Archive for 12月, 2005

 右の手のひらを、胸のあたりで下に向ける。そして水平に小さく回す。手話で、「子ども」を表す手の動きの一つだ。頭をなでるようなしぐさからは、幼い命をいとおしむ気持ちまでが伝わってくる。

 身長120センチというから、ちょうど手話で「子ども」を表す時の右手の下あたりの背丈になるのだろうか。学校からの帰りに殺害された広島市安芸区の小学1年の女子児童は、その体を折り曲げられ、家庭用ガスコンロを梱包(こんぽう)する段ボール箱に押し込められた姿で発見された。いたいけな子に対するむごい犯行に、胸が詰まる。

 事件が発生してから8日後の昨日、30歳の男が、殺人と死体遺棄の容疑で広島県警に逮捕された。県警によると、通学路沿いのアパートに住んでいる日系ペルー人で、容疑を否認したという。

 調べでは、事件の直前、容疑者が自宅の前で女児と話をしているのが目撃されたという。段ボール箱などの遺留品の捜査でも容疑者に行き当たったというが、取り調べは始まったばかりで、犯人と確定したわけではない。県警は捜査を尽くして、事件を究明してほしい。

 小1女児、小1女児、小2女児、小1男児、小2女児。昨年までの約10年間に、全国各地で下校中に子どもが殺害された事件をたどると、低学年、特に入学して間もない1年生が被害に遭う例が目立つ。例えば、せめて小学校の低学年まではバスで送迎をするといった手はないものだろうか。

 下校時の安全を百%確保することは難しい。しかし、幼い命が再び絶たれないよう、手だては探り続けたい。

 かねがね不思議に思っていた光景を、ことしも目にした。場所は東京?銀座である。老若男女が朝から黙々と列をなす。めざすは年末ジャンボ宝くじだ。大阪や名古屋、福岡でも行列ができる。

 銀座では、1番売り場の列がとくに長い。隣の2番ならすぐ買えるのに、「1等を当てるには1番だ」と縁起を担ぐ人が多いからだ。売る側も心得ていて、ちゃっかり1番だけ窓口を二つ設けて大量にさばいている。それでも大安のきのうは「3時間待ち」だった。

 来月でもゆっくり買える。「残り物には福がある」ともいう。なのに、なぜ、いま並ぶのだろう。「先んずれば人を制す」「並ぶ努力が幸運を招く」と力んでみても、しょせん運まかせだ。なにしろ1等は1千万枚に1枚しかないのだから。

 60年前の戦争末期、戦費調達のために売られた「勝札」が、現在の宝くじの原型だ。1等賞金は1968年に1千万円になる。その1等が40本に増えた76年には客が売り場に殺到し、2人の死者も出た。その後も1等は増額され、96年に1億円を超え、99年から「1等と前後賞合わせて3億円」が宣伝文句になる。

 買いもしないで、つい3億円の使い道を考えて笑った覚えがある人もいるだろう。かと思えば、当たりに気づかぬ人も多い。昨年の年末ジャンボの1等約70枚のうち5枚、10億円分がまだ換金されていない。随分と値の張る「うっかり」だ。

 億単位のお金の話で、ヤンキースの松井秀喜選手の契約額60億円余を思い出した。宝くじなら、なんと20年続けて「3億円の大当たり」か、と。

  本来应该早睡,又被扰乱了心神。因为HL那边再有人说些不好听的话。每次看到这些东西,我都让告诉自己要习惯,要习惯,互联网就是这样。可是每一次每一次,都还是难受得很。


  已经记不得第一次看他被骂是什么时候了。其实每次难受的都是我,至少表面是这样。因为是自己人的缘故,我会跟他说:你不写那些东西就行了。因为我觉得没有必要去冒犯别人。这种近乎忍辱吞声的想法大概会遭到许多人耻笑吧,我却借此获得一时的安宁。说到底,我并不是个有自信有主见的人,听到反对意见,一定会怀疑自己的判断,一定会把反对意见提到至少平等的位置来冲击自己的想法。就像这次,他写下批文之初,我就问:真的是你第一个翻译的吗?最后被伤害的只有我最亲近的人而已。这样的话,大概很容易变成骑墙派。而常识告诉我,骑墙并不是什么光彩的事,于是,我选择沉默。


  是的,我就是这样的人。小时候,妈妈人前人后都不会表扬我。我于是以为自己一无是处,像刺猬一样在心门外竖起了铁蒺藜,把自己包围。现在,我像妈妈一样,觉得做人要低调。莫说显摆、张扬,甚至连正常的表达都可能前瞻后顾。谦卑地不作任何奢望,最后以为喜出望外是真的。写下这些的时候,自己都觉得可笑。有人提过消极的乐观派,积极的悲观派之类的说法,那时我想:消极的乐观派,多好的说法,就是我吧。伪装乐观的意思……


  所以我经不起骂。HL与你我一样像每一个从前被称为知识分子的人(我们算知识分子吗?)有些不知该叫骄傲、自信还是清高的脾气(他自己不承认)。我与他的不同,大约只在于他并不刻意掩盖。仔细想来,这应该不能算作缺点。他好像真的能做到:让他们说去吧。真的可以吗?别人也能够吗?偶尔,我也会不在乎,但那是因为我不在乎那说话的人。可是,用心写下心里所想,最后却被践踏的感觉真是不好受。


  勇于表达自己的人或许本来就有更高的承受能力。我还是守着我这个两位数的点击量自己过生活比较安全。