Archive for 4月, 2005

 戦艦大和が沖縄へ向けて出撃する日、吉田満少尉は遺書をしたためた。「私ノモノハスベテ処分シテ下サイ 皆様マスマスオ元気デ、ドコマデモ生キ抜イテ下サイ」


 「政治は国民のもの」。55年の自由民主党の結党大会で採択された「立党宣言」は、この言葉で始まっている。後に中曽根総裁のもとで編まれた『自由民主党党史』は、この一句を、リンカーン米大統領の「人民の人民による人民のための政治」を一語に集約したものと記した。


 とかく税金は集めにくい。使い方への批判もあふれる。ならば、住民に使い道を選んでもらえば、いいじゃないか。  


 こんなアイデアを条例で実現させた市がある。千葉県市川市だ。住民は自分が払う市民税の1%分を、市内のNPOや住民団体に提供できる。応援したい団体をひとつ選び、市役所に通知すれば、市の補助金として届けられる。名づけて「納税者が選ぶ市民活動団体支援制度」。ハンガリーの税制をまねて、今春から日本で初めて導入した。  


 「1%」の受け手には、81の団体が並んでいる。福祉ボランティア養成、少年野球教室、ミュージカル公演など、やりたい事業はさまざまだ。マージャン入門講座なんてのもある。今月から各団体が市の公報や街頭で「清き1%を」と呼びかける。住民は5月上旬までに応援先を決めていく。  


 46万人余りが住み、市民税は1%でも3億円になる。だが、いわゆる千葉都民が多く、地元への関心は極端に低い。市は「税の提供先を決めるのは10人に1人、総額で3千万円くらい」と控えめに見込む。6月の最終結果は、開けてみてのお楽しみだ。  


 似たような制度は他の自治体でも検討中だが、異論もある。「税を納めない低所得者の意向が無視され、法の下の平等に反する」「1%は減税するのが筋だ」などだ。


  著名画家、导演陈逸飞今天上午8点44分因上消化道出血在上海华山医院去世,享年59岁。


  陈逸飞(1946-2005)生于宁波,浙江镇海人。1965年毕业于上海美术专科学校,入上海画院油画雕塑创作室,曾任油画组负责人。60-70年代创作了《黄河颂》、《占领总统府》、《踱步》等知名的优秀油画作品。1980年赴美国留学,1984年获艺术硕士学位。后在纽约从事油画创作并在华盛顿、纽约、东京等地举办个人画展。作品多次参加香港和国内的油画精品拍卖会,其中作品《山地风》创华人油画作品最高拍卖价。其作品被中国美术馆、中国人民革命博物馆和国内外收藏家广泛收藏。


———————-摘自新浪网


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??? 浔阳遗韵


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童年嬉戏过的地方??


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  3月31日出发,武汉两日游。


  相片在“图库–武汉”。这一次底扫效果超差,弄得修剪照片的心情都没有了。加上只能用“画图”,做起来也没劲。我一定要尽快解决技术问题才行。


  此行的主题是樱花-小吃,均圆满达成。周末得闲了再考虑行记吧。

 ポーランドの古都クラクフは、中世の町並みを今もなお色濃く残している。後にローマ法王ヨハネ?パウロ2世となるカロル?ボイチワは、クラクフ郊外の町バドビツェで生まれた。

 近くには、後に強制収容所がつくられたアウシュビッツがある。数年前、クラクフを流れるビスワ川のほとりに立って、三つの町の位置関係と法王の人生に、運命的なつながりを感じた。

 ナチス?ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まった時、カロルは哲学科の学生だった。独軍によって大学は閉鎖される。ドイツで強制労働をさせられる国外追放を避けるため、クラクフ郊外の石切り場で働いた。

 「聞いてごらん。ハンマーが規則正しく石を打つ音を……ある想いが私の内で育って行く。仕事の真の価値は、人間の内面にあるのではないだろうかと」。自作の詩について、法王は後年、「当時の異常な体験がなかなか適切に表現されている」と自伝『怒涛に立つ』(エンデルレ書店)で述べている。

 やがて地下活動で神学を学び、司祭になり、クラクフ大司教を務めた。法王としては、故国で民主化を求める「連帯」を励まし、教会が封印してきたことを謝罪し、イラク戦争に反対した。歴史と平和についての明確な発言と行動が際だっていた。

 10年前、バチカンで法王と握手する機会があった。若き日にハンマーを握ったかもしれない手には、厚みがあった。「戦争は人間のしわざです。戦争は死そのものです」。81年に広島で発した言葉が、その手から伝わってくるようだった。

 「私の生涯は波瀾に富んだ幸福な一生であった。それはさながら一編の美しい物語(メルヘン)である」。アンデルセンは、自伝『わが生涯の物語』(岩波文庫)を、こう書き出している。ちょうど200年前の1805年4月2日に、その生涯は始まった。

 「みにくいアヒルの子」「人魚姫」「マッチ売りの少女」「絵のない絵本」。世界中の子どもだけではなく、大人になってしまった子どもの心にも生き続ける物語を数多く残した。

 貧しい少年時代に始まり、童話作家として広く世に認められるまで、確かに「波瀾に富んだ」道を歩んだ。しかし「幸福な一生」と「美しい物語」には、すぐにはうなずけない思いがある。

 アンデルセンの作品が持ち続けてきた大きな魅力の底の方には、深い孤独が感じられる。生家には複雑な人間関係があり、俳優への夢は挫折する。みにくいアヒルの子や、マッチを売る少女の際だった孤立感が、幼い頃の作者と重なって見える。

 彼は、繰り返し外国への旅に出た。帰る時に「デンマークを思うと、私を待ちかまえている悪意に身の毛もよだつ思いだった」と記す。異国での孤独感は旅の味わいを深め、故国での孤独は心の傷を深めたのだろうか。

 しかし、その深い孤独感は、たぐいまれな叙情の才と出会う。双方が絡み合ってつむぎだされたのが、読み捨てることのできない恐ろしさを備えた「美しい物語」ではなかったか。その幸運な出会いと営みとを「幸福な一生」と呼んだのかもしれない。人生に孤独の影が寄り添う限り、読まれ続けてゆくだろう。

 新球団?楽天イーグルスの試合をきのう、本拠地の仙台で見た。新装の球場ではトランペットなど鳴り物を使った応援は禁止である。そのぶんバットの音が客席まで心地よく響いた。

 王者西武を相手に楽天が快勝した。産業界の浮き沈みを思わせるような試合展開だった。銀行を辞めてネット事業にこぎ出した起業家が、先代の遺訓にしがみつく鉄道王を倒す。新と旧の対決に場内がわいた。

 職業野球が生まれた昭和の初め、大半の球団が新聞社か鉄道会社を母体にしていた。戦後は映画や自動車などの業種が乗り出す。菓子や飲料に続き、金融や民放も参入した。その間に不動産やスーパーなどが退場した。

 米国時間の3日には、大リーグも開幕する。あちらの球団は、オーナーがめまぐるしく代わる。かつては、銀行家やビール王など野球好きの富豪が球団を買った。それが次々、ディズニーなど有名企業の手に渡った。近年は、球団を債権のように扱う投資家たちが買収戦に忙しい。ひいきチームの所有者がだれか、長年のファンでも混乱する。

 お隣の韓国でもきのう、プロ野球が幕を開けた。昨年は兵役逃れの不正で大揺れだった。中南米や台湾などでもプロ野球は盛んだが、ジャイアンツやタイガース、イーグルスといった球団名は世界各地にある。名前を決める際、本場の米国流にならうところが多いのだろう。

 プロ球団が仙台を拠点にするのは28年ぶりだという。産業の栄枯盛衰は世のならいだが、景気や株価に左右されず、この地にしっかりと根をおろしてくれたらと願う。

 スマトラ島沖の地震では、住民が各地でパニックに陥ったと報じられた。地震後、津波を恐れた人たちが焦って高台を目指し混乱したという。

 パニックは、時には群衆による圧死などの惨害をもたらす。しかし、人々のパニックへの傾きを、単純に「不合理な行動」とは言えない。

 冷戦の頃、戦域核兵器の配備がとりざたされていたオランダで、住民がパニックに陥ったという。きっかけは、空軍基地に原爆が投下された場合を想定したラジオ番組だった。「いつか核攻撃があるかもしれない」という現実の不安と、仮定の世界のラジオ番組とが重なってしまったのだが、人々が混乱するのはむしろ自然で、無理からぬものだったと思う。

 スマトラの場合も、大津波襲来への不安はかなり大きかっただろう。地震の起き方によっては、それも十分ありえたのだから、ひたすら海から逃げようとしたのは理にかなっている。問題は、正確な情報の速やかな伝達と、住民への的確な指示があったかどうかだ。

 今回は、気象庁が素早く各国へ津波情報を発し、大津波の時の苦い経験が、情報の支援では生きた。しかしインドネシアなどでは、警報の発令と伝達や住民への指示に問題があったようだ。

 約700年前にスマトラに上陸したマルコ?ポーロが『東方見聞録』(東洋文庫)に記す。「皆さんをびっくりさせるに違いない異常な事態がある……この土地がはるか南方に位しているため、北極星も北斗七星も共に見えない」。はるか赤道直下の島々へ、情報だけでなく支援も厚く届けたい。

 小枝の先に、ほんのり白いものが見えた。濃い紅のつぼみがほどけて生まれたばかりの、ひとひらの桜だった。

 開花した範囲を示す曲線が日ごとに広がるこの時節に、新しい年度は始まる。今日からは、これまでとは違った土地や職場、学校で生活を始める人たちも多い。列島の各地で、様々な期待や希望、そして不安が行き交っている。

 「枕草子」に「あたらしうまゐりたる人々」というくだりがある。今日は、多くの「新しう参りたる人々」にとっても、それを受け入れる側の人にとっても、記憶に残る一日になるだろう。

 毎年4月1日ごろ、作家?山口瞳さんの文章が広告の形で新聞に載った時期がある。新社会人への、はなむけの言葉がつづられていた。当方は、すでに旧人の部類だったが、夜の止まり木で先輩に語りかけられているような懐かしさを覚えることがあった。

 「踏み込め、踏み込め! 失敗を怖れるな!」「此の世は積み重ねであるに過ぎない」「諸君! この人生、大変なんだ」「会社勤めで何がものを言うのかと問われるとき、僕は、いま、少しも逡巡することなく『それは誠意です』と答えている」

 これは、新人に向けた形をとってはいるが、勤め人全体への励ましとも読める。新しい年度の初めごとに、山口さんは自らの時間を巻き戻し、自省しながら世の「江分利満氏」を励ましていたように思われる。それが旧人の胸にも響いた。95年春は「一に忍耐、二に我慢、三四がなくて五に辛抱」。その夏に、山口さんは亡くなった。今年で10年になる。