争いごとでは、数が勝ち負けを左右する。しかし、やみくもに数を取りにかけずり回る姿には、うらさびしいものがつきまとう。


 有権者の前で繰り広げられている公示前の争いは、多彩な活劇とも、いつにも増してぎらつく政界流の芝居とも見える。池波正太郎さんには申し訳ないが、作品のタイトルを連想した。


 番犬の平九郎、首、錯乱、あばれ狼、かたきうち、間諜、舞台うらの男、鬼坊主の女……。短編「刺客」は、信州、松代藩のあくどい家老の手先になってしまった男?児玉虎之助の物語である。まっとうな藩政への改革をめざしている別の家老職の屋敷から江戸へ向かった密使の殺害を命じられる。


 刺客とは、表だって胸の張れる存在ではない。「虎之助は苦笑した。淋(さび)しく哀(かな)しい苦笑である」(『完本池波正太郎大成』講談社)。「刺客」のほかに「くノ一」や 「印籠(いんろう)」が飛び交う永田町かいわいは、池波さんが描いた人生の悲哀や機微の世界からは、かなり遠い。


 芝居といえば、英誌エコノミストにこんな見方が載っていた。「歌舞伎はどれも、門外漢からは、同じ筋書きに見える」。最後は相愛の心中で終わるが小泉歌舞伎の結末は違った、という。「小泉首相は突然幕を引き、郵政法案に反対する議員らと相憎んでの相互自殺に至った」。日本の政界では珍しいドラマで歓迎すべきだと述べている。


 日本にとって、本当に歓迎すべきことなのかどうか。それは、「相愛心中」か「相互自殺」かという政治的な芝居の結末ではなく、有権者の選択という結末で決まる。