新聞記者が書く記事は、大きく三つに分けられると思う。一つは「何が起きているのか」、二つ目は「なぜ起きたのか」、三つ目は「それをどうとらえ、どうすべきなのか」

 一つ目は様々な事実についてのニュース記事だ。二つ目は分析や解説記事に当たる。三つ目は社説やコラムなども入るが、筆者の場合は日々苦吟している。

 記者は「何が起きているのか」を求めて世の中の動きに迫ろうとする。紙面の記事の多くはこの一つ目で、新聞の土台を成している。ここが揺らいだのでは二つ目、三つ目も揺らぎかねない。

 ましてや、虚偽の内容が記事になるようでは、報道機関として成りたたない。その、あってはならないことが、本紙の選挙報道の中で起きてしまった。読者や関係者には、深くおわびしなければならない。

 目方の軽い新聞紙は、いわば、吹けば飛ぶような存在である。しかし、そこには人と時代の営みが詰まっている。そしてそれらが、世の中の姿を的確に映しながらつづられている時に、新聞は初めて、読者の信頼に裏付けられた重みを持てるのではないだろうか。

 新聞記者になって30年以上になるが、今も、輪転機が一斉に回る姿を思い浮かべると心が引き締まる。何もなかった真っさらな紙に記事が印刷され、世の中に出てゆく。出たものは、もう取り返しがつかない。それは、ささやかだが厳粛な事実の誕生であることを改めて胸に刻んでおきたい。これ以上読者の信頼を損なえば、輪転機を止めざるを得ない日すら来かねない。覚悟を胸に出直したい。