新幹線の混乱が長引いたのは残念だが、宮城県沖の地震で犠牲者が出なかったことは不幸中の幸いだった。大きな地震に繰り返し襲われてきた地域の人たちの、日ごろの備えや、とっさの踏ん張りが利いたようにも思われる。
それとは対照的に踏ん張りが利かなかったのが、仙台市内のスポーツ施設「スポパーク松森」の天井である。大きな揺れと同時に、割れた天井のパネル板がバラバラと落ちてきた。とっさに娘を抱きかかえてプールに飛び込んだ人の場合、頭と肩にパネルが当たったという。
人々が服を脱ぎ、気持ちの上でも無防備になっているところに容赦なく降り注いだパネルは、凶器そのものだっただろう。新しく開いたばかりの施設で、なぜこんなことが起きたのか。巨大な天井を設ける際の安全基準や設計、施工、検査について、十分検証してもらいたい。
柱はほとんどないのに、天井が大きく広がっている施設は珍しくはない。しかし、天井の裏側で何かとしっかりつながっているかどうかが気になることはある。
建物の棟上げなどで、工事の由緒や建築者、工匠などを記して天井裏の棟木に打ち付ける札を棟札という。古い時代の棟札にはこんな願いが書かれている。「天下和順」「日月清明」「地下安穏」「息災延命」「家族安寧」。歌を記した棟札もある。〈鶴亀は かぎりありけり いつまでも つきぬは 山と水と流れ〉(佐藤正彦『天井裏の文化史』講談社)。
暗くて見えにくい天井裏のようなところにこそ、安全を担う人たちは目を光らせてほしい。
周五 26 8月 2005
8月18日
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周五 26 8月 2005
8月17日
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日本の植民統治からの解放を韓国が祝う光復節の演説で、盧武鉉(ノムヒョン)大統領は対日関係には言及しなかった。中国では反日活動が中止された。小泉首相は靖国参拝を見送り、アジア諸国への「痛切な反省とおわび」を談話で表明した。
日中韓3国が、それぞれの事情を抱えて迎えた8?15だったが、ともかくも冷静さが見られた。問題は、首相や閣僚が談話の趣旨を体現できるかどうかだ。首脳や閣僚は互いに行き来して、対話を重ねてほしい。
日韓のふたりの詩人が、対談や書簡で対話を4年続け、それが『「アジア」の渚で』(藤原書店)としてまとめられた。高銀(コウン)さんは、韓国の代表的詩人で、投獄?拷問を受けながら民主化運動に力を尽くした。00年の南北会談では金大中(キムデジュン)大統領に同行した。対する吉増剛造さんは、言葉へのいとおしさのこもる表現で、豊かな生命力を宿 す詩を紡いできた。
高さんは、東北アジアの公海上に浮かぶ船で、東北アジアの詩人たちが一緒に詩を詠む日のことを語る。「われらは自分たちだけのものである陸地ではなく、みんなのものである海の大きな魂を謳歌(おうか)するはずです」
吉増さんは「海を掬(すく)い尽せ」という印象的な一句を発する。掬い尽くせるはずのない海の、はかりしれない大きさへの畏(おそ)れが感じられ、高さんの句と響き合う。
小泉談話は、日本と中韓両国とを「一衣帯水の間」と述べた。一筋の帯のように狭い海や海峡を間にして近接した間柄、というのだが、最近は隔たる一方だった。海を、国と国、人と人とをつなぐ渚(なぎさ)として見直してみたい。
周五 26 8月 2005
8月16日
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安達大成(だいなり)さんは「終戦の日」を旧満州で迎えた。12歳の中学生だった。ソ連との国境に近い小さな街で、いつものように外で遊んでいた。家に帰ると、母親から「戦争に負けた」と知らされた。えっ、それ何、という感じだった。
その数日後、ソ連の飛行機が現れた。上空からいきなり機銃で撃たれ、林の中に逃げた。安達さんは「日本では戦争が終わっていたが、私にとっては、この日から戦争が始まったようなものです」と話す。
まもなく、ソ連軍が街にやって来た。土木技師だった父は数カ月前に病死していた。母と2人の弟とともに収容所を転々とさせられる。その途中で、2歳だった下の弟は、母に背負われたまま死んだ。食べものにも事欠いた。自分がいなければ2人が助かる。そう考えた少年は黙って姿を消した。それが母や弟との長い別れとなる。
辺境の農場で働き、20代の初めに出会ったのが妻の素子さんだ。素子さんは開拓農民の娘だった。母と一緒にソ連軍の侵攻から逃げたが、母は亡くなり、中国人の養父母に育てられた。異郷で結ばれた2人の残留孤児が母国の地を踏んだのは、終戦から36年後だった。
旧満州には約150万人の日本人が住んでいた。そのうち、ソ連軍や地元民の襲撃、集団自決、病気などで、約20万人が死んだといわれる。同じ日本人でも、どこで「終戦の日」を迎えたかで、運命は変わった。
安達さん夫妻はいま、千葉県で月に6万円の年金で暮らす。妻は日本語が話せない。5歳年上の夫は「私が先に死んだらどうなるのか」と心配する。
周五 26 8月 2005
花事了
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经过园子,看到一棵不知名的花树,指甲盖大小的白色花瓣,纷纷扬扬地落了一地。树下停着车子,想必有一阵子了,更是雪片也似地盖了一层。这花,树,从前不曾注意过的;再看树上,绿叶下星星点点,也并不触目。只是这一地的落花,实在叫人惊心。
芳菲尽,又是一年。
窗下的木棉,今年开得旺。满树的红花,兀自招摇了一整个的春天。后来就一朵一朵的落下,落到水泥地上,连春泥也化不了,就被路人踩得七零八落。只余绿叶在枝头,连天空都暗淡了许多。
花事了,尚有满地落英,引有心人来凭吊;韶华逝,了无痕,时光将镜中人暗地里偷换了朱颜。
越走,好似步步惊心。
这一两年里,看着熟识的女子们,一步步地萎谢。三两年不见,刚还姹紫嫣红开遍,移形换景,一忽儿叶满枝头。貌美过的,还有盛时风光可以追忆;那姿色平平的,又有谁记得她羞涩的绽放?
可美人偏偏怕迟暮。门庭冷落鞍马稀的滋味,也不是个个人能受的。但凡这个时候,也惟有说一句:至少曾经,你是美人啊。剩余的,只有交给她慢慢品尝。
也有一些女子,经过岁月,却渐渐散发出醇香。这时,她返朴归真,世事洞明,却有着赤子般的率真;眼神淡定,内心丰厚,如取之不尽的宝藏。
这样的女子,自是世间少有;知道她的好,世间更少。
王晶这样评叶德娴,对很多人不懂她,他说:“她只是一个20岁女子的灵魂,住在40岁女子的身体里。”
有一些花,是开在灵魂里,和季节无关。
周三 17 8月 2005
“娶了个上海老婆”
Posted by yanmin under 闲聊
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一个北京司机,娶了个漂亮的上海老婆。儿子高考不及格,还美滋滋地说:“那小子,初一就谈恋爱。我就知道他没戏了。没办法,1米86的个,长得帅,随他妈。”又说:“这南方人吃得精。我那媳妇儿,会吃也会做。没说的。”
北京女婿去岳家。丈母娘做了一桌子菜。“全是这么一小碟(手一比,就像餐厅的茶杯托)。那么一小锅饭,盛在这么小一个碗里。我瞅着那一锅给我吃还差不多。就吃呗,鱼只有半条。刚吃完一碗,人家放碗,说吃饱了。问我饱不饱?饱!”
“第二顿,又有半条鱼,还是一小碗饭。饱不饱?饱!我忍!”
“谁知道,第三顿还这么着。我不行了。就跟我媳妇儿说,我帮你妈刷碗去吧。媳妇儿高兴啊!我进去一看,好家伙,这么点儿大的碗有七八个。我洗完了,把碗摞起来。一边讲话,用胳膊肘这么一拐,全给她摔地上。哈哈哈!然后我告诉我媳妇儿,叫你妈买大碗去,喂猫那?!”
北京女婿饿着肚子睡觉去。半夜四点,框框啷啷,吵醒了。问媳妇儿:“这干吗呢?让不让人睡了?”媳妇儿坏笑:“你自己看看去嘛。”
“好家伙!刷马桶呢。把那竹子劈成扫帚似的,刷那么大一木桶。哗啦啦的,那味儿,哟,我赶紧就上去了。”
“嗨,甭提了。回来就跟我媳妇儿说,要不怎么上海人个子小呢?都住胳肢窝长大的。”