ゲーテの大作「ファウスト」の総行数は万を超え、12111行に及ぶ。読み通すのが難しい名作の一つだが、心に強く残るくだりは多い。

  ファウストが、悪魔のメフィストフェレスと賭けをして語る場面もそうだ。「己が或る『刹那(せつな)』に『まあ、待て、お前は実に美しいから』と云つたら、君は己を縛り上げてくれても好い。己はそれ切(きり)滅びても好い」(森鴎外訳 岩波文庫)。

  結局ファウストは、様々な遍歴を経た後、「刹那」に向かって「止まれ、お前はいかにも美しいから」と呼びかけ、絶命する。メフィストは「この気の毒な奴は、最後の、悪い、空洞(うつろ)な刹那を取り留めて置かうと思つた……時計は止まつた」

  止まっていた時計が、60年ぶりに動き始めたかのような記事が載った。戦時中、情報工作員を養成していた「陸軍中野学校」の、たまたま焼却されなかった教科書が、卒業生の手元に秘蔵されていたという。「宣伝」の教科書に、メフィストフェレスが登場する。

  「『メフイスト』氏ノ手口ヲヨク研究シテ見ルト其ノ極意ハ『身ヲ磨(す)リ寄セテ行ク気持』デアル」。例えば前線での敵将兵への放送では、「貴方方ガ前線ニ出テ来タ愛国的ナ気持ハヨク解リマス」と、まず同情し、後に問う。「デスガ貴方方ノ努力ハ一体誰ノ利益ニナルノデセウカ」

  ゲーテのメフィストとは、役回りは異なっているようだが、この教えは、戦争の現実とは、どう擦れ合ったのだろうか。悪夢のような刹那を呼び止めてしまった時代を記録する、貴重な手がかりとして生かしたい。