終戦の翌々年の生まれなので、その日のことは直接には知らない。しかし昭和20年、1945年の8月15日は、頭のどこかに住みついているような気がする。この日を、あるいはこの日に至る日々を伝えるものに接する度に、その意味を考えさせられてきた。
さまざまな人の日記に、その日の思いが記されている。それぞれにひかれるものはあるが、「戦後還暦」の年に改めてかみしめたいのは作家?大佛次郎の『敗戦日記』(草思社)の一節だ。
「自分に与えられし任務のみに目がくらみいるように指導せられ来たりしことにて……」。軍人たちが敗戦という屈辱に耐えうるかどうかを思い惑って眠れないというくだりだが、ことは軍人に限らない。
「与えられた任務のみに目がくらんだ」のは、国民のほとんどだった。戦争が始まり、ことここに至っては軍人は軍人の、政治家は政治家の、あるいは親は親の、子は子のあるべきだとされる姿に向かって突き進んでしまった。国そのものの向きがどうなっているのかという肝心なことは見ず、それぞれに与えられたと思う狭い世界に閉じこもった。
国民の、ある種のひたむきさには胸がつまる思いもするが、歯止めの無い奔流は、自国民だけではなく周辺国などを含むおびただしい人の命を奪い去った。メディアもまた、本来の任務を踏み外していたと自戒する。
今日は追悼というだけではなく、与えられた任務のみに目がくらんでいないかどうか、それぞれの場で問い返したい。この今を「戦前」などと呼ぶ日の来ることがないように。
周一 15 8月 2005
8月15日
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周一 15 8月 2005
8月14日
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中米コスタリカ出身の女性マリセル?フタバさん(50)は東京在住23年、日本語の新聞も大意ならわかる。「コスタリカ消滅」「コスタリカ崩壊」。先週そんな記事が目に飛びこんできた。母国で何か大変なことが起きたらしい。
料理店を営む夫の二葉新一さん(58)に尋ねた。「コスタリカ」は日本独自の選挙用語で、同じ党で地盤も重なる候補者が共倒れを防ぐため、小選挙区と比例区に交代で立つことを指す。言われていっそう混乱した。私の国にそんな制度はない。
コスタリカ国会は一院制で57議席すべてが比例式で決まる。中南米の政治に詳しい富山大の竹村卓教授によると、腐敗を避けるため議員の連続当選が禁止され、任期を終えたら4年待たないと再挑戦できない。日本のコスタリカ方式の実情を現地で説明すると、だれもが「誤解だ」「印象が悪い」と困った顔を見せる。
日本で中選挙区が廃止された90年代、候補者の一本化が各地でもつれた。編み出されたのがコスタリカ方式だ。日本コスタリカ友好議員連盟の重鎮、森喜朗前首相が提案したと当時の記事にある。連続当選禁止が念頭にあったようだが、いかにも強引なこじつけである。
共存共栄のコスタリカの誓いがこの夏、相次いで破られつつある。郵政法案に反対した前議員が公認を得られず、小選挙区で同じ自民党の賛成派候補に正面からぶつかる。
刺客、弾圧、大獄、国替えなど乱世を思わせる言葉が飛び交う。おりしも今月半ば、コスタリカから来日するパチェコ大統領の目に、日本の選挙はどう映るのだろう。
周一 15 8月 2005
8月13日
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「八月十三日……日本はまだ決断しない」。45年8月、ドイツの作家トーマス?マンが、米カリフォルニアで記した。ナチスに抗して亡命しており、大戦の決着をそこで見つめていた。
8月の日記には「原子爆弾による広島市の不気味な破壊」「長崎市に投下。天に向かって巨大なきのこ雲」などとある。「十四日 日本の無条件降伏、すなわち第二次世界大戦終結のニュースがあらしのように伝わる……日本軍は完全にその狭い島へ追い返される」(『トーマス?マン 日記』紀伊国屋書店)。
マンは「魔の山」や「ブッデンブローク家の人々」などで知られる。29年にはノーベル文学賞を受けたが、ナチスによる焚書(ふんしょ)に遭い、終戦後もなかなか帰国しなかった。
48年の元日、本紙に「日本に贈る言葉」を寄稿した。「日本の古く高貴なる文化」への好意を語り、敗戦に触れる。「日本が無謀な支配層のために冒険に突入すること、その結果が必ずよくはないだろうことを私は前から信じていた」。しかし敗北にも「利点」はあり、勝者は自分たちのものは最良という結論に陥りやすいと述べる。
さらに「『平和』こそ人間生活の至上の概念かつ要請」であり「その厳粛さの前に立てば如何なる国民的英雄も精神も時代遅れな茶番でしかない」という。そして「人類の召使として生きる時その国民の上に光栄は輝くであろう」と結んだ。世界大戦を繰り返した故国への苦い思いと、新生?日本への期待が込められている。
やがてマンはスイスに移住し、50年前の8月12日に80歳で他界した。
周一 15 8月 2005
8月12日
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あれから二〇年、本当に、いろいろなことがありました-。520人が死亡した日航ジャンボ機の墜落事故から、今日で20年になる。それを機に出版された遺族の文集『茜雲(あかねぐも) 総集編』(本の泉社)で、美谷島邦子さんは、9歳だった息子の健君に語りかけるように文をつづっている。
「今も、君のノートや鉛筆がここにあります。夏休みのヘチマの観察日記は、『八月一一日つるがのび、小さいつぼみがみえた』という事故の前日に書いた文字で終わっています。お父さんは、この文字をいまだに見たがりません」
弟夫婦とめいを亡くした池田富士子さんは、文に短歌を添えた。〈あまりにも 早きに逝きし弟の 歳をおりてはまた胸あつくす〉。弟夫婦の遺児ふたりは大勢の人に支えられて成長し、今は結婚してそれぞれ幸せに暮らしていますとあり、末尾には生存者のひとり川上慶子さんの伯母と記されている。
事故の翌日、生存者発見の報が本社に届いた時のことは、今もなお記憶に新しい。あわただしく夕刊の記事を書いていた記者たちの間にも、言葉にならない感動が走った。
絶望的な色合いの濃かった紙面を取り換える。直後に社会部から原稿を受け取った入力担当部員も、涙をこらえながらキーボードを打ったという。
二度と繰り返してはならない巨大事故だった。遺族の会「8?12連絡会」の事務局長を務めてきた美谷島さんは、文をこうしめくくっている。「二九年間、健ありがとう。……これからも君と一緒に空の安全の鐘を鳴らし続けていきたいと願っています」
周四 11 8月 2005
8月11日
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平らな地面に、わざわざ高い枠を置く。ひとつだけではなく、その先にもそのまた先にも置いておく。ハードルが立ち並んだ障害競走のコースには、人間がスポーツのルール作りで見せるユーモラスな一面が映っている。
英国に源流があるという。牧羊業などで土地の「囲い込み」が起きた後、できた垣根を使った馬による競走の時代があった。現在のような競走の元は、19世紀半ばのオックスフォード対ケンブリッジの大学対抗戦のレースだった。羊の囲いが使われた(宮下憲『ハードル』ベースボール?マガジン社)。
昨日の未明、寝苦しさで起きてテレビをつけると、陸上の世界選手権を中継していた。為末大選手が出る400メートル障害の決勝が始まるところだった。ヘルシンキはどしゃぶりだ。これも一つの障害かと思った時、号砲が響いた。
選手がハードルを越える瞬 間の形が美しい。足を思い切り伸ばし、一方の足を素早く持ちあげる。前傾した上体と道筋を読む目が、獲物を追うしなやかな動物のようだ。
最終コーナーを回る頃、為末選手の口がかすかに開き、ほほえんだように見えた。最後はもつれたが倒れ込んで銅メダルを手にした。不振、不運、父の死を経て「勝利」をつかんだ。雨と汗と涙の入り交じるゴールインだった。
宇宙からは、野口聡一さんたちのスペースシャトルが、無事ホームインした。難しい任務をしっかり果たしたという満足の笑みもいい。天と地と、ふたりの道は違っても、ハードルを乗り越えた姿には、周りをも力づける輝きが宿っている。
周四 11 8月 2005
8月10日
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9日午前11時2分、長崎市の「原子爆弾落下中心地」の碑の下から空を見上げた。太陽が目を射る。60年前のその時、地上約500メートルの所で原爆が炸裂(さくれつ)した。
太陽が落ちてきたようなありさまを想像する。直後の映像や被爆した人たちの証言、原爆の資料館の展示などを念頭において周囲に目をこらし、また瞑目(めいもく)して考える。来るたびにそうするが、実際に何がどうなったのかを想像できたというところには、とうてい至らない。やはり、人間の想像をはるかに超えるおぞましい行為が人間によってなされた現場というしかないのか。
8日、爆心地から1キロ余りの所にある長崎大学の構内の慰霊碑の前で、花に水をやる女性がいた。今年で70歳という女性は、小学校5年の時に被爆した。爆心からやや離れた自宅に居たため生き延びたが、当時この地にあった兵器工場で働いていた父親を失った。「遺体も見つかりませんでした」。60年間、父は行方不明のままだ。
9日、爆心地近くの丘に立つ浦上天主堂で「被爆マリア像」が公開された。もとは大聖堂の祭壇に飾られていたが、あの日、わずかな側壁を残して建物が吹き飛んだ。後日、木の像の胸から上だけがみつかった。
間近に見ると、ほおや髪が焦げている。眼球が抜け落ちた両の目は、黒くうつろで、底知れない二つの闇のようだ。
いたましい姿だが、不思議な生命力を感じさせる。像の失われた部分は、長崎であり、広島ではないか。マリア像はその存在の証しであり、その記憶を未来に伝えようとしているように思われた。
周四 11 8月 2005
8月6日 吴泽
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著名历史学家,原国务院学位委员会学科评定委员会历史学科评议组召集人、《中国历史大辞典》总编、上海市历史学会副会长、华东师范大学历史学系主任、中国史学研究所所长吴泽教授,因病于8月6日晚在上海华东医院逝世,享年92岁。
吴泽原名吴瑶青,笔名胡哲夫、哲夫、宋鱼、宋衍等,1913年出生于江苏省一农民家庭。1930年代考入中国大学经济学系,师从李达、黄松龄、吕振羽等名师。大学三四年级时,他就发表了重要论文《殷代经济研究》,在学术界引起很大反响。抗战时期出版的《中国原始社会史》、《中国历史大系·古代史》和《中国历史简编》更是这一时期中国史学界的代表性成果。
解放后,吴泽担任大夏大学校务委员会委员、文学院院长,并于1954年招收新中国第一批中国史专业的研究生。文革中,吴泽被诬为华东师范大学的第一号“反动学术权威”,从此被剥夺了教学权利。在艰苦的环境中,吴泽仍然没有放弃学术研究,在文革后期冒着巨大的风险书写《新唐书》中《藩镇列传》的研究笔记。此后,吴泽先后担任华东师范大学历史系主任等多种重要职务,十几年来桃李满天下,其中许多已经成为学科的带头人。吴泽在华侨史和客家学研究、中国史学史和史学概论的研究以及吴文化和常州学派的研究上,都卓有建树,著作等身,对中国历史学的发展起到了重要的推动作用。
周四 11 8月 2005
8月7日 黎莉莉
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著名表演艺术家、原北京电影学院教授黎莉莉女士因突发大面积心肌梗塞,在北京宣武医院经抢救无效,于8月7日凌晨5时20分病逝,享年91岁。
黎莉莉是中国电影默片时代著名女明星中最长寿的一位。上世纪三四十年代她出演的《小玩意》、《大路》、《塞上风云》等片曾风行一时。她的去世,标志着中国电影一个时代的远去。
周二 9 8月 2005
某日,googoo在校友录说:有一个做总监的同事溜了,以求学之名。现在一听到谁谁谁说要读书,心里第一反应就是猜想那个人要开溜。一说读书,不用交代新公司,不用接受挽留,感觉又进取,几好啊,但是需要继续说一个又一个新的谎言不断遮盖。
其实,每次有人告知辞职的消息,总是为他们高兴。因为大多是两种情况:1) 有了新的目标;2)决意思量新的目标。鼓起勇气结束现有的一切和开始新生同样那么好,为什么不高兴呢?也许是年轻的缘故,至今不能从心底理解父辈关于退休的担忧,也不能认同换工作就是没有长性不踏实的观念。我只觉得,做事情,只要尽心尽力,善始善终,便无愧于心。至于是否在某一行业甚至某一单位穷极毕生的精力,就只能看各自的心向了。
人生苦短,真正短得紧!我虽从不认为自己能得高寿,然而即使真能活到80,那么大学毕业之时,已是过去了1/4。20听着不是大数字,可1/4就不能小瞧了。譬如大学,过了大一酸甜苦辣五味杂陈的岁月,大二寻寻觅觅,大三如鱼得水,便迎来人心惶惶的大四。记得吗?最后两年,过得尤其快。第二个20年,糊里糊涂地成人了。还不知道自己是谁,想要什么,便要在这一期完成创业、成家、教子、养亲等许多重任。你说,才到40呢。可我以为,40以后的人,就像大三的学生,对学校的一切已是驾轻就熟,有了主人的感觉。他们正成为大小领域的中心,挥斥方遒。同此时,他们也受到新生力量的冲击,家里的孩子,单位的员工,还有日新月异的世界。听取?反驳?接纳?拒绝?犹犹豫豫、欲拒还迎、欲迎还拒之间,卸任、退休、更年期……接踵而来。是如鱼得水,也是如履薄冰、不容有失的第3/4。最后20年,没什么新鲜的。至好不过“万众”景仰,孝子贤孙,却美人英雄都已迟暮,有心无力了。若有人笑我这是上一辈的生活,那“二十一世纪的新人”除了“过劳死”去的,还有什么经验值呢?或者,谁又不在重复第2/4的故事呢?
于是认为,只要想到要做的,就做。做好。工作与事业,全然不同的四个字组成两个词。对人,如果不能在工作中找到乐趣、快感、方向,不能将工作变成事业,便只是碌碌地履行职责。便是将这1/3的时间,交予老天玩弄。也能成功,也能获得褒奖,却没有更多的快乐。对事,即使只是炒一盘小菜,烹饪者的心情、喜好、热情等诸项看似主观且无关的因素无不跃然盘中箸尖。更何况工作?这便是我不以辞职为恶的原因,如不能爱上这个工作,不糟蹋也是慈悲。
有过一位朋友,十年前学了至今热门实用且时髦的专业,毕业后直接改行当了公务员。是个真正为民服务的部门。一日,当她又长吁短叹说起她的工作,我问:“你做了这么久,还不喜欢?”
她说:“谁会喜欢?”
我问:“那你为什么不另外找份喜欢的工作?”
她说:“谁会喜欢工作?什么工作都是工作,跟喜欢无关。”
我说:“你不试试怎么知道呢?这么多事,总会有的。”
她看着我,一脸我在发高烧的样子:“你以为辞职、找工作那么容易?”
我确没有辞过职,但也知道辞职不易,摔铁饭碗更难,但难道宁可这样抑郁下去?以她的条件,找工作绝非难事。家里也没有负担。那畏惧什么?我以为,人是有义务找到一份于人于己有益的生活的。若果她真能体会到那为民服务的意义,大概就不会说出这些话来。而倘若我们活得更轻松快乐,对家人朋友难道不是一件有益的事?
近来颇有三两个辞职的消息传来,大抵是休息休整之类的缘由。看他们活得自在,我由衷高兴,更赞叹。
有苦有乐是人生,却无须专去舐那苦涩。
乱笔。