今からふた昔前、東京都内のある大学の教授が、授業の出席率の悪さに業を煮やして、こんな試験問題を出した。問題用紙には教授を含む数人の顔写真が刷られ、「私はどれでしょう」

 翌年、学生の間に出回ったノートのコピーに教授の写真が添えられていたのは、言うまでもない。授業に出ない学生にも言い分があった。毎年、すこしも変わらぬ単調な授業だったのだ。かつては自分の好きなテーマだけを延々と講義して、学生の興味や関心を顧みない大学教員が多かった。

 昨今は、どうも風潮が変わったようだ。某国立大が教員に配っている授業のやり方ハンドブックを見ると、次のように書いてある。ユーモアを交えて学生の興味をかきたてる。1回ごとの講義を読みきりでまとまったものにする。ビデオなどの映像に訴える。

 毎回の授業の概要をプリントして配るのは常識だという。授業内容も、様変わりだ。政治学を例にとると、かつてはルソーの「社会契約論」などの古典を読んだり、欧州議会史などをこまごまと講義したりしていたが、今は郵政民営化などの現在の問題を使ったり、現職の日本の政治家を研究する授業もある。

 ところがおもしろいもので、学生の間ではこんな意見も聞いた。「現代は情報があふれて、どれを読み、何を信じるべきか迷う時代。授業が現代の素材を扱うとその延長のような気がしてしまう。むしろ古典を読みたい」

 いつの時代も、学生の不満の種は尽きないと言うべきか、何事も配合とバランスが難しいというべきなのか。考えさせられる。