「大江(だいこう)に歌罷(や)めて 頭(こうべ)を掉(ふ)って東し……」。後に中国首相となる周恩来が「揚子江に歌うのをやめ、意を決して東の日本に向かい」と詠んで国を出たのは1917年、19歳の秋だった。

 翌春、東京高等師範学校を受験したが落ちる。気晴らしにでかけた日比谷公園で、ふたりの小学生の女の子が草花を植えながら遊んでいる姿に接して感動した。「中国人は口を開けば『東洋(日本)は襤褸(ぼろ)の邦』というが、よく考えれば、日本がどうして襤褸であろう」(『周恩来 十九歳の東京日記』小学館文庫)。

 故国で聞いた日本と直接触れた日本とは違っていた。この若い日の「発見」は長く心に残ったのではないか。

 中国で反日デモが広がっている。投石、飲食店の打ち壊し、暴行などの犯罪を治められないのでは反日の動きと国との関係も疑われる。今の日本の実像を知った上での暴走とも思えない。

 周首相は日中国交正常化の20年近く前に述べた。「最近の六十年の歴史では、中日両国の関係はよくありませんでした。しかし、これは過ぎ去ったことであり、また過ぎ去ったこととしなければなりません……われわれの子孫に、このような歴史の影響をうけさせてはなりません」(『新編 周恩来語録』秋元書房)。否定を避け相手を呼び込む。懐の深さと老練な術(すべ)を思わせる。

 そして続けた。「われわれ自身の内部から平和の種子を見出さねばなりません。その種子はあると思います」。過熱する中国だけではなく、「われわれ」の一方である日本の側も、改めてかみしめたい言葉だ。