「雪を掃(はら)ふは落花(らくくわ)をはらふに対(つゐ)して風雅(ふうが)の一ツとし和漢(わかん)の吟詠(ぎんえい)あまた見えたれども、かゝる大雪をはらふは、風雅の状(すがた)にあらず」。越後の大雪や暮らしぶりを描いた鈴木牧之の『北越雪譜』(岩波文庫)の一節だ。雪下ろしは、土を掘るようだから「雪掘(ゆきほり)」と呼ぶともある

  周りの雪の白さとは対照的に、四角い暗い穴がぽっかりと開いている。新潟県小千谷市の旅館「篠田館」で、浴場の屋根が落ちた現場の写真である。いたましいことに、ふたりの男性が亡くなった

  あの地震の後、宿の主人らは客室を一つずつ片付け、間もなく営業を再開した。水道が使えるようになってしばらくは、浴場を住民に無料で開放していた

  あるなじみ客が支援にかけつけると、主人が言ったという。「いつもの4倍の毎日80人以上が入るため、普段より忙しい。4キロもやせた」。鉱泉をボイラーで沸かすので経費がかかる。「まあ、困った時はお互いさま。お金は取れません」

  浴場で亡くなったひとりは、鉄道の復旧工事で働いていた。もうひとりは、近くの自宅が地震で被害を受け、仮設住宅に入っていた。被災者や復旧に携わる人たちにとって、信濃川を望む湯は慰めであり、明日への力にもなっていたはずだ

  牧之は「(雪)掘(ほら)ざれば……力強(ちからつよき)家も幾万斤(いくまんきん)の雪の重量(おもさ)に推砕(おしくだかれ)んをおそるゝゆゑ、家として雪を掘(ほら)ざるはなし」とも記している。旅館では「屋根の雪下ろしは毎日やっていた」という。市は、旅館を「半壊」と認定していた。雪の追い打ちを振り払う手だてが尽くされるようにと願う。