Archive for 4月, 2005

  昨天睡前喝了医生开的药。我不太清楚药的效力如何,好像没什么感觉。我想着这种药吃再多也不致死吧。下回去的时候,要告诉医生一点用都没有。


  还有52天。

 「大江(だいこう)に歌罷(や)めて 頭(こうべ)を掉(ふ)って東し……」。後に中国首相となる周恩来が「揚子江に歌うのをやめ、意を決して東の日本に向かい」と詠んで国を出たのは1917年、19歳の秋だった。

 翌春、東京高等師範学校を受験したが落ちる。気晴らしにでかけた日比谷公園で、ふたりの小学生の女の子が草花を植えながら遊んでいる姿に接して感動した。「中国人は口を開けば『東洋(日本)は襤褸(ぼろ)の邦』というが、よく考えれば、日本がどうして襤褸であろう」(『周恩来 十九歳の東京日記』小学館文庫)。

 故国で聞いた日本と直接触れた日本とは違っていた。この若い日の「発見」は長く心に残ったのではないか。

 中国で反日デモが広がっている。投石、飲食店の打ち壊し、暴行などの犯罪を治められないのでは反日の動きと国との関係も疑われる。今の日本の実像を知った上での暴走とも思えない。

 周首相は日中国交正常化の20年近く前に述べた。「最近の六十年の歴史では、中日両国の関係はよくありませんでした。しかし、これは過ぎ去ったことであり、また過ぎ去ったこととしなければなりません……われわれの子孫に、このような歴史の影響をうけさせてはなりません」(『新編 周恩来語録』秋元書房)。否定を避け相手を呼び込む。懐の深さと老練な術(すべ)を思わせる。

 そして続けた。「われわれ自身の内部から平和の種子を見出さねばなりません。その種子はあると思います」。過熱する中国だけではなく、「われわれ」の一方である日本の側も、改めてかみしめたい言葉だ。

 ——何人も、国籍を離脱する自由を侵されない。この憲法22条に着目したのが、井上ひさしさんの小説「吉里吉里人」だった。農業問題に不満を持った東北の寒村が、日本国憲法をそっくりもらい日本から分離独立してしまおうという話だ。

 現実の世界では、国籍の離脱には相当の覚悟や準備が要るだろう。一方で、国際化を反映して、日本の国籍を求めて訴える人が続いている。

 両親が法律上の結婚をしているかどうかで子どもの国籍取得を区別する国籍法の規定は違憲とする判決を、東京地裁が出した。法の下の平等を定めた14条に違反する、と。

 訴えた男児は7歳、母はフィリピン人、父が日本人だ。「3人は、完全同居ではないものの内縁関係にあり、家族としての共同生活と評価できる」とした。「価値観が多様化している今、『父母が婚姻関係にある家族こそが正常で、内縁関係は正常ではない』などと言うことはできない」とも指摘した。国籍認定の幅を広げる判決だ。

 国籍法は84年に改定された。それまでは条件の一つは「父が日本国民」だった。「父または母が」となって20年ほどにしかならない。日本の社会と時代とを映す鏡のような法律だ。

 「私たちは国籍を、日本人でないことも、選べる。逆に言うと……日本人であることを選び直さなきゃだめなんですね」。井上さんが以前、「吉里吉里人」に込めた思いを本紙に語っていた。多くの日本人にとっては、生まれて以来の国籍は、空気のような存在だが、選び直すと考えれば、その重さが少しは実感できる。

 「悲しい出来事で洞窟(どうくつ)の存在を大人たちは初めて知った。もっと早く知っていれば防げたと悔やまれる」。鹿児島市の洞窟で死亡した生徒4人が通っていた中学校の校長先生が、朝会で述べたという。

 この洞窟が、第二次大戦での壕(ごう)だったとすれば、約60年もの年月が流れている。そのどこかで、大人の目が届き、惨事の現場にならないような手だてがとれなかったものか。

 4人とも13歳だった。心身ともに急成長する時期だ。日常から、一歩別の世界へ踏み出したくなる思いは、多くの人に覚えがあるだろう。洞窟は、奥には危険が潜んでいることを感じさせつつ、誘いかけてくる。太古の時代の祖先が、そんな場所ですごしていたというような、尾てい骨の記憶を呼び覚ます。

 校長は、こうも述べた。「チャレンジする気持ちは若者らしく、頼もしく感じる。冒険には危険がつきまとうことを認識した上で臨むことが必要です」

 チャレンジという言葉からは、十数年前のアメリカ映画「スタンド?バイ?ミー」を思い起こした。12歳の少年たち4人が、小さな冒険の旅へ出る。夜の闇や恐怖と戦いながら成長してゆく姿が、映画の題名になったベン?E?キングの歌とともに、見る者に強く訴えかけてきた。「夜の闇が あたりを包み/月明りしか 見えなくても/ぼくは 怖くない……君がそばに いてくれるなら……」(『スタンド?バイ?ミー メモリアル』)。

 つい先日まで、そばに元気で居た4人が、今は居ない。朝会での黙祷(もくとう)では、立ち上がれない生徒もいたという。

 春の交通安全運動が15日まで行われている。いつものこと、ではある。しかし、新1年生らしい子らが、ぴよぴよと聞こえてきそうな口ぶりと足取りで道を渡るのを見ると、特にこの時期は、車の運転は心を引き締めてと思う。

 交通ルールを守らなければ命が危ないと、幼い子に教え続けることは必要だ。運転する方にも、守らなければ、相手だけでなく自分の人生も危ういと思わせ続ける必要がある。しかし交通ルールを唱えるだけで万全とは言えない。

 事故を減らすには、事故が起こりにくい道をつくるという考え方もある。オランダが発祥という、人と車の共存をめざす道路「ボンエルフ」である。「生活の庭」と訳されるこの道では、たとえば車の速度を抑えるために、道の途中にハンプ(こぶ)と呼ばれる盛り上がりをつくる。

 このハンプに出合ったのは、オランダではなく、エジプトのカイロ郊外だった。突然ガクンと車体が持ち上がり、ドンと落ちた。しばらく行くとまた持ち上がる。スピードを出させないため、学校の近くなどにこうしたこぶをつくっていると聞いた。もし高速で乗り上げていたら、衝撃は相当あっただろう。

 日本にも、ハンプのある道ができている。事故が減った道がある一方で、学校の近くに作られたハンプにつまずいて転んだ人もいるという。

 事故対策には、万能薬は無い。表通りだけでなく、狭い路地をも疾走するような車に有効な「車外ブレーキ」を考案できないものか。季節ごとの安全運動ではなく、通年で取り組むべき差し迫った課題だ。

又荒废了好久了。今天邱大班长再次率团莅穗,仅以此文表示欢迎。


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  seki提起那年的中秋和国庆。那年中秋我没有和室友们一起过,但是怎么过的,一点也记不得了。在于蓝小小的414?还是和金san在她的留学生宿舍?那天,我一定又是在熄灯以后才悄悄摸回房间的。每一次我回来,宿舍里都是一片寂静,月光穿过百千层树林,从seki桌前的窗户悄悄洒满粗糙的地面。——那时候,我们还没有窗帘。


  第一个挂起床帘的是谁?seki吧。最后一个呢?我记得是雪梅。她的床帘最好看。


  床帘是我在大学里才认识的东西。第一次见到是在ookyoo的宿舍,她被吓到那一次。那个所谓空空不见人的房间,其实和我们的宿舍一样,除了桌椅和床,其实并没有余下多少落脚的空间。八副床板,除了两张行李床,其余的都严严实实地拉着颜色各异床帘。我想,ookyoo也是第一次见到这样的阵势吧。—-“她们不热吗?”我当时是这样想的。这个问题到最后我也没弄明白,也就始终没有挂起床帘。应该是宿舍里唯一一个。


  seki还说起我的床单被套。事实上,由于陡然升起的抗拒,开学发的13件物品,我只用了被、褥、枕头和盆、桶。两套运动服都送给了弟弟,球鞋记不得给了谁。水壶很快就丢了。哦,那张花花绿绿的凉席也算用了,一直铺在床下。因为我不喜欢睡席子。其他的都拿回家了。床单被套枕套枕巾和蚊帐都是自己带来的,高中住宿的旧物。现在想来,虽然我一直没挂床帘,这些东西却一直像床帘一样,把我包裹。


  国庆了。


  我好像再也不愿意回来似的,大包小包的回家了。那时候国庆也是三天假,只是周末只有一天。所以国庆连休就是四天。我们以买好了火车票为由,向人生修养的老师范请了假,挣得了半天时间,“连滚带爬”地回去了。那一次,是四人行还是五人行呢?蔚是肯定在的。说到这里,我竟然是第一次提起蔚。她也是我的高中同学,那年五个外校生之一,和于蓝分在一个班。宿舍却与我们不同,在2楼。也许因为没有依赖的缘故吧,她适应地也比较快。又也许是那时我只顾自己伤感,没有注意她的孤独。就像这部“流水账”,直到现在才开始提及她的名字。而后,到了圣诞节,听说蔚给高中班里每一位同学都认真写了一张圣诞卡,我才内疚地意识到自己太自私了,竟从未想到要去关心蔚。我为自己感到羞愧。


  在学校的时候说想家,可回到家那四天,我几乎没有一天是老老实实呆在家里的。全都用来见同学了。记得和诺逛了一天街,我们俩买了一模一样的发夹。是的,诺是我最思念的人之一。然而,这思念并不只有一个月而已。她是我的初中同学,中考后各自分开。以后的高中三年中,由于种种缘故,我一直沉湎在对她的依恋中。


  那个假期,钰从蛇口赶来,陪了我两天。我们俩参加完高中同学聚会后,一起在街上逛到很晚。那时候,老街还是破破烂烂、热热闹闹的老街,只是晚上10点不到已是夜阑人稀了。和诺在一起仿佛总在追求一种感觉,像是证明友谊的仪式。而和钰在一起则是实实在在的。那时,常有人说我如鬼似仙,然而和钰在一起,我真的是人。她小小的个子,却像姐姐一样,问我的生活、朋友。带我走街串巷购置衣物。穿了近十年的校服,突然没有还真的很不习惯。完全不知道该怎么自己选购衣服,搭配衣服。而这十年的校服生涯,也使我有了制服情结。直到现在我都很喜欢制服那种“凛凛”(竟然找不到中文词!)的感觉。


  那天晚上,钰住在我家。她请爸爸帮看看骨盆疼痛的原因。她说,上大学以后不久就开始疼,有人说是软组织挫伤,有人说是其他。现在一直在校医院作理疗。爸爸没摸出什么问题,建议她去照片认真检查。谁知道,一检查就检查出骨癌!这是后话了。


  那年国庆,鱼和hoka大大地嘲笑了ookyoo被美女师姐迷晕的糗事,并问于蓝,ookyoo有没有欺负她和我,陈san有没有欺负我。当然是没有。于是,她俩嘱咐ookyoo照顾我。呵呵,我的外表向来具有很大的欺骗性。都以为是相当柔弱,会被欺负的。只有陈san说:那个家伙,其实很厉害的。很多年后,简在把妹妹托付给我的时候,也说:YM很强悍的。她的父母好像不怎么相信我强悍,但是应该放心把女儿交给我。当然,我不能这么没有良心。主要是大家对我好,舍不得欺负我:)—-高中同学聚会的尾声是ookyoo恨恨地警告我,写信的时候不许把她的事情八卦出去。嗯,可怜的我,不写她写谁呢?


  金san吧。


  开学两周后才插班进来的韩国留学生。韩国,是我们班最北的同学了。也成为我们班最白的女生之一(seki第一)。郭老师指示:ookyoo,你负责带金san去买书,帮她把拉下的功课补上。美女当前,ookyoo当然义不容辞。我也亦步亦趋、如影随形地去了。和金san以及一帮韩国留学生的故事自此开始,那也是后话。而她的日语,由于韩语与日语极其相近,以及她有个日本室友的缘故,学得很快。基本不怎么需要ookyoo的帮助。那时,金san在我们眼里,应该是挺酷的吧。背着与众不同的书包,迈着奇怪的大步。脸上有妆,那种韩国特色的深褐色近黑的口红。虽然很明显,但是很好看。


  国庆后,我们的班干部也选出来了。班长陈san,团支书阿元,文体委员花,生活委员小云,学习委员ookyoo?嗯,只有学习委员想不起来了。


  简、tei、ookyoo,好像还有芬报了个莫名其妙的协会,成了干事。却一直到大二还是大三才突然有了一次任务。好像是美容讲座,教大家怎么洗脸。


  夏日的骄阳依然灼人,ookyoo在一个中午悄悄去参加了校团委干事的面试。失败了。那以后,她再也没有试图加入任何一级学团组织。以群众同学的身份活跃在各项大小活动中,有了事实上的影响力。


  国庆后,学校给我们安排了两个英语老师,收费每人250元。本来有7个日语生,后来A班的金ZH和黄JD因为和我们起点不同,退出了。两位都是女老师,一位姓杨,上精读。教材是外研社的旧版《大学英语》(College English)。她课讲得很细致。另一位姓文,上听力。眼睛灵动闪烁的、很可爱的女子,我们很快知道她是黎的夫人。这可是个足够我们兴奋一段的八卦话题呢。杨老师给我们上了近一年的课,她应该最喜欢蔚吧。蔚学得最好,ookyoo也学得不错。最不好的是我。文老师只出现了一个月,后来就因病把课全交给杨老师了。英语,至今是我很头疼的一门课。杨老师也成为其中一位我认同的老师,虽然我让她失望。而我们都没有料到会从此结下缘分。四年后成为同事。三年后又分开。以后再会有什么样的交集呢?


  记得进入初级日语后不久,我突然发现班里男生们读书读得很好听。林kun,天xi用漫不经心的调子背课文,读句子,竟出奇地神似。羡慕得我要命。所以那时候,我有一种论调,认为男生学说日语比女生容易。因为中国女生实在不好模仿日本人的娇柔。直到有一天,婉被郭老师叫起来背课文,是这一段:


  --あきこちゃん、ここに座りなさい。さあ、お姉さんのほうを見なさい。


  --動いては だめですよ。はい、こちらを向いて…


  还记得吗?这段课文是一个留学生想给草地上的小姑娘照张相,于是,向她母亲请求许可。第一句是妈妈呼唤孩子的。第二句则是留学生嘱咐孩子的。那一次,婉的声音真好听啊。那样亲切、温柔、充满阳光。想婉今日逗弄女儿,也是这般吧。


  大学生活慢慢步入正轨。新生的身份逐渐被“大一的”的称呼代替。班干部们开始进入系学生会、团委。小龙独自进了校团委。那天刘以他独特缓慢安静的步子踱入414我们的教室,看着小龙说:**心高,能干,看不上我们系团委。小龙说:哪里哪里,刘老师叫到,我一定帮忙。大意如此吧。于是,我知道,小龙是学校的学生干部。然后,瞬间就把这事给忘了。直到后来遇到铁,她说起与小龙和邱大班长同事,才又想起。


  那时候,每天早上有早操。早操时间是6:30。勤快的6点起床,洗漱完毕后去食堂买了早餐回来,刚好赶上早操。懒一点的6:15起床,带上书包饭盒下去,早操后直接去饭堂,然后去早读。再懒一点的6:30起床,做完操再回来洗漱等。当然还有更懒的回来继续睡。早操是记考勤的,所以,虽然有逃操的,但并不敢常犯。事后还要补上各种头疼脑热的假条给刘。有一回,410全体缺操,后来人人补上声泪俱下的假条,大意是全房去“食最鲜”搓饭,至腹泻。更有“肉麻”者,嘱咐老师注意身体。一直遗憾未能拜读她们的大作。相比之下,我们房就乖多了,好像只有我会睡到六点半。常常是我还没起,seki已经拿着饭盒背着书包出去了。ookyoo跟全世界最勤快的越南语班女生住在一起,导致她天天没有懒觉,居然早操全勤!我记得全勤的还有陈san、小云,男生有阿元。其他就没有印象了。早操地点在风雨礼堂,就是现在三栋宿舍楼的位置。开始是94级独自在礼堂前的空地做,后来不知什么时候,搬到礼堂侧面的沙地上了。那时候听说,有更勤快的在早操前已经跑步到明珠楼归来,我不认识。


  宿舍检查据说现在仍在进行。周一上午,刘带领系学生会的“心腹”上来检查。所以周一去上课前一定要把宿舍收拾好,把东西藏好。我们曾一直耿耿于怀410总能评上优秀。曾有两次,特意在周日大扫除,甚至洗地。最终也没能比过她们。要知道,全房早操全勤没有奖励,而宿舍卫生优秀每学期是有200元奖金的!!那时候,我们都说刘很bt,一进门先摸门缝、开关缝、窗缝这种没想到要擦的地方。而410取胜的秘诀大约是“空无一物”吧—-桌面上不留一本书,一直笔;蚊帐拆下来,床上只留枕头和被子;7个水壶要么整齐的放在一起,要么统统拿出去水房排队。还记得我们分别给口盅,洗发水、肥皂盒、饭盒甚至皮箱排队。都是从大到小,从高到矮。记得周一早上要起早一点,拆掉床帘。这时候,我躺在床上,会有一丝庆幸。离开前,要检查电热杯等违禁物品是否藏好。最后,将换下的拖鞋齐好放在床边。随手关灯。


  卫生检查开始是两周一次,有时候我们会弄不清楚单双周。后来改成每周一次,时间就在一次次手忙脚乱中,以周为单位悄悄流逝了。


 京都に住む岡村美弥子さんは1日に3千歩しか歩けない。重さ2キロ以上のものは持ち運びできない。スーツケースなどは、一瞬たりとも持てない。階段は大の苦手だ。それでも毎年のように1人で海外に出かける。


 19世紀末、アイルランドにチャールズ?ボイコットという名の農地管理人がいた。強権ぶりに小作人たちが反発し、示し合わせて、彼の発する命令はおろか朝夕のあいさつも無視する作戦に出た。不参加とか不買の抗議行動を意味するボイコットはこれに由来する。


 東京都議会よりも多い136人もの議員がいる秋田県の市の名前は?


 話題になった頃ならともかく、今でもすぐに「大仙市」と答えられる人は県外では少ないだろう。


 東京では、2日続けて初夏を思わせる陽気となった。咲いたばかりと思っていた桜が、場所によっては散り始めた。