夏の台風は時に迷走する。先日の11、12号のように二つが接近すると、とりわけ複雑な動きを見せて予報官を泣かせる。双子がにらみ合って大回転することもあり、これは「藤原効果」と特別な名で呼ばれる。いち早く研究した気象学者の藤原咲平(さくへい)氏にちなんだ。

 藤原氏は大正の末からラジオで気象解説を担当した。昭和16年、1941年に中央気象台長に任命されたが、4カ月後には天気予報が禁じられる。真珠湾攻撃の日を期して気象情報は機密とされた。台風の進路はおろか地震の被害や翌日の暑さ寒さも公表できなくなった。

 予報が再開されたのは、敗戦直後の8月下旬だった。ラジオが「今日は天気が変わりやすく、午後から夜にかけて時々雨が降る見込み」と放送した。ほぼ4年ぶりの予報だったが結果は外れた。

 気象庁刊行の『気象百年史』によれば、その夜のうちに豆台風が上陸し、東京を暴風雨が襲った。手痛い黒星に藤原氏は頭を抱えた。今なら非難の猛風を浴びたはずだが、当時の人々は違った。空模様の予報を聴くだけで、戦火が去った実感に浸ることができたのだろう。

 戦時中の翼賛的な言動が問題とされて、藤原氏は昭和22年春、公職から追放された。長女の霜田かな子さん(79)によると、そのすぐ後に体調を崩し、昭和25年の秋に永眠した。「気象学者としては無念な晩年でしたが、気象台の皆様は最期までご親切でした」と言う。

 郷里の信州諏訪には、後輩たちが建てた記念碑がある。没後半世紀が過ぎたこの夏も、気象台職員ら60人が集い、花を手向けた。