Archive for 8月, 2005


  一个北京司机,娶了个漂亮的上海老婆。儿子高考不及格,还美滋滋地说:“那小子,初一就谈恋爱。我就知道他没戏了。没办法,1米86的个,长得帅,随他妈。”又说:“这南方人吃得精。我那媳妇儿,会吃也会做。没说的。”


  北京女婿去岳家。丈母娘做了一桌子菜。“全是这么一小碟(手一比,就像餐厅的茶杯托)。那么一小锅饭,盛在这么小一个碗里。我瞅着那一锅给我吃还差不多。就吃呗,鱼只有半条。刚吃完一碗,人家放碗,说吃饱了。问我饱不饱?饱!”


  “第二顿,又有半条鱼,还是一小碗饭。饱不饱?饱!我忍!”


  “谁知道,第三顿还这么着。我不行了。就跟我媳妇儿说,我帮你妈刷碗去吧。媳妇儿高兴啊!我进去一看,好家伙,这么点儿大的碗有七八个。我洗完了,把碗摞起来。一边讲话,用胳膊肘这么一拐,全给她摔地上。哈哈哈!然后我告诉我媳妇儿,叫你妈买大碗去,喂猫那?!”


  北京女婿饿着肚子睡觉去。半夜四点,框框啷啷,吵醒了。问媳妇儿:“这干吗呢?让不让人睡了?”媳妇儿坏笑:“你自己看看去嘛。”


  “好家伙!刷马桶呢。把那竹子劈成扫帚似的,刷那么大一木桶。哗啦啦的,那味儿,哟,我赶紧就上去了。”


  “嗨,甭提了。回来就跟我媳妇儿说,要不怎么上海人个子小呢?都住胳肢窝长大的。”


 終戦の翌々年の生まれなので、その日のことは直接には知らない。しかし昭和20年、1945年の8月15日は、頭のどこかに住みついているような気がする。この日を、あるいはこの日に至る日々を伝えるものに接する度に、その意味を考えさせられてきた。

 さまざまな人の日記に、その日の思いが記されている。それぞれにひかれるものはあるが、「戦後還暦」の年に改めてかみしめたいのは作家?大佛次郎の『敗戦日記』(草思社)の一節だ。

 「自分に与えられし任務のみに目がくらみいるように指導せられ来たりしことにて……」。軍人たちが敗戦という屈辱に耐えうるかどうかを思い惑って眠れないというくだりだが、ことは軍人に限らない。

 「与えられた任務のみに目がくらんだ」のは、国民のほとんどだった。戦争が始まり、ことここに至っては軍人は軍人の、政治家は政治家の、あるいは親は親の、子は子のあるべきだとされる姿に向かって突き進んでしまった。国そのものの向きがどうなっているのかという肝心なことは見ず、それぞれに与えられたと思う狭い世界に閉じこもった。

 国民の、ある種のひたむきさには胸がつまる思いもするが、歯止めの無い奔流は、自国民だけではなく周辺国などを含むおびただしい人の命を奪い去った。メディアもまた、本来の任務を踏み外していたと自戒する。

 今日は追悼というだけではなく、与えられた任務のみに目がくらんでいないかどうか、それぞれの場で問い返したい。この今を「戦前」などと呼ぶ日の来ることがないように。

 中米コスタリカ出身の女性マリセル?フタバさん(50)は東京在住23年、日本語の新聞も大意ならわかる。「コスタリカ消滅」「コスタリカ崩壊」。先週そんな記事が目に飛びこんできた。母国で何か大変なことが起きたらしい。

 料理店を営む夫の二葉新一さん(58)に尋ねた。「コスタリカ」は日本独自の選挙用語で、同じ党で地盤も重なる候補者が共倒れを防ぐため、小選挙区と比例区に交代で立つことを指す。言われていっそう混乱した。私の国にそんな制度はない。

 コスタリカ国会は一院制で57議席すべてが比例式で決まる。中南米の政治に詳しい富山大の竹村卓教授によると、腐敗を避けるため議員の連続当選が禁止され、任期を終えたら4年待たないと再挑戦できない。日本のコスタリカ方式の実情を現地で説明すると、だれもが「誤解だ」「印象が悪い」と困った顔を見せる。

 日本で中選挙区が廃止された90年代、候補者の一本化が各地でもつれた。編み出されたのがコスタリカ方式だ。日本コスタリカ友好議員連盟の重鎮、森喜朗前首相が提案したと当時の記事にある。連続当選禁止が念頭にあったようだが、いかにも強引なこじつけである。

 共存共栄のコスタリカの誓いがこの夏、相次いで破られつつある。郵政法案に反対した前議員が公認を得られず、小選挙区で同じ自民党の賛成派候補に正面からぶつかる。

 刺客、弾圧、大獄、国替えなど乱世を思わせる言葉が飛び交う。おりしも今月半ば、コスタリカから来日するパチェコ大統領の目に、日本の選挙はどう映るのだろう。

 「八月十三日……日本はまだ決断しない」。45年8月、ドイツの作家トーマス?マンが、米カリフォルニアで記した。ナチスに抗して亡命しており、大戦の決着をそこで見つめていた。

 8月の日記には「原子爆弾による広島市の不気味な破壊」「長崎市に投下。天に向かって巨大なきのこ雲」などとある。「十四日 日本の無条件降伏、すなわち第二次世界大戦終結のニュースがあらしのように伝わる……日本軍は完全にその狭い島へ追い返される」(『トーマス?マン 日記』紀伊国屋書店)。

 マンは「魔の山」や「ブッデンブローク家の人々」などで知られる。29年にはノーベル文学賞を受けたが、ナチスによる焚書(ふんしょ)に遭い、終戦後もなかなか帰国しなかった。

 48年の元日、本紙に「日本に贈る言葉」を寄稿した。「日本の古く高貴なる文化」への好意を語り、敗戦に触れる。「日本が無謀な支配層のために冒険に突入すること、その結果が必ずよくはないだろうことを私は前から信じていた」。しかし敗北にも「利点」はあり、勝者は自分たちのものは最良という結論に陥りやすいと述べる。

 さらに「『平和』こそ人間生活の至上の概念かつ要請」であり「その厳粛さの前に立てば如何なる国民的英雄も精神も時代遅れな茶番でしかない」という。そして「人類の召使として生きる時その国民の上に光栄は輝くであろう」と結んだ。世界大戦を繰り返した故国への苦い思いと、新生?日本への期待が込められている。

 やがてマンはスイスに移住し、50年前の8月12日に80歳で他界した。

 あれから二〇年、本当に、いろいろなことがありました-。520人が死亡した日航ジャンボ機の墜落事故から、今日で20年になる。それを機に出版された遺族の文集『茜雲(あかねぐも) 総集編』(本の泉社)で、美谷島邦子さんは、9歳だった息子の健君に語りかけるように文をつづっている。

 「今も、君のノートや鉛筆がここにあります。夏休みのヘチマの観察日記は、『八月一一日つるがのび、小さいつぼみがみえた』という事故の前日に書いた文字で終わっています。お父さんは、この文字をいまだに見たがりません」

 弟夫婦とめいを亡くした池田富士子さんは、文に短歌を添えた。〈あまりにも 早きに逝きし弟の 歳をおりてはまた胸あつくす〉。弟夫婦の遺児ふたりは大勢の人に支えられて成長し、今は結婚してそれぞれ幸せに暮らしていますとあり、末尾には生存者のひとり川上慶子さんの伯母と記されている。

 事故の翌日、生存者発見の報が本社に届いた時のことは、今もなお記憶に新しい。あわただしく夕刊の記事を書いていた記者たちの間にも、言葉にならない感動が走った。

 絶望的な色合いの濃かった紙面を取り換える。直後に社会部から原稿を受け取った入力担当部員も、涙をこらえながらキーボードを打ったという。

 二度と繰り返してはならない巨大事故だった。遺族の会「8?12連絡会」の事務局長を務めてきた美谷島さんは、文をこうしめくくっている。「二九年間、健ありがとう。……これからも君と一緒に空の安全の鐘を鳴らし続けていきたいと願っています」

 平らな地面に、わざわざ高い枠を置く。ひとつだけではなく、その先にもそのまた先にも置いておく。ハードルが立ち並んだ障害競走のコースには、人間がスポーツのルール作りで見せるユーモラスな一面が映っている。

 英国に源流があるという。牧羊業などで土地の「囲い込み」が起きた後、できた垣根を使った馬による競走の時代があった。現在のような競走の元は、19世紀半ばのオックスフォード対ケンブリッジの大学対抗戦のレースだった。羊の囲いが使われた(宮下憲『ハードル』ベースボール?マガジン社)。

 昨日の未明、寝苦しさで起きてテレビをつけると、陸上の世界選手権を中継していた。為末大選手が出る400メートル障害の決勝が始まるところだった。ヘルシンキはどしゃぶりだ。これも一つの障害かと思った時、号砲が響いた。

 選手がハードルを越える瞬 間の形が美しい。足を思い切り伸ばし、一方の足を素早く持ちあげる。前傾した上体と道筋を読む目が、獲物を追うしなやかな動物のようだ。

 最終コーナーを回る頃、為末選手の口がかすかに開き、ほほえんだように見えた。最後はもつれたが倒れ込んで銅メダルを手にした。不振、不運、父の死を経て「勝利」をつかんだ。雨と汗と涙の入り交じるゴールインだった。

 宇宙からは、野口聡一さんたちのスペースシャトルが、無事ホームインした。難しい任務をしっかり果たしたという満足の笑みもいい。天と地と、ふたりの道は違っても、ハードルを乗り越えた姿には、周りをも力づける輝きが宿っている。

 9日午前11時2分、長崎市の「原子爆弾落下中心地」の碑の下から空を見上げた。太陽が目を射る。60年前のその時、地上約500メートルの所で原爆が炸裂(さくれつ)した。

 太陽が落ちてきたようなありさまを想像する。直後の映像や被爆した人たちの証言、原爆の資料館の展示などを念頭において周囲に目をこらし、また瞑目(めいもく)して考える。来るたびにそうするが、実際に何がどうなったのかを想像できたというところには、とうてい至らない。やはり、人間の想像をはるかに超えるおぞましい行為が人間によってなされた現場というしかないのか。

 8日、爆心地から1キロ余りの所にある長崎大学の構内の慰霊碑の前で、花に水をやる女性がいた。今年で70歳という女性は、小学校5年の時に被爆した。爆心からやや離れた自宅に居たため生き延びたが、当時この地にあった兵器工場で働いていた父親を失った。「遺体も見つかりませんでした」。60年間、父は行方不明のままだ。

 9日、爆心地近くの丘に立つ浦上天主堂で「被爆マリア像」が公開された。もとは大聖堂の祭壇に飾られていたが、あの日、わずかな側壁を残して建物が吹き飛んだ。後日、木の像の胸から上だけがみつかった。

 間近に見ると、ほおや髪が焦げている。眼球が抜け落ちた両の目は、黒くうつろで、底知れない二つの闇のようだ。

 いたましい姿だが、不思議な生命力を感じさせる。像の失われた部分は、長崎であり、広島ではないか。マリア像はその存在の証しであり、その記憶を未来に伝えようとしているように思われた。