JRの尼崎駅に降り立つと、雨が本降りになっていた。1日の昼前である。駅前には、この地にゆかりのある近松門左衛門の浄瑠璃の女主人公「梅川」の大きな像が立っている。

 駅の北側の脱線現場に向かう。電車が激突したマンションの1階は、青いシートで覆われている。あの日、シートのあるあたりの車内では、安否を気遣う家族や友人からの携帯電話の呼び出し音が鳴り続けていた。小さな画面には、発信元を示す「自宅」の2文字が浮かんでいたという。

 マンションと線路とは、あまりにも近くて、一体のようにすら見える。電車からは、行く手の正面に立ちはだかるように、マンションの方からは、電車が常に飛び込んでくるように見えていただろう。なぜ防護壁がなかったのかと悔やまれる。

 わずか100メートルほど離れて、特急「北近畿3号」のずんぐりとした姿がある。あの時、運転士が、信号が黄色になったことに気づかなければ、脱線の現場に突っ込んで行ったかも知れない。

 電車最後尾の7両目の近くに立つ。降りしきる雨が屋根をたたき、滴り落ちて敷石にしみ込む。それぞれの未来を抱きながら乗り合わせた人たちと、その人々を失った多くの人たちの無念の涙のようにも思われ、目を閉じた。

 この現場に近い広済寺には、近松の墓がある。彼は、寺の一角で執筆したと伝えられる。その来歴を、朝日新聞の阪神支局員だった小尻知博記者も書いたことがあった。支局が襲撃され、小尻記者らが殺傷されて、3日で18年になる。西宮市の阪神支局に向かった。