Archive for 4月, 2005

 最近の言葉から。「島が壊れた。泣きたいよ」。福岡沖地震で多くの民家が崩れた玄界島で、漁協役員がもらした。漁期のさなかに事実上の全島避難が続き、漁業の島が呻吟(しんぎん)している。

 地下鉄サリン事件から10年たった。「私たち被害者はずっと置いてきぼりのまま、時間が止まっています」。出勤途中に事件に遭い、今も後遺症に苦しむ女性は、国による救済の乏しさを訴える。

 60年前の東京大空襲を、作家の早乙女勝元さんは12歳で経験した。皇居の安否には言及しながら、市民の被害を「其(そ)ノ他」で片付けた大本営発表にこだわる。「『死は鴻毛(こうもう)よりも軽しと覚悟せよ』とは、軍人勅諭の一節だが、民草と呼ばれた国民の命は、鳥の羽よりも軽かったのである」

 ハンセン病問題の検証会議が、隔離の実態を最終報告書にまとめた。「真理子よ そのお前は標本室にはいないのです 真理子よ 今どこにいるのです」。元患者で盲目の詩人、桜井哲夫さんは、堕胎手術で失った娘に詩で呼びかける。標本までもが、ひそかに処分されていた。

 「日本橋の上に高速道路なんぞ通したのは、どこのどいつだって、今だって思ってる」と話す写真家、富山治夫さん(70)は、東京?神田生まれ。江戸っ子の反骨が、ライフワークの社会戯評「現代語感」を支えた。

 『悲しき熱帯』で知られる文化人類学者のクロード?レヴィ=ストロースさん(96)が久々に仏メディアに登場した。今後の予定を問われて言った。「そんなこと、聞くもんじゃないよ。私はもう現代社会の一員ではないのだから」

 イスラム圏では遺体は土葬される。来世での再生を信じる教えからか、火葬にはしない。遺体は浄(きよ)められ、生成りの布で覆われ、棺(ひつぎ)に納められる。

 地震や津波で亡くなった場合は作法が異なる。死の際の着衣のまま、傷や血の跡も消さないで葬られる。むごいようだが、イスラムの世界では、天災の犠牲者は特別な意味を持つという。

 病気や老衰でなく、天変地異で亡くなると、幼児でも老人でも殉教者として扱われる。たとえば聖戦ジハードで命を落とした殉教者と高貴さにおいて同列で、そのままでも十分に清らかだという。

 以上の知識は先月初め、インドネシアのスマトラ島で取材したときに教わった。訪れたアチェでは、村々にまだ死臭が漂い、毎日数百もの遺体が掘り出されていた。黒いポリ袋に入れられた骸(むくろ)が、道ばたに積まれていたのを覚えている。

 津波の襲来から3カ月しかたっていないスマトラ島を再び大地震が襲った。「ゆうべはだれもが津波の幻に取りつかれた。家族みんなで最上階の部屋に移って夜を明かした」。地元の大学教授ユスダル?ザカリアさん(46)は電話口で話した。市街地では、高台へ逃げる車やバイクの衝突事故が未明まで続いたという。

 あれほどの大地震の後だから、もう心配はない。そう楽観していた人が少なくなかったはずだ。津波による遺体の回収もまだ終わっていなかった。被災地の人々はいま、無力感に沈んでいることだろう。キリスト教徒もいるが、イスラム教徒の多い地域では、新たな「殉難者」たちを送る葬礼が本格化していく。

 長寿に恵まれると、若いときの仕事に歴史がどんな審判を下すかを知ることができる。プラスの評価を得る者は幸いだ。今月17日に101歳で亡くなった元米国務省高官のジョージ?ケナン氏は、そんな一人である。
 第二次大戦後、冷戦初期の動乱期に活躍したケナン氏は、辛抱強い外交でソ連の膨張的傾向をチェックすれば、内部矛盾から崩壊すると予言、「封じ込め」を立案した。日本に対する占領政策を緩やかなものにして、経済復興を重視する路線に転換させた。
 ソ連の崩壊と日本の経済大国化を、彼は自分の目で見届けることができた。ただし、米外交の過剰な道徳主義や軍事手段の過大評価を戒める提言は、ワシントンでは理解されず、53年に退任に追い込まれた。プリンストン高等研究所に移り、著作を通じてベトナム戦争を批判するなど米外交に影響を与え続けた。
 ケナン氏と言えば、思い出すことがある。同時多発テロ直後、アーミテージ国務副長官に米外交への長期的な影響をたずねたところ、「国務省には、20年先を考える部局がある。政策企画室だ」と胸をはった。
 この政策企画室こそ、若きケナン氏が初代室長を務め、米外交の青写真を描いた部局だった。しかし、米国は、国際社会の合意を待たずにイラク戦争に突入、いまだにイラクの民主化の確たる見通しはない。
 国務省の彼の後輩たちは何をしていたのだろう。「私たちは自国についてバランスのとれた見方をすべきだ。自分で思うほど世界を変えることはできない」。ケナン氏が残した言葉である。

 


 ローマ法王ヨハネ パウロ2世(84)が2日午後9時37分(日本時間3日午前4時37分)、バチカンの法王宮殿で死去した。四半世紀以上にわたる在位中、他宗教と対話や和解を進め、世界10億人のカトリック教徒の精神的な支柱として大きな足跡を残した。発言は母国ポーランドをはじめ東欧諸国の変革にも影響を与えた。104回もの外国訪問を重ね、「空飛ぶ聖座」と呼ばれる活発な外交でイラク戦争にも強く反対した。


 法王死去にともなう次期法王選挙(コンクラーベ)は15~20日後をめどに行われる見込みだ。世界中に散らばる80歳未満の枢機卿約120人が、義務として招集される。新法王は参加者の互選で決まる。

 法王は2月、インフルエンザの悪化と呼吸困難で2度入院し、気管切開の手術を受けた。3月13日に退院したが、持病のパーキンソン病の進行が加わり徐々に体力が衰え、3月末の復活祭やそれに伴う一連の行事を78年の即位以来、初めて欠席。声が出せない状態が続いていた。

 1920年5月18日にポーランドの古都クラクフ近郊で生まれた。本名はカロル?ボイチワ。ナチス?ドイツ占領下、地下組織の神学校で哲学?神学を学んだ。戦後司祭になり、63年にクラクフ大司教、67年に枢機卿。

 78年10月16日、在位34日で死去した前法王ヨハネ?パウロ1世に代わって法王に選出され、同22日に即位した。イタリア人以外の法王は、16世紀のオランダ出身のハドリアヌス6世以来455年ぶりだった。

 81年5月にはサンピエトロ寺院で狙撃されたが一命をとりとめた。

 最も力を入れたのは、平和の訴えだった。「暴力と武器は問題を解決しない」と繰り返し、91年の湾岸戦争などに強く反対。03年のイラク戦争前は特使をイラクやホワイトハウスへ送り込み、戦争回避の説得を続けた。

 カトリックの教義においては超保守的だったが、対外関係では「開かれた教会」を目指して多くの改革にも着手。他宗教と協調を図る柔軟路線へ転換した。11世紀にカトリックと分裂した東方教会(正教)をはじめ、16世紀の宗教改革で分かれた新教諸派と対話を重ねた。

 東欧改革をはじめとする世界政治にも大きな影響を与えた。戒厳令下の83年に母国ポーランドへ戻り、弾圧されていた自主管理労組「連帯」を支持。「モラルの勝利になるだろう」という法王の励ましは、社会主義政権への抵抗運動の精神的な支えになった。

 81年2月に来日し、広島、長崎などを訪問した。広島では「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うこと。広島を考えることは、平和に対しての責任を取ること」と軍縮?核廃絶を訴える平和アピールを発表した。


ーーーーーーー 『朝日新聞』