被爆60年の取材のため、長崎に来ている。昨日の参院での郵政法案否決の場面は、本社の長崎総局のテレビで見た。

 「江戸の敵を長崎で討つ」という言葉が思い浮かんだ。意外な所で、あるいは筋違いのことで昔の恨みをはらすという成句だ。この解散には、「参院の敵を衆院で討つ」感じがつきまとう。名付ければ「江戸の敵解散」か。衆院から見れば、通り過ぎていったはずなのに戻ってきた「ブーメラン解散」でもある。

 これを「筋違い解散」と呼ぶ向きもあるだろうが、世間一般の受け止め方はどうだろう。昨今の八方ふさがりのような気分を転換して、見通しの良い世の中に向かうきっかけになるのなら解散もいいという機運もあるようだ。

 前回の03年の解散は、かなり前から解散説が流れていたので衝撃は小さかった。予告された「透け透け解散」とか、解散の大義が見えにくい「大義なき解散」などと、本欄で呼んだ覚えがある。

 今回は、決着の間際まで小泉首相の一言が注目された。「殺されてもいい。おれは総理大臣だ」。首相にとっては、「いのちがけ解散」ということか。「かむんだけど、硬くてかめないんだよ」。首相との最後の談判の後、森?前首相は、つまみに出されたというチーズのかけらを手に「変人以上だ」と評した。「超変人解散」とでも言いたいところか。

 首相は「おれの信念だ」とも述べたという。強い「信念」を持っているのは確かのようだが、問題はその中身ではないか。「おれの信念解散」に続く総選挙では、その中身を改めて吟味したい。

 作家の堀辰雄が4歳か5歳で見た花火の群衆の記憶を「幼年時代」に書いている。ものごころつく前だったのに、花火見物の人波に押されて母の背で泣きじゃくったことは鮮明に覚えていると。年譜によれば明治40年ごろ、東京?隅田川の花火を見たようだ。

 隅田川の花火は徳川吉宗の時代にさかのぼる。江戸庶民に人気のあまり雑踏事故が何度か起きた。明治の半ばにも橋の欄干が崩れて数十人が転落死した(小勝郷右『花火-火の芸術』岩波新書)。

 今年も全国で大小700もの花火大会が開かれている。どこも資金不足に雑踏対策が重なって、かなりの難事業になりつつある。たとえば千葉県の印旛沼花火大会の場合、毎年30万人を集める行事だったが、今夏は中止された。4年前に兵庫県明石市で起きた事故の教訓で警備費が膨らみ、一方で協賛金が集まらない。

 主催の佐倉市観光協会の斉藤啓光さんは「明石の事故は各地の花火を変えた。どこも警備費を増やし、観客の誘導が綿密になった」と話す。以前なら50人で足りた警備員を昨年は299人雇った。

 花火での雑踏事故は海外にもある。英国では18世紀、王族の結婚を祝う花火で群衆千人がテムズ川に転げ落ちた。カンボジアでは約10年前、国王誕生日の花火に市民が殺到して死者が出ている。

 「地獄絵図さながらの群集雪崩」。明石の惨劇を、神戸地裁の判決はそう表現した。善意の群衆がたちまち他人を押しつぶす暴力装置に変わる。あの怖さを胸に刻みつつ、この夏もどこかで、夜空を彩る一瞬の美を楽しみたいと思う。

 きょう、広島市の平和記念公園では、被爆から60年の平和記念式が開かれる。式場に近い図書館の庭に、英国の詩人、エドマンド?ブランデンの詩碑がある。

 「かの永劫の夜をしのぎ はやもいきづく まちびとの……とはに亡びし もののあと たちまち動く 力あり」。戦前、東大で英文学を教えたこともある親日家のブランデンは、被爆から3年後の広島を訪れ、焦土から立ちあがろうと力を尽くす人々の姿にうたれた。

 「ヒロシマ よりも 誇らしき 名をもつまちは 世にあらず」。末尾には「友?寿岳文章 訳」とある。

 この60年、「ヒロシマ」と「ナガサキ」は、反核兵器のメッセージを世界に発信し続けてきた。原爆の惨禍を展示した平和記念資料館に置かれている「対話ノート」にも、外国人の書き込みが目立つ。ノートは900冊を超え、約90万人のメッセージから326人分を収めた『ヒロシマから問う』が出版された。

 原爆を投下した米国人に、二通りの感想が見える。「このミュージアムは私の国の間違った行為について私にはっきりと教えてくれました」。「このミュージアムは、世界平和のための希求よりも、日本人に対する哀れみのための希求をより印象づけようとしているようだ」

 感想はどうあれ、広島、長崎に来れば、核兵器を使うことの実相の一端に触れることができる。いつの日か、米国の大統領が広島、長崎を訪れ、その実相と向き合う時は来るだろうか。せみ時雨に包まれたブランデンの碑の前で、その日が遠くないことを願った。

 暑い時分には、塩味はやや濃いめで、酸味も強めが望ましい。これは勝手な好みでしかないが、料理に味の加減はつきものだ。足す引くだけではなく、割ったり掛けたりもする四則演算の舞台である。

 料理をすると「脳」が鍛えられる、という記事が本紙に載っていた。料理を習慣づけると、前頭部の血流が良くなり、判断したり計画を立てたりする脳の機能が上向くそうだ。材料を、加減乗除で思い通りの姿と味に仕上げる。難しい課題に挑むことに通じる気はする。

 帝国ホテルの総料理長として活躍し、84歳で亡くなった村上信夫さんは「料理は腕で作るのではなく、頭で作るもの」と書いている(『村上信夫のフランス料理』中央公論社)。波乱に富んだ人生を思えば、「頭で」の意味合いは、そう単純ではなさそうだ。

 東京?神田の大衆西洋料理屋に生まれたが、両親を早くに亡くした。小学校に通えたのは6年生の2学期までで、3学期からは洋食屋で働き、仕事の合間に登校した。卒業はしたが出席日数が足りず、ひとりだけ卒業証書をもらえなかった。

 67歳の時、NHKの番組で、母校の小学校の子供たちにカレーづくりのコツを教えた。お礼にと校長先生がくれた卒業証書に、「昭和九年三月二十四日」と書き込んだ。「卒業証書をもらえない卒業式の日付を私は半世紀あまりも忘れたことがなかった」(『週刊朝日』)。

 フライパンのような丸顔と笑顔が魅力的だった。その風貌(ふうぼう)のようにふくよかな味の世界には、ちょっとしょっぱい人生の味加減が利いていたようだ。

 昨日の朝6時ごろ、出張先の宿で目が覚めた。朝刊を手にテレビをつけると、飛行機が燃えている。カナダの空港に着陸した直後のエールフランス機だという。垂直尾翼が地面近くから突き出ている。胴体は壊れたのか、ほとんど見えない。黒煙が上がる。

 大惨事かと思ったが、幸い、そうではなかった。300余人全員脱出、死者なし、けが人は軽傷、などと続報が流れた。滑走路からオーバーランし、衝突、炎上で結果がこれなら、よほど幸運が重なったのだろう。カナダの運輸相は「奇跡としか言いようがない」と述べたという。

 「奇跡」は、なぜ起きたのか。想像するのは、全員が脱出し終わるか、それに近いころまで炎が広がっていなかったということだ。

 迅速な動きと冷静さが、結果を決める。乗員の的確な指示と乗客の敏速な対応、協力が欠かせない。詳しいことは不明だが、人の動きと、出火の時期や火勢、くぼ地に突っ込んだ時の速度などの要因が掛け合わされて「奇跡」がもたらされたような気がした。

 帰京する新幹線で、猛スピードで後ろに飛んでゆく車窓の景色を見つつ思った。新幹線の速度は、ジャンボ機が滑走路に着陸する時の速度に近い。もし翼があれば飛びそうな速度で、これだけ大量の輸送を重ねながら、長年事故がない。これも、一つの「奇跡」とは言えないだろうか。

 安全確保のために昼夜を分かたず励む、数多くの人たちがいる。天災など、人知を超える事態もいつかは起こり得るが、この「奇跡」は、いつまでも続いてほしいと思った。

 ふるさとへ、あるいは海へ山へ、多くの人が旅をする季節である。しかし、車で移動する人たちは、今年は複雑な思いを抱いているのではないか。日本をつなぐ幹線道路を造ってきた日本道路公団が、公団ぐるみで「官製談合」に関与していた疑いが濃くなっている。

 もう一つの「談合」も浮上した。公団と国土交通省が、公団民営化推進委員会の懇談会への、幹部の出席を見送ったという。「事件が捜査中で委員の質問に答えられない」「談合対策で多忙」などと弁明しているようだが、両者間に「欠席談合」があった気配が感じられる。

 本来、推進委員会は、道路をめぐる構造的な問題を、広く深く検討する場のはずである。そこに背を向けるような姿勢をとるのでは、両者に日本の道路の将来を託すことはできない、との思いが強まる。

 公団が約20年前に刊行した『日本道路公団三十年史』に、終戦直後の道路の状況が記されている。「(昭和)20年度末における我が国の道路総延長は89万9000kmで、このうち舗装されていたのはわずか1?2%である」。戦後しばらくは、どろんこの道も多かった。

 昭和21年、民俗学者で歌人の折口信夫が「日本の道路」と題した一文を書いている。「まつ直な道、うねつた道、つゞらをり、光る道、曇る畷道、さうした道の遠望に、幾度魂を誘はれたことか」(『折口信夫全集』中央公論社)。

 人に寄り添っていたはずの道が、国や公団、業界のものになってはなるまい。戦後60年、この国の道を本来の姿につくりかえる時である。

 プルートー(Pluto)は、ローマ神話の黄泉(よみ)の国の神である。そんな名前をつけられた星を、日本では冥王星と呼んでいる。75年前に発見され、太陽系の最も外側を回る第9惑星とされるが、本当に惑星と言えるかどうかで論争があるという。

 星にとってはどちらでもいいことかも知れないが、今度は「第10惑星が見つかった」と、米航空宇宙局(NASA)のジェット推進研究所が発表した。第3惑星?地球に居る身からは、この太陽系が何人きょうだいなのか、いささか気になる。

 この星の存在は、2年前に米?パロマー天文台の望遠鏡で確認された。遠すぎて正体不明だったが、軌道を調べ直して太陽を周回していることがわかった。

 確かに遠い星だ。太陽までの距離が、遠い所では、地球から太陽までの距離の100倍近い。公転の周期が約560年というから、この星が、今いる位置に前回いたのは、地球ではあのレオナルド?ダビンチが生まれる少し前ごろになる。惑星と認めるかどうかは国際天文学連合で決めるそうだ。

 惑星の「惑」は天空で惑うかのように位置を変えるからという説がある。その惑いの妙が、古来、人を引きつけてきた。〈金星は下潜(くぐ)りつつ月の上に土星は明し光りつつ入る〉。1933年に起こった、金星と土星が続けて月の裏側に入る珍しい現象を見て、北原白秋が詠んだ。〈母と子ら佇(た)ちてながむる西の方(かた)月も二つの星を抱きぬ〉。

 冥王星や「新惑星」の惑いは、肉眼ではとうてい見えないが、静かに宇宙の闇を行く姿への想像を誘う。

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