漂流中に救われて米国で10年暮らした幕末の漁師ジョン万次郎は、帰国後、藩の子弟に英語で数をこう教えた。ワン、ツウ、テレイ、ソワポゥ、パッイワ。1から3はわかるが、4と5は現代人には理解しがたい(斎藤兆史『英語襲来と日本人』講談社)。

 英語の音を日本語に置き換えるのは難しい。同じ課題に終戦直後の出版界も直面した。米兵に何か売るにも、占領機関に職を求めるにも、とにかく通じる英語が欠かせない。次々に出版された英会話の手引書はどれも発音表記に工夫を凝らした。

 まっ先に出て人気を呼んだのが誠文堂新光社の『日米会話手帳』である。今から60年前の9月15日に売り出された。復員した編集者加藤美生氏が、英語に強い大学院生の力を借り、突貫作業で79の文例に発音を付した。

 タマネギはオニオンでなくアニヤン、料理屋はレストランでなくリストウラン、「お掛けなさい」のTake your seatがテイキヨゥスィートである。限りなく原音に近いカタカナをという気迫が感じられる。

 3カ月余りで360万部が売れた。「出社すると、玄関前に空のリュックを抱えた書店主が大勢待ち構えててね」。ブームのさなかに生まれた長男美明氏(59)は、加藤氏から思い出話を聞いている。

 81年に黒柳徹子さんの『窓ぎわのトットちゃん』が出版されるまで、戦後ベストセラーの首位を保った。加藤氏は10年前に79歳で亡くなり、1冊が家族に残された。紙質が悪く、触れると指先からポロポロ崩れる。いまは書棚の隅で静かに眠っているそうだ。