Archive for 8月, 2005

  著名历史学家,原国务院学位委员会学科评定委员会历史学科评议组召集人、《中国历史大辞典》总编、上海市历史学会副会长、华东师范大学历史学系主任、中国史学研究所所长吴泽教授,因病于8月6日晚在上海华东医院逝世,享年92岁。



  吴泽原名吴瑶青,笔名胡哲夫、哲夫、宋鱼、宋衍等,1913年出生于江苏省一农民家庭。1930年代考入中国大学经济学系,师从李达、黄松龄、吕振羽等名师。大学三四年级时,他就发表了重要论文《殷代经济研究》,在学术界引起很大反响。抗战时期出版的《中国原始社会史》、《中国历史大系·古代史》和《中国历史简编》更是这一时期中国史学界的代表性成果。
  解放后,吴泽担任大夏大学校务委员会委员、文学院院长,并于1954年招收新中国第一批中国史专业的研究生。文革中,吴泽被诬为华东师范大学的第一号“反动学术权威”,从此被剥夺了教学权利。在艰苦的环境中,吴泽仍然没有放弃学术研究,在文革后期冒着巨大的风险书写《新唐书》中《藩镇列传》的研究笔记。此后,吴泽先后担任华东师范大学历史系主任等多种重要职务,十几年来桃李满天下,其中许多已经成为学科的带头人。吴泽在华侨史和客家学研究、中国史学史和史学概论的研究以及吴文化和常州学派的研究上,都卓有建树,著作等身,对中国历史学的发展起到了重要的推动作用。



  著名表演艺术家、原北京电影学院教授黎莉莉女士因突发大面积心肌梗塞,在北京宣武医院经抢救无效,于8月7日凌晨5时20分病逝,享年91岁。


  黎莉莉是中国电影默片时代著名女明星中最长寿的一位。上世纪三四十年代她出演的《小玩意》、《大路》、《塞上风云》等片曾风行一时。她的去世,标志着中国电影一个时代的远去。


  某日,googoo在校友录说:有一个做总监的同事溜了,以求学之名。现在一听到谁谁谁说要读书,心里第一反应就是猜想那个人要开溜。一说读书,不用交代新公司,不用接受挽留,感觉又进取,几好啊,但是需要继续说一个又一个新的谎言不断遮盖。


  其实,每次有人告知辞职的消息,总是为他们高兴。因为大多是两种情况:1) 有了新的目标;2)决意思量新的目标。鼓起勇气结束现有的一切和开始新生同样那么好,为什么不高兴呢?也许是年轻的缘故,至今不能从心底理解父辈关于退休的担忧,也不能认同换工作就是没有长性不踏实的观念。我只觉得,做事情,只要尽心尽力,善始善终,便无愧于心。至于是否在某一行业甚至某一单位穷极毕生的精力,就只能看各自的心向了。


  人生苦短,真正短得紧!我虽从不认为自己能得高寿,然而即使真能活到80,那么大学毕业之时,已是过去了1/4。20听着不是大数字,可1/4就不能小瞧了。譬如大学,过了大一酸甜苦辣五味杂陈的岁月,大二寻寻觅觅,大三如鱼得水,便迎来人心惶惶的大四。记得吗?最后两年,过得尤其快。第二个20年,糊里糊涂地成人了。还不知道自己是谁,想要什么,便要在这一期完成创业、成家、教子、养亲等许多重任。你说,才到40呢。可我以为,40以后的人,就像大三的学生,对学校的一切已是驾轻就熟,有了主人的感觉。他们正成为大小领域的中心,挥斥方遒。同此时,他们也受到新生力量的冲击,家里的孩子,单位的员工,还有日新月异的世界。听取?反驳?接纳?拒绝?犹犹豫豫、欲拒还迎、欲迎还拒之间,卸任、退休、更年期……接踵而来。是如鱼得水,也是如履薄冰、不容有失的第3/4。最后20年,没什么新鲜的。至好不过“万众”景仰,孝子贤孙,却美人英雄都已迟暮,有心无力了。若有人笑我这是上一辈的生活,那“二十一世纪的新人”除了“过劳死”去的,还有什么经验值呢?或者,谁又不在重复第2/4的故事呢?


  于是认为,只要想到要做的,就做。做好。工作与事业,全然不同的四个字组成两个词。对人,如果不能在工作中找到乐趣、快感、方向,不能将工作变成事业,便只是碌碌地履行职责。便是将这1/3的时间,交予老天玩弄。也能成功,也能获得褒奖,却没有更多的快乐。对事,即使只是炒一盘小菜,烹饪者的心情、喜好、热情等诸项看似主观且无关的因素无不跃然盘中箸尖。更何况工作?这便是我不以辞职为恶的原因,如不能爱上这个工作,不糟蹋也是慈悲。


  有过一位朋友,十年前学了至今热门实用且时髦的专业,毕业后直接改行当了公务员。是个真正为民服务的部门。一日,当她又长吁短叹说起她的工作,我问:“你做了这么久,还不喜欢?”


  她说:“谁会喜欢?”


  我问:“那你为什么不另外找份喜欢的工作?”


  她说:“谁会喜欢工作?什么工作都是工作,跟喜欢无关。”


  我说:“你不试试怎么知道呢?这么多事,总会有的。”


  她看着我,一脸我在发高烧的样子:“你以为辞职、找工作那么容易?”


  我确没有辞过职,但也知道辞职不易,摔铁饭碗更难,但难道宁可这样抑郁下去?以她的条件,找工作绝非难事。家里也没有负担。那畏惧什么?我以为,人是有义务找到一份于人于己有益的生活的。若果她真能体会到那为民服务的意义,大概就不会说出这些话来。而倘若我们活得更轻松快乐,对家人朋友难道不是一件有益的事?


  近来颇有三两个辞职的消息传来,大抵是休息休整之类的缘由。看他们活得自在,我由衷高兴,更赞叹。


  有苦有乐是人生,却无须专去舐那苦涩。


  乱笔。



 被爆60年の取材のため、長崎に来ている。昨日の参院での郵政法案否決の場面は、本社の長崎総局のテレビで見た。

 「江戸の敵を長崎で討つ」という言葉が思い浮かんだ。意外な所で、あるいは筋違いのことで昔の恨みをはらすという成句だ。この解散には、「参院の敵を衆院で討つ」感じがつきまとう。名付ければ「江戸の敵解散」か。衆院から見れば、通り過ぎていったはずなのに戻ってきた「ブーメラン解散」でもある。

 これを「筋違い解散」と呼ぶ向きもあるだろうが、世間一般の受け止め方はどうだろう。昨今の八方ふさがりのような気分を転換して、見通しの良い世の中に向かうきっかけになるのなら解散もいいという機運もあるようだ。

 前回の03年の解散は、かなり前から解散説が流れていたので衝撃は小さかった。予告された「透け透け解散」とか、解散の大義が見えにくい「大義なき解散」などと、本欄で呼んだ覚えがある。

 今回は、決着の間際まで小泉首相の一言が注目された。「殺されてもいい。おれは総理大臣だ」。首相にとっては、「いのちがけ解散」ということか。「かむんだけど、硬くてかめないんだよ」。首相との最後の談判の後、森?前首相は、つまみに出されたというチーズのかけらを手に「変人以上だ」と評した。「超変人解散」とでも言いたいところか。

 首相は「おれの信念だ」とも述べたという。強い「信念」を持っているのは確かのようだが、問題はその中身ではないか。「おれの信念解散」に続く総選挙では、その中身を改めて吟味したい。

 作家の堀辰雄が4歳か5歳で見た花火の群衆の記憶を「幼年時代」に書いている。ものごころつく前だったのに、花火見物の人波に押されて母の背で泣きじゃくったことは鮮明に覚えていると。年譜によれば明治40年ごろ、東京?隅田川の花火を見たようだ。

 隅田川の花火は徳川吉宗の時代にさかのぼる。江戸庶民に人気のあまり雑踏事故が何度か起きた。明治の半ばにも橋の欄干が崩れて数十人が転落死した(小勝郷右『花火-火の芸術』岩波新書)。

 今年も全国で大小700もの花火大会が開かれている。どこも資金不足に雑踏対策が重なって、かなりの難事業になりつつある。たとえば千葉県の印旛沼花火大会の場合、毎年30万人を集める行事だったが、今夏は中止された。4年前に兵庫県明石市で起きた事故の教訓で警備費が膨らみ、一方で協賛金が集まらない。

 主催の佐倉市観光協会の斉藤啓光さんは「明石の事故は各地の花火を変えた。どこも警備費を増やし、観客の誘導が綿密になった」と話す。以前なら50人で足りた警備員を昨年は299人雇った。

 花火での雑踏事故は海外にもある。英国では18世紀、王族の結婚を祝う花火で群衆千人がテムズ川に転げ落ちた。カンボジアでは約10年前、国王誕生日の花火に市民が殺到して死者が出ている。

 「地獄絵図さながらの群集雪崩」。明石の惨劇を、神戸地裁の判決はそう表現した。善意の群衆がたちまち他人を押しつぶす暴力装置に変わる。あの怖さを胸に刻みつつ、この夏もどこかで、夜空を彩る一瞬の美を楽しみたいと思う。

 きょう、広島市の平和記念公園では、被爆から60年の平和記念式が開かれる。式場に近い図書館の庭に、英国の詩人、エドマンド?ブランデンの詩碑がある。

 「かの永劫の夜をしのぎ はやもいきづく まちびとの……とはに亡びし もののあと たちまち動く 力あり」。戦前、東大で英文学を教えたこともある親日家のブランデンは、被爆から3年後の広島を訪れ、焦土から立ちあがろうと力を尽くす人々の姿にうたれた。

 「ヒロシマ よりも 誇らしき 名をもつまちは 世にあらず」。末尾には「友?寿岳文章 訳」とある。

 この60年、「ヒロシマ」と「ナガサキ」は、反核兵器のメッセージを世界に発信し続けてきた。原爆の惨禍を展示した平和記念資料館に置かれている「対話ノート」にも、外国人の書き込みが目立つ。ノートは900冊を超え、約90万人のメッセージから326人分を収めた『ヒロシマから問う』が出版された。

 原爆を投下した米国人に、二通りの感想が見える。「このミュージアムは私の国の間違った行為について私にはっきりと教えてくれました」。「このミュージアムは、世界平和のための希求よりも、日本人に対する哀れみのための希求をより印象づけようとしているようだ」

 感想はどうあれ、広島、長崎に来れば、核兵器を使うことの実相の一端に触れることができる。いつの日か、米国の大統領が広島、長崎を訪れ、その実相と向き合う時は来るだろうか。せみ時雨に包まれたブランデンの碑の前で、その日が遠くないことを願った。