半畳とは、元は江戸時代の劇場で見物人が敷く小さな畳やゴザだった。「半畳を打つ」は、半畳を投げて役者への不満や反感を表すことだ。

 しかし、その時に舞った座布団は不満からではなかった。「場内のお客さんが、天井が見えないぐらいに座布団を投げあげていた。多くの貴ノ花ファンにとって待ちに待った優勝だったのだなと思った」。貴ノ花が初優勝を決めた一戦で、敵役となって敗れた北の湖(日本相撲協会理事長)が回想する。75年春場所だった。

 この直後に出た『貴ノ花自伝 あたって砕けろ』(講談社)には、こうある。「物心ついたころから『若乃花の弟』といわれるのがいやでした」。しかし15歳の春、親方になっていた元横綱若乃花に弟子入りを願い出る。兄は断ったが母が助け舟を出した。

 兄は厳しく言い渡す。「きょう限りで、お前と兄弟の縁を切る。あすからは親方と、ただの新弟子でしかない」。弟はひたむきな精進で一直線に番付を上っていった。

 しかし十両優勝後のある朝、二日酔いで稽古(けいこ)をさぼる。「『この野郎、いい気になって……』。私は持っていた青竹でメッタ打ちにした。青竹はバラバラになり、あたりに血が飛び散った」(『土俵に生きて 若乃花一代』東京新聞出版局)。

 「土俵の鬼」と言われた兄は「栃若」時代を築く。弟は「柏鵬」時代以降、小さな体で真っ向勝負を貫いた。そして子を「若貴」の両横綱に育てあげた。戦後の角界に長く大きな貢献をした「伝説の大関」貴ノ花?二子山親方が、惜しくも55歳の若さで逝った。