1944年、昭和19年の7月、激戦のサイパン島で日本軍が壊滅した直後、米紙に「島のジャンヌ?ダルク」と報じられた日本人女性がいた。鶴見俊輔さんが『昭和戦争文学全集/海ゆかば』(集英社)の解説に記している。

 「日本軍最後の玉砕地点で発見したのは、意外にも、手榴弾(しゅりゅうだん)で自決をはかり下腹部に重傷を負っていたワック(女兵士)だった……この勇敢な“女戦士”のヤマト?ダマシイに強く心をうたれた」。ニューヨーク?ヘラルド?トリビューンは、そう書いたという。

 この時に18歳だった菅野静子さんは、山形県で生まれて間もなく、一家でサイパンに近いテニアン島に移住した。44年6月、米軍がサイパンに上陸した時、陸軍野戦病院の看護婦を志願した。

 追いつめられ、やがて自決してゆく兵士たちを看護した。いよいよ米軍が迫った時、野戦病院を出て生き残るようにと言われたがとどまった。自決しようとし、意識不明の状態で発見される。

 トラックで収容所へ運ばれる途中、断崖(だんがい)の近くを通った。そこから身を投げた多くの女性の死体が、眼下の波打ちぎわに浮かんでいた。背中と胸に、子どもをひとりずつ縛りつけた人もいる。「日本の人は、なぜ、こんなに死ぬのでしょうね」。ひとりの将校が、泣いていた(菅野さんの手記「サイパン島の最期」から)。

 天皇ご夫妻がサイパンを訪問中だ。今日は、61年前に多くの女性が飛び降りた「バンザイ?クリフ」での慰霊も予定されている。あの戦争の時代は遠くなっても、遠のくことのない記憶がある。