小枝の先に、ほんのり白いものが見えた。濃い紅のつぼみがほどけて生まれたばかりの、ひとひらの桜だった。

 開花した範囲を示す曲線が日ごとに広がるこの時節に、新しい年度は始まる。今日からは、これまでとは違った土地や職場、学校で生活を始める人たちも多い。列島の各地で、様々な期待や希望、そして不安が行き交っている。

 「枕草子」に「あたらしうまゐりたる人々」というくだりがある。今日は、多くの「新しう参りたる人々」にとっても、それを受け入れる側の人にとっても、記憶に残る一日になるだろう。

 毎年4月1日ごろ、作家?山口瞳さんの文章が広告の形で新聞に載った時期がある。新社会人への、はなむけの言葉がつづられていた。当方は、すでに旧人の部類だったが、夜の止まり木で先輩に語りかけられているような懐かしさを覚えることがあった。

 「踏み込め、踏み込め! 失敗を怖れるな!」「此の世は積み重ねであるに過ぎない」「諸君! この人生、大変なんだ」「会社勤めで何がものを言うのかと問われるとき、僕は、いま、少しも逡巡することなく『それは誠意です』と答えている」

 これは、新人に向けた形をとってはいるが、勤め人全体への励ましとも読める。新しい年度の初めごとに、山口さんは自らの時間を巻き戻し、自省しながら世の「江分利満氏」を励ましていたように思われる。それが旧人の胸にも響いた。95年春は「一に忍耐、二に我慢、三四がなくて五に辛抱」。その夏に、山口さんは亡くなった。今年で10年になる。