タミフルの合成に必要なシキミ酸が八角から抽出されると報道され、秋から出荷が急増した。ただし八角をそのまま食べても予防には役立たない。

 前世紀で最悪のインフルエンザは、1918年のスペインかぜだ。世界の人口の半数が感染した。当時の本紙には「感冒猛烈、東京で死亡千三百」「薬の本場ドイツから輸入届かず」などの記事がみえる。実効散、消熱散、守妙といった名の薬の広告も目立つ。在庫不足で値上がりした薬があれば、副作用の訴えから細菌混入がわかって販売を禁止された薬もある。

 以来80余年、医学はめざましく進歩したはずなのに、世界的な大流行への備えはあまり進歩していないようにみえる。たった一社の一つの薬に、人類の命運を背負わせるような方策しかないのだろうか。