昨日の夕方近くだった。広島市の女子児童の殺害事件について書いたコラムへの感想のお便りを手にした。幼い子をもつお母さんで、住んでいる九州の町でも、先日児童が車の中から声をかけられ、注意を促すプリントが配られたという。

 PTAなどが巡回し、安全マップを作ったそうだ。親や学校、地域の人たちが死角をなくそうと必死になっている様子がうかがえた。そこへ、茨城県で幼い女の子の遺体が発見されたとの報が入ってきた。そして夜には、栃木県内で行方不明になっていた女児と確認された。子どもを守ろうとする努力への挑戦にすらみえる。

 広島市の事件で逮捕された容疑者は犯行を認める供述を始めた。弁護士に不可解なことを言ったという。「悪魔が自分の中に入ってきて体を動かした」。日本の通学路は「悪魔」の所業を許すような恐ろしい道になってしまったのか。

 遠い昔、小学校に通った道には、地域の人たちの幾つもの目があった。何か変化が見つかれば、その信号は波のように伝わっていくようだった。今は見知らぬ人が居ても必ずしも変化とは感知されないし、都会は見知らぬ人で満ちている。

 先日のコラムは、幼い子の頭をなでるようなしぐさで「子ども」を表す手話のことから書いた。九州からのお便りに、こんな一節があった。「『愛す』『大切にする』の手話は、円を描いた手の下にもう片方の手をそえます。寒い時、手の甲をこするように」

 幼い子のいる人もいない人も、手と手を合わせて、「守る目」をつくれないものだろうか。